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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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純粋なナルドの香油が意味するもの
 
「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」

     ヨハネ12:3



マリアが主に捧げた香油は「純粋で」と書かれてある。これはギリシャ語でいうピスティクス」=純正な、混ざりもののない という意味だそうだ。

つまり全人格、全存在をかけて拠り頼むという意味を持つのが、「ピスティクス」から来た言葉で、新約聖書では、信仰とも訳されている。

そのことから、マリアは純粋な、混ざりけのない主に信頼しきった信仰を捧げたということを表している。

その香りが部屋中にいっぱいになった・・・そのような意味で思う時、いかに主にとって満足する香りが部屋に満ちていたことだろうと感じさせられた。

そして、ただ香りがいっぱいになったということだけではない、この「いっぱいになる」は、「成就する」の意味でもあるそうだ。

 マリアの捧げた信仰によって、成就したということ、

これは驚くべきことではないだろうか・・・。

神はお一人で全てを、そう、何でもできる、全能なるお方であるのにもかかわらず、
私たち人間を創造したときから、あえて人なしでは何もなさらないかのような立場を取られたことを思う。

主イエスご自身「自分からは何事も行うことができません、」と語られた。
 それは、イエスご自身、人としてこの地上を歩まれた時、御父に対し、たえず霊的な純粋なナルドの香油=御父に信頼しきった信仰を捧げたことを通して、あらゆることが神によって成就されたことを思った。まさに、御父と御子はひとつであられたのだ。

純真な混ざりけのない信仰といっても、人間のうちにはない。
全ては神の側から与えられるものである。

ただイエスの信仰だけが、全てを成就する力、神の満足な香りであること、その全てを含む御名が与えられているということは、なんという驚きであろうと思う。

  
 



| 御言葉の分かち合い | 06:56 | comments(4) | trackbacks(0) |
骨からの骨 肉から肉
  
  「これこそ、今や。私の骨からの骨、

 私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」

    創世記2:23

神はアダムを深い眠りに下され、彼のあばら骨から女であるエバを造られました。

これは深い真理が隠されています。

一人の人アダムからエバが造られたのです。
エバがアダムの中にいたように、私たちも彼、アダムの中にいたのです。
そのアダムに罪が入り、彼の中にいた私たちも
彼の罪の性質を受け継ぐものとなってしまいました。

 最初の人アダムの中にいた私たち。アダムと共に死んでいたような私たちを救うために、キリストが十字架でわき腹を刺し通され血と水を流され、罪の贖いを成し遂げて下さいました。

深い眠り(死)と復活を通して、新しいアダム、第二のアダムであるキリストのわき腹、新しくご自身の体から教会であるいのちをうまれさせてくださったのです。
キリストのふさわしい
助け手として、キリストと愛し合い、一体とされる花嫁として日々、
 「その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くす」
ように、キリストの花嫁として、共に生き、キリストの似姿へと成長するものとしてくださいました。

 
そして

キリストにある兄弟姉妹も、キリストの同じ御体、まさに骨からの骨、肉からの肉なる存在として、互いに愛し合い、助け合い、仕えあうことは

 なんと自然なことでしょう。

 自分の体がどこか傷ついているとしたら、そこにあえて塩をすり込む人がいるでしょうか。かえっていたわり、
傷口に薬を塗リ、その部分を包帯し、やさしく包むのです。

 主が私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合うように、私たちを召してくださいました。

  
その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、
主のいのちを流し合うのです。

私たちの体のどんなところをも血液がその細部にいたるまで流れ込んでいます。

そのいのちが(いのちは血の中にある)流れないところは、やがて壊疽を起こすのです。

いのちを流し合うこと、それはただ単に御言葉を語り合って満足するようなことではありません。いのちの交わりはことばを超えています。交わりの中心には十字架があるのです。十字架こそ、真実の愛が余すところなく現されたのです。そして、十字架こそ、一切の不純物を焼き尽くす力だからです。

キリストから注がれてしまった愛の中にとどまることを通して神の愛が現され、真実に互いに愛し合う者としてくださるのです。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。 」
   ヨハネ15:9

 キリストの名が,「インマヌエル」であることはなんと素晴らしいのでしょう。

 その名の中に私もとどまります。

 主が愛してくださったように、愛し、

 主が共にいてくださっているように、共にいることを心から願っています。

 主を信じる全ての愛する兄弟姉妹が
 
 キリストにあって、一つの信仰、一つの霊、一つの体。

 霊的な骨からの骨、肉からの肉であることを感謝いたします。

 同じ御体の部分として豊かに接合され、一つに結び合わされてゆきますように。

 そしてどうぞ、痛み、苦しみ、病を覚えておられる兄弟姉妹の上に、主の深い愛がその人の霊の奥底に触れ、
主から流れるいのちの慰めと励ましに包まれますように

 肉の体をも強め、打たれし傷のゆえに癒してくださったおことばとおり、兄弟姉妹の上になされますように。

 そべての出来事の中で主を認め、そのところで主を拝することができますように。


 
| 御言葉の分かち合い | 22:50 | comments(1) | trackbacks(0) |
現実のど真ん中に

透析のベッドのうえで何げなく開いたところから聖書を読んでいた。

そんな中で、ストーンと心に入ってきた御言葉

 
  
さて、ファリサイ人たちに、いつ神の王国は到来するのかと問われ、彼は彼ら

に答え、また言った、「神の王国は、観察しうるようなさまで到来することはない。

人々が『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』などと言うこともない。なぜな

らば、見よ、神の王国はあなたたちの〔現実の〕只中にあるのだ」。

   ルカ17:20.21


   
  神の国はあなたたちの現実の只中に・・・。

 もっと言えば、現実のど真ん中にある ということだ。

 そして岩波訳の注解にはこのようにあった。

 「一つ一つの現実が神の王国の活ける「譬」そのものであるという主旨。それは心の眼を開かぬ限り、客観的に「観察」してわかるものではない。」


  なんという大胆な注解だろう!

 私自身の現実のど真ん中に・・・

 そう思ったとたん、この透析室のベッドの上で、こうして透析を受けているという今この現実のど真ん中に、主がおられるということ・・

 なんということだろう・・・!

 
 主の深い臨在を感じ、ただ、御名を呼び、主を拝した。

 涙があとからあとから溢れてきて止まらなかった。
 
  

  「まことに主がこの所におられるのに、
   わたしはそれを知らなかった。」

       創世記28:16



 福音を信じるとは、生きた空間その真っ只中で、イエスに全幅の信頼を持つことである



         
         *☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*

 
     


  明日は遠方から愛する姉妹が来て下さる。

   交わりのど真ん中に主がおられる

      私には何もなくても、
  愛するお方はすべてを持っておられる

   もはや私が生きているのではなく、
  キリストがわたしのうちに生きておられる

   お言葉とおりこの身になりますように

    一切を御手にゆだねます。

 あの方は盛んになり、私は衰えますように

      主の栄光がたたえられ、

  御名が高らかにあがめられますように!

    旅の道のりがあなたの中で
      まもられますように

    主の名によって  アーメン
        

| 御言葉の分かち合い | 19:41 | comments(10) | trackbacks(0) |
  
 少し前の礼拝メッセージで

 ヨナ書4:1〜「神の御旨と人の恥」というメッセージが語られたことがあった。

 ヨナはニネベの町に対して主の言葉を告げて歩いた。

 「もう40日すると、ニネベは滅ぼされる。」

 が、そのことを聞いた、ニネベの人々は、神を信じ、ニネベの王までもが悔い改めたのである。

 「神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。」

 ところが、このことをヨナを非常に不愉快にさせた。と4章ははじまる。

彼がニネベの町を歩き回り、告げ知らせたとおりにならなかったことは、彼にとって生き恥をさらすような思いになったに違いない。彼の言葉
 
 「主よ、今、どうぞ、私のいのちを取ってください。わたしは生きているより死んだ方がましですから。」

 と神に対してふてくされたような言葉だった。

 その言葉に対して主は、

 「あなたは当然のことのように怒るのか。」

という問いかけに返事もしていない。

  
 大きな町を3日もかけて歩き、主の言葉を伝えて歩いたのに、そのとおりにならなかった。自分は嘘つき呼ばわりされ、偽預言者扱いされるぐらいなら、死んだ方がましだ。と言わんばかりである。

 でも結果的に、このヨナが恥を負うことが、ニネベの人々を救ったのだ

 イエスキリストは、私たちのために恥を負って十字架にかかられた。

 主が恥を負ってくださることがなければ、私たちは救われなかったのである。

 恥を通して現される神の御心がある。
 
  そのことに触れたメッセージだった。


  
ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
        へブル13:13

 
キリストにあって苦難をともに負うだけではなく、はずかしめをも負うことを恐れてはならないことを思わされる。

十字架という最も大きな恥を主はその身に負われ、いのちをも捧げられた。そのことを通して
 
 私の罪は赦されただけでない、私の恥をもその身に負ってくださった

 ゆえに私はもう自分の恥を自分で被おうとはしなくてもいいのだ。

 愚かさのまま、弱いまま、足らないまま 欠けだらけのまま

 キリストにあって踏み出せばいい

 主のいのちは私の弱さを通して

 御心を現してくださる 

 いえ、むしろ

  私のもっとも恥である所さえも主の尊い御名の栄光を

 溢れんばかりに現すところとしてくださったのである。

 ハレルヤ!


 ゆえに私は詩篇を歌いましょう

 
「測り綱は、私の好む所に落ちた。

 まことに、私への素晴らしいゆずりの地だ。

 私は助言をくださった主をほめたたえる。

 まことに夜になると、わたしの心が私に教える。

 私はいつも、私の前に主を置いた。

 主が私の右におられるので

 わたしはゆるぐことがない

 それゆえ、私の心は喜び、

 私のたましいは楽しんでいる

 私の身もまた安らかに住まおう

 まことに、あなたは、私のたましいを

 よみに捨て置かず、

 あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。

 あなたは私に、いのちの道を

 知らせてくださいます。

 あなたの御前には喜びが満ち

 あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」
 
             詩篇16:6〜

   
| 御言葉の分かち合い | 07:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
初めの愛
 
先日ある姉妹と交わっていて、「初めの愛」という聖書の言葉に触れた。


「あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。

だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。」

 黙示録2:4〜


  わたしはギリシャ語はわからないけど、直訳から言葉を拾ってゆくと、

まず、 第一である愛をあなたは放置した。

そして、思い起こし続けろと、  何処から あなたが落ちてか、そして あなたは思考変換しろ そして その 第一らを 業を あなたは行え。」

 と書かれてあった。


 業。。というところからわたしはヨハネの福音書6:28,29の御言葉を思い起こした。

「すると彼らは彼に向かって言った、「神の業をなしていくために、私たちは何を行なえばよいのでしょうか」。

イエスが答えて、彼らに言った、「神が遣わした者を信じること、これが神の業である」。

 
初めの愛、第一とすべき愛を放置したとは、御子イエスキリストご自身そのものであり、第一とすべきの業とは、まさに遣わされた方を信じること、信じ続けることにあるのではないだろうか。

 神を愛することは信じること、その初めの愛に帰るようにと

 促されていることを深く思う今日この頃です。


 

| 御言葉の分かち合い | 09:44 | comments(1) | trackbacks(0) |
朽ちゆくものが不朽なるものを

461550さて、兄弟たちよ、私はこのことを言っておく。すなわち、肉と血とは〔そのままで〕神の王国を受け継ぐことはできないし、朽ちゆくものは〔そのままで〕不朽なるものを受け継ぐことはない。

461551見よ、私は奥義をあなたがたに告げる。私たちすべての者が眠るわけではなく、むしろ私たちすべての者は変えられるであろう ――

461552たちまちのうちに、一瞬のうちに、最後のラツパの〔鳴り響く〕うちに ――。

なぜならば、ラッパが鳴ると、死者たちは不朽なる者として起こされ、そして私たちは変えられるだろうからである。

461553実際、この朽ちゆくものは、不朽なるものを着、この死にゆくものは、不死なるものを着なければならないのである。

461554この朽ちゆくものが不朽なるものを着、この死にゆくものが不死なるものを着る時、その時書かれている〔次の〕言葉が〔出来事として〕起こるであろう。〔すなわち、〕

死は勝利に呑み込まれた。

461555死よ、汝の勝利は何処にあるのか。

死よ、汝の刺は何処にあるのか。

461556さて、死の刺は罪であり、罪の力は律法である。

461557しかし、私たちの主イエス・キリストをとおして私たちに勝利を与えて下さる神に、感謝すべきかな。

 

  この御言葉は、決して未来に起こることとしてだけの言葉ではない。

 朽ち行くものが不朽なるものを着、死にゆくものは不死なるものを着る

 この御言葉の実際の中へ、主は愛する者を導かれる。

 イエスご自身、時をが満ちて、栄光を受ける時がきたと言われ、十字架へと向かわれた。

 主は愛する者をイエスのように、とき満ちて十字架の死の実際へと導かれる。

 それは本人にとって、人生最大の一撃のような痛みを受ける場所であり、それは死の場所である。

 もがきすら失う場所である。すべてが剥ぎ取られる場、それは悪しきものばかりではない。

 私にとってよきものと思っている、賜物、熱心さ、私の信仰、祈り・・それすらも剥ぎ取られる、まさに死の様におかれる場所だ。

 ところが、その場所にとどまる者を、神がキリストが死者の中から起こされたように、

 キリストと共に死の様から起こされるときがくる

 神ご自身が墓を開き、私たちを墓から起こしてくださる。

 キリストと共に死んでいた状態からキリストと共に起こされるのである。
 
十字架の死、まさに朽ちゆくものが不朽なるいのちへ、死に行くものが不死なるいのちへと移される経験を、私のこととして経験し、御子の信仰へと移される
 
そしてそれは十字架の歩みへの一歩となる。
 
主は 日々十字架を負って、そして私についてきなさいとおっしゃった。

 十字架は日々負ってゆくもの。

 そして、日々十字架は恵みによって与えられ、死にとどまることを通していのちに移される

 十字架を通されて私たちはイエスというお方を真に知るのである。

 歩みの遅い私でさえも、主は忍耐を持って十字架へと導かれる。

 
  朽ちゆくものが不朽なるものを着、死にゆくものが不死なるものをきる、日々の十字架の歩みの先に
 (それは線のようにつながっている)たちまちのうちに、一瞬のうちに、最後のラツパの〔鳴り響く〕うちに 出来事としての復活が起こるのである   



 「死は勝利に呑み込まれた。

 死よ、汝の勝利は何処にあるのか。

 死よ、汝の刺は何処にあるのか


   天の御国はすでに信じる者の内に始まっているように、

 日々十字架を負うことを通して、小さな死と復活は信じる者のうちにすでに始まっているのである
 
 

| 御言葉の分かち合い | 22:54 | comments(4) | trackbacks(0) |
キリストのうちにあるなら

「Nさんと一緒にいるだけで、とっても癒されるわ、ありがとう^^」

と私は彼女に言った。

その言葉を彼女は信じられない様子でこのように言った。

 「私はいつもおばさんから、「お前は父親に顔も性格も似て、ほんと、意地が悪く、おまけに短気,お前と一緒にいるとイライラしてくる。だから透析室でも、ディサービスでもおとなしくしてないと、みんなに嫌われるに。」とずっと言われ続けているから・・・。」
 と言った。

 私は彼女に

 「おばさん・・きっとお父様との間に、いい思い出がなかったのね。おとうさんの顔に似ている○○ちゃんを見ると、お父さんと重ねて見てしまい、ついイライラしてあなたに当たってしまうのかもしれないわね・・。

 そして人は心が罪によって汚れているの、正しく見る目さえ失っていて、それはちょうど歪んで見えるめがねをかけて、見てるのと同じ。
何を見ても歪んで人も物事をとらえてしまう。 

 主を信じた人は、新しくされた目で物事を見ることができるようになってくる^^

今度、おばさんに、また同じことを言われたら、

「あぁ、おばさんは歪んだめがねで見てるんだ」って思っておばさんを許してあげてね。」

 Nさんは、嬉しそうに「新しくなったんだもんね」と胸をなでおろし、にっこりと笑った。

  



「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 」  

                 第二コリント5:17

   キリストのうちにあるなら、その人はすべてが新しく・・
新しいいのちは、この肉の体の中に隠されていて、一見、何が新しいのか見分けがつかない。しかし、
 
「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。 」とお言葉にあるとおり、

まったく新しくされたいのちは、かの国においては誰の目にも明らかとなる。

 この地上でこの体を持って生かされている間、新しいいのちは恵みによって十字架を経るたびごとにとキリストの似姿へと変えられ続ける。

 たとえば、有精卵と無精卵、はじめは見た目は何も変わらない、どちらも同じ卵である。

しかし、いのちが卵の中に宿っているのか、そうでないのか、は明らかな違いだ。

どちらも卵の中は、はじめは液状のものだが、いのちある有精卵は、母鳥の体温によって温められ続け、た・ま・ご・の・中・で・やがて母鳥に似た形へと変えられ、時が満ちれば殻を破ってその姿を現す。

一方、いのちのない卵は、いくら温めようと中身は変わることはなく、むしろ、腐敗する。

 神はまるで母鳥が卵を温めるように、私たちをこの殻である体ごと大切に御翼の中で守ってくださっている。

「卵を抱く」ということは、卵に適した温度、湿度、空気を与え、さらに卵を転がすなどの動作を一定期間行うことなのです。
 
御翼の中で温め守られている、人生という一定期間の間、神はいつでもちょうどよい環境を整え、計り与え、ときには転がして、成長を促して下さっているのである。

 殻の中からは、母鳥の姿を見ることはできない。

 しかし、やがてこの体なる殻を破って出る時には、母の鳥の姿を見るように、顔と顔をあわせて主を拝する時が来るのである。

 

「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 」
 
           第一コリント13:12


         

| 御言葉の分かち合い | 06:25 | comments(6) | trackbacks(0) |
実際に入ってゆくこと
   
  私はキリストと共に十字架に付けられてしまった結果、
    今私は死んでいる。
  だから、もはや私が生きているのではなく、
  キリストが私の中で生きている。
  というのは、今私は肉の中で生きており、
  私を愛しそして私のために
  ご自身を引き渡された神の子の信仰の中で、
  私は生きている
  
    ガラテヤ2:20 ( MKさん訳 )


  御言葉の実際に入ってゆくことはただ、ただ主の恵みによる。

 この御言葉の意味に触れ、十字架を説いていたとしても

 御言葉の素晴らしさに圧倒されつつも、まだ実際に食するまでには至っていない、ということがはるかに多い。

 たとえば、砂糖を食べたことがない人に、砂糖について分析、
砂糖の主成分、・・「ショ糖」と呼ばれる物質でブドウ糖と果糖が一分子ずつ結合した炭水化物(糖質)の一種で、普通の精製糖やてん菜糖はショ糖分がおおむね97%以上含まれています。

・・などと詳しく説明したとしても、砂糖の甘みを知ったということではない。

 砂糖の成分の実際を十分に理解し、説いていたとしても、

 その甘みを真実に知っていることと同じではない。

 実際の甘みを知るのは、舌によるしかないのである。

御言葉を知るということは、実際に食べ、味わい、腹に下ってゆき、消化吸収され、いのちとなり、それによって生きることによる。

 実際に食している人たちにとって、もはや分析も、それについての議論も、必要に感じられなくなる。

 食べている人にとって それを言葉に表そうとすればするほど、言葉が独り歩きして、実際とはかけ離れて行くようにさえ感じられる。

 砂糖の甘さを言葉で十分に伝えることは不可能であるように

 舐めてみれば、すべてを理解し、言葉はもはや不要となるのである。

 
| 御言葉の分かち合い | 06:45 | comments(6) | trackbacks(0) |
まことの陶器師の手の中で


 「イスラエルの家よ、この陶器師のように、

わたしがあなたがたにすることができないだろうか。

 〜主の御告げ〜

 見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、

 イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。 」 
        
                エレミヤ18:6



  透析から帰って、横になりながら、何気なく見ていたテレビに釘づけになった。

 陶芸の番組だった。

 ろくろの上に粘土を中央に置き、水をなじませながらする作業は

 「土を殺す」という作業だった。

 上へと粘土を延ばしながら、それをまた倒し、また延ばし、という作業を繰り返しながら、粘土を殺してゆくのです。

 それは粘土をろくろの回転になじませ、横を向いたりして土が暴れないように押したり引いたりして中心をあわせます。 


 このろくろへの作業の前に、「菊練り」と言って粘土をよく練る作業があります。

 この工程には意味があり、ただ単に練るという事ではなく、空気や異物が押し出され、ロクロ成形をしやすい状態にするのです。
荒練り、菊練りが十分でないと土殺しはいつまでたってもできません。
          

              (菊練りされた状態)

 十分に練られ、異物が押し出され、空気が抜かれて初めてろくろの上で土殺しが可能となります。

 ろくろに置かれた土が、陶器師の手の中で中心に向かってまっすぐに伸びるまで、何度も倒され延ばされるのです。

 延ばしている最中、ろくろの上で横を向いてしまった粘土に対して陶器師は、

 「ほら、これはまだ土が生きている・・暴れているんですよ。

 だからまっすぐになるように土を殺すのです」と言った。
         
      
         (土殺しされた状態)

陶器師の手の中の土は、異物を出され、菊の花のような形へと十分に練られてゆき、あらためてろくろの上で殺される。

 そうして陶器師の手の中でまったく殺された土がはじめて陶器師の気に入った器へと形作られるのです。
 

 エレミヤ書の御言葉を思い起こしていた。

 「この陶器師のように、わたしがあなたにすることができないだろうか。」

 土を扱う陶器師の手は、土に対してどの時点で、どのように触れることが大切なのか、土の状態を熟知した上で手の動きを調節していた。

 しっかりと殺された土は、陶器師の手をやさしく添えてゆくだけで、実に見事な陶器へと形作られていった。


 陶器を製作する過程に、十字架の真理を見る。

 「あなたもわたしの手の中にある。

 わたしがあなたにする・・・」

 御言葉が心に響いた。

   あぁ、あなたがしてくださるのですね。粘土はただ陶器師の手の中に自らをゆだねていればいいのですね。

 異物だらけで荒削りな私さえ、主はご自身の御手を持って練ってくださる。
 
 ろくろという十字架の上で、キリストの死の実際へと導かれる。

 ただ中心なるお方に向かってまっすぐに向かうまで、あなたの御手は休むことなく、その手を添え続けてくださる。

 私の主、私の神。

 あなたは私のまことの陶器師です。
 
          
          

| 御言葉の分かち合い | 22:20 | comments(8) | trackbacks(0) |
名駅で息子とランチ

     

     
 今日は2学期の終業式。息子も冬休み突入。
で、
今日はちょっと買い物へ名古屋駅へ。

 初めてミッドランドスクエアの(屋外型展望施設)
スカイブロムナードへ行ってみました。

http://www.midland-square.jp/sky-promenade/

(本当にこんな感じの眺め♪)


 素晴らしい眺め!!・・

 素敵なデートスポット、お勧めです。

   ミッドランドスクエア
   ミッドランドスクエア内 44階のクリスマスツリー
      

                

「その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」

            マタイ1:20


     マリアの胎に、聖霊によって宿られた主。

  同じように私たちの内に、
イエスご自身が聖霊によって宿られる。

 イエスの誕生の物語が、
差し込む光のように新鮮な輝きを放ち、
御言葉に釘づけになる。

 

 「キリストが私たちの内に、みどりごとしておいでになり、
だんだんに成長してその形が私たちの内にでき上がるのは、
しかも、そのイエスに私たちが信頼し、
従い、仕えることを学ぶのは、
ことごとく聖霊によるのです。」

             W・ニー
 

御霊によって内なるお方として私たちの内に宿られ、
そして御霊によって成長し、形造られる。

ことごとくは聖霊によるという恵み。
成長させてくださる神による

十字架経験は、
イエスの誕生から十字架の死と復活、昇天に至るまで
真に知り味わうための扉を開き、

もはや約2000年前の出来事ではなく、
現在の私の霊的な胎に宿られるお方のいのちを 
経験し始める驚くべき鍵なのです。

十字架は、
キリストと私を深く結びつけ、
一つとする鍵なのです。




 
  

| 御言葉の分かち合い | 17:57 | comments(6) | trackbacks(0) |