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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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聖徒のしるし
 

『ですから、神のみこころに従って
なお苦しみに会っている人々は、
善を行うにあたって、
真実であられる創造者に
自分のたましいをお任せしなさい。』第一ペテロ4:19


 
苦しむことを選ぶというのはどこかが間違っている。
たとえ苦しみがあっても
神のみこころを選ぶというのとは全く別である。


健全な聖徒は決して苦しみを選ばない。
彼はイエスがそうであったように、
苦しかろうがなかろうが神のみこころを選ぶ。
聖徒は他の聖徒が受けている苦しみの訓練に干渉しない。

 
イエスの心を満足させる聖徒とは、
他の聖徒たちが
神にあって強く成熟した者となることを助ける人である。


われわれに益となることをする人々とは、
われわれに同情する人のことでは決してない。
(われわれに同情する人々は)
われわれが強く成熟することを妨げる。

なぜなら、同情は人を無気力にするからである。

「救い主」に最も近くにある聖徒以外は
聖徒のことを理解しない。

もしわれわれが聖徒の同情を受け入れたとしたら、
反射的に起きる感情は、
「やれやれ、神様は私を厳しく取り扱っておられるんだ」
というものです。

イエスが自己憐憫は
悪魔から出ていると言われるのはこのためである
〈マタイ16:23〉。

神の名を汚さないようにせよ。
神は決して反論されないし、
ご自分の正しさを擁護しないので、
神のご性質に泥を塗るのはたやすいことである。

イエスが地上における生涯で
同情を必要としていたというような考えには気をつけなさい。

イエスは人からの同情を拒んだ。
なぜなら、
イエスが何を目標としているかを理解する人は
この地上に誰もいないことを知りすぎていたからである。

イエスは彼の「父」からのみ、
そして天のみ使いからの同情だけを受けられた
(ルカ15:10を参照)。

 
神がどれほど多くの聖徒を無駄にしているか信じられない、
とこの世の判断基準で言われることに注意せよ。

神は聖徒を最も役に立たない所に置かれる。
われわれは言う。

「神が私をここに置かれたのは、
私がとても役に立つからだ」と。

しかしイエスは最大限に役に立つという視点で
ご自分の生涯を評価されたことは一度もなかった。

神は聖徒が神に栄光を帰す所へ置かれる。
そして、
われわれはそれがどこか決める立場には全くない。

| オズワルド・チャンバース | 08:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
キリストに捕えられているか
 

『だがしかし…といって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい。』ルカ20:10

  

つまりはイエス・キリストが言わんとすることは
次のことである。

あなたの奉仕が成功したからと言って
喜んではならない。

そうではなくて、
あなたが「私」に正しく結びついていることを喜びなさい、と。

クリスチャンの働きにおける罠とは、
奉仕において成功することを喜ぶこと、
神に用いられたからといって喜びことである。


あなたがイエス・キリストに正しく結びついているなら、
神があなたを通してなさることは測り知れない。

主と常に正しい関係にありなさい。
そうすれば、あなたがどのような状況の中にいようとも、
またあなたが日々誰に会おうとも、
主はあなたを通して生ける水の川を注ぎ出しておられる


そして、そのことをあなたに知らせないのは
神のあわれみによる。

救いと聖化によってあなたがひと度、
神と正しく結ばれるなら、
あなたがどこにいようとも、
神があなたをそこに置かれたことを知りなさい。

そして、神が光の中におられるように
あなたが光の中にいるなら、
あなたを取り囲む状況に対して
あなたがもたらす反応を通して、
あなたは神のご目的を成就しているということを知りなさい。

 
今日の傾向は奉仕を強調することである。
用いられることを魅力の理由にする人々に気をつけなさい。

もし用いられることが基準であるなら、
イエス・キリストはあらゆる人の中で
最大の失敗者である。

聖徒の関心は神ご自身であって、
どれくらい用いられているかではない。

神がわれわれを通してなさる働きが重要なのであって、
われわれが神のためにする働きが重要なのではない。

われわれの主が一人の人の人生において
心にとめられることは、
父なる御神とどれくらい結ばれているかということである。

イエスは多くの子たちを栄光へと導いておられる。

 

 

| オズワルド・チャンバース | 22:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
心の広がり
 

『生ける水の川』ヨハネ7:38



 川はその水源が何も知らない所にまで流れて行く。

もしわれわれがイエスのご人格に触れるならば、
われわれの目に見える営みがいかにささやかなものであれ、

われわれの心から生ける水の川が流れ、
地の果てに至るまで祝福するであろうとイエスは言われる。

われわれから流れ出るものについて
われわれはあずかり知らない。

「あなたがたが…を信じること、それが神のみわざである。」
一人の魂がいかに偉大な祝福であるかを
神はその人本人にはまず見せてくれない。


川は驚くほど一貫している。
川はあらゆる障害物を乗り越える。
しばらくは川はゆるやかに流れる。
そして障害物に出会うとしばらく止まる。
しかしまもなく障害物のまわりに進路を作る。
あるいは川は何マイルも目に見えなくなる。
そしてやがてさらに広くさらに大きくなって現われる。

あなたは神が人々を用いておられるのを見る。
しかしあなたの人生には障害物が来て、
あなたは何の役にも立っていないように見える。

「源」から目を離さないようにせよ。
そうすれば、神は障害物をよけさせるか、
それともそれを取り除かれる。

決して障害物や困難な事そのものに見いるな。
あなたが「源」と結びついているなら、
あなたを通してたえず流れる川にとって
障害物は重要なことではない。

あなたとイエス・キリストの間に
どんな感情もどんな経験も
どんなことも決して入らせてはいけない。

唯一の偉大な至高の「源」から
あなたを引き離すものがあってはならない。

 
われわれを洗いきよめ豊かに広がる川が
われわれの魂の中で次第に大きくなっていることを考えて見よ!

神はすばらしい真理を
われわれの心の中に明らかにしてくれている。


そして神が明らかにしてくれる一つ一つの真理は、
われわれの中に
神がさらに大きな力を持つ川を流れさせてくれる印である。


あなたがイエスを信じるなら、
神はあなたを人々にとって
祝福の大河に育ててくれていることを知るであろう。

 

| オズワルド・チャンバース | 21:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
悲しみの火の中で自分を見出す
 

『「父よ。この時からわたしをお救いください」と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。
                 ヨハネ
122729

 


  聖徒として、悲しみや困難に対する私の姿勢は、
そういったことが起こらないようにというのではなく、
あらゆる悲しみの火を通して、
神によって創られた
私の自己を保てるようにと願うことである。


われわれの主は悲しみの火の中で
ご自分を受け止められた。
主はその時から救い出されたのではなく、
その時を通して救い出されたのである。


 
われわれは悲しみがあってはならないと言う。
しかし、現実に悲しみはある。
われわれはその火の中で自分を受け取らねばならない。


もし、われわれが悲しみを回避しょうとし

それを考慮すべき事柄としないならば、
われわれは愚かである。


悲しみは人生の揺るがしがたい事実であり、
悲しみがあってはならない、
と言っても何の役にも立たない。



罪も悲しみも苦しみも現実にあるのであり、
そのようなことを存在させているのは神の過ちである、
とわれわれが言うことはできない。


 悲しみは人間の心の浅はかさを
随分と燃やしつくしてくれる。


しかし、
それは必ずしもその人を成長させるとは限らない。


苦しみを通して自分を見出すこともあれば

自分を破壊することもある。


あなたは成功して自分を見出すことはできない。
有頂天になりはしても。


平穏無事な生活の中で自分を見出すこともできない。
不平をこぼすことはあっても。


自分を見出す道は悲しみという火を通してである。
どうしてそうなのかは分からない。


しかし、それがそうであることは
聖書と私たちの経験から真理である。


悲しみという火を通して自分を見出した人が誰であるか、
あなたには必ず分かる。


そして、あなたが困難に直面している時に
その人のところへ行けば、
あなたのために
十分時間を取ってくれることが確信できる。


悲しみという火を通っていない人は
傲慢になる傾向があり、
あなたのためにさく時間を持っていない。


あなたが悲しみの火の中で自分を見出しているなら、
神はあなたを他の人の心を育む人にしてくれるであろう。

 

| オズワルド・チャンバース | 07:08 | comments(2) | trackbacks(0) |
神の偉大な「べからず」
 

腹を立てるな。それはただ悪への道だ。』詩篇37:8

苛立つということは、精神的にも霊的にも貧しくなることである。
「苛立つな」と言うことと、
苛立たない性質を持つこととは別物である。

巣がひっくり返されるまでは
――つまり、多くの人がそうであるように、動揺や苦悩の中で生きるようになるまでは、
「主の中に憩う」とか、「忍耐強く主を待つ」とか
言うことはとても容易いことに思える。

本当に動揺や苦悩が来ると、
主の中に憩うことができるか。
もし、この「苛立つな」という神の戒めが
そのような時に影響力を持たないなら、

他のどんな時にも影響力を持たないであろう。
この「べからず」ということは、
平和の日にも困惑の日にも影響力を持たねばならない。
さもなければ、影響力を持つことは決してない。

そして、もしこれがあなたの特殊な場合に
影響力を持たないのなら、
他の人の場合にも影響力を持つことはない。

主の中に憩うというのは、
外的な状況にまったく依存しない。
神ご自身に対するあなたの関係に依存するのである。


苛立つことは常に罪に行きつく。
わずかな不安や心配は
われわれが真に賢い証拠であるかのように思ったりする。

そうではなくて、われわれが本当はどれくらい悪しき者であるかの証拠である。

苛立つということは、自分の意地を張るというところから
起きている。

われわれの主は決して不安にならなかったし、
決して心配していなかった。
なぜなら、
主はご自分の考えを「やり遂げよう」として
いたのではなかったからだ。

主は神のお考えを実現しようとしておられたからである。
もしあなたが神の子どもであるなら、
苛立つことは悪しきことである。


あなたは自分の置かれている状況が
神にもどうすることもできないという考えを持って、
あなたの愚かなたましいを助長させてきたのだろうか。

あらゆる「仮定」を脇に置いて、
全能者の蔭に身を住まわせよ。
あなたはその事について苛立たない、
と断固として神に告げよ。

われわれのすべての苛立ちや心配は
神を計算に入れずに考えることから生じているのだ

| オズワルド・チャンバース | 00:19 | comments(4) | trackbacks(0) |
迫害を受けるときのふるまい
 

しかし、わたしはあなたがたに言います。
悪い者に手向かってはいけません。
あなたの右の頬を打つような者には、
左の頬も向けなさい。
』マタイ5:39


上のみことばはクリスチャンが受けるであろう
辱めを表している。

普通の場合、打たれても打ち返さないならば、
その人は臆病者と思われる。

しかし、信仰の世界では、
打ち返さないのはその人の内におられる
神の御子の表れである。

もしあなたが侮辱された場合、
そのことに憤慨しないだけでなく、
それを神の御子を表明する機会となすべきである。

あなたはイエスのご性質を真似することはできない。

イエスのご性質を持っているか、
持っていないかのどちらかである。

聖徒にとって、個人的な侮辱を受けることは
主イエスのすばらしい芳(かぐわ)しさを
表明するチャンスである。


山上の説教の教えとは、
「あなたの義務を果たしなさい」というものではなく、
「あなたの義務でないことをしなさい」というものである。


2ミリオン行ったり、
左の頬を向けたりすることはあなたの義務ではない。

しかし、もしわれわれがイエスの弟子であるなら、
われわれはこのようなことを常にするであろうと
イエスは言われる。

「もうこれ以上耐えられない。
あまりにも間違った事を言われ、
私は誤解されている」
と言う態度は持たない。

私が自分の権利を主張するたびに、
神の御子を傷つける。

その反対に、私が痛撃を自分で受け取るならば、
イエスが傷つくのを防ぐことができる。

キリストの苦しみの欠けたところを満たす
というのはこのことである。

自分の名誉ではなく、
イエスの名誉が自分の生きざまにかかっていることを、
イエスの弟子は知っている。

他の人に決して正しさを求めるな。
しかし、自らは正しくあることをどこまでも追求せよ。
われわれは常に正義を人に求めている。

しかし、山上の説教の教えとは、
「正義を人に求めるな。そうではなく、
常に正義を人に与えよ」
というものである

| オズワルド・チャンバース | 22:21 | comments(2) | trackbacks(0) |
神のご支配という思い
 

とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、
どうして、求める者たちに
良いものをくださらないことがありましょう
。』
    マタイ 7:11



イエスは主の御霊を持っている人々のための
行為のルールをもうけている。

これらの節の単純な論議によって、
イエスはわれわれの思いを、
すべての物事の背後に
神のご支配があるという考えで満たすように勧めている。

つまり、イエスの弟子は完全な信頼と、
熱心に求めかつ探す姿勢を
保たねばならないという意味である。


神がそこにおられるという考えで
あなたの思いを満たしなさい。

ひと度思いがそのように満たされるなら、
あなたが困難に直面しても、

「私の父がすべてをご存じである」

と思い出すことは呼吸をするのと同じくらい簡単なことである。

それは努力することではない。

困惑が圧迫してくるとき、自然にそのように思えるのである。

かつては、
あなたはあちらの人こちらの人にと頼って行っていた。

しかし、今では神のご支配という思いが
あなたの中に力強く形成されているので、
あなたは困難に際して神の御許に行く。

イエスは主の御霊を持っている人のために行為のルールを教えている。そして、御霊は次の原則の下で働かれる。

「神は私の父である。
神は私を愛しておられる。
神が気にとめられないことを私は考えない。
なぜ私は心配しなければならないのか。」


神があなたの闇を取り除かれない時がある、
とイエスは言われる。
しかし、神を信頼しなさい。

神が不親切な友人のように思われる時がある。

しかしそうではない。

神が自分の父親ではないように思われる時がある。

しかしそうではない。

神が不義な裁判官のように思われる時がある。

しかしそうではない。

すべての物事の背後に神がおられるという考えを
ますます強いものにしなさい。

神のご意思が背後になければ何も起こらない。
だから、
あなたは神を完全に信頼して心を平らかにすることができる。

祈りとは求めることだけではない。
求めることがごく自然なものとなる環境を
生み出す心の姿勢である。

「求めなさい。そうすれば与えられます。」

| オズワルド・チャンバース | 07:17 | comments(4) | trackbacks(0) |
雲の中に
 あなたは雲の中に何を見るか


『見よ、彼が、雲に乗って来られる。』黙示録
1:7

 

 聖書の中では雲は常に神と関連している。

雲とはわれわれの人生の内面ないしは外面の悲しみ、苦しみ、あるいは不幸のことであり、神のご支配に疑いをはさむように見える事柄である。

まさにそれらの雲によって神の御霊がわれわれに信仰によって歩むことを教えてくれているのである。

「雲とは天の父の足についている埃にすぎない。」

雲とは神がそこにおられることの証拠である。

悲しみや死別や苦しみが神の乗って来られる雲であるとは、なんという啓示であろうか!

神は雲なしにはわれわれに近づかれない。

神は輝く白日のもとには来られない。

 
神は試練によってわれわれに何かを教えようとされていると言うのは本当ではない。

神がもたらされるすべての雲によって、神はわれわれが今までに学んだことを忘れることを求めておられる。

雲をもたらす神のご目的は、神に対するわれわれの関係がちょうど子供のようなものになるほどに、われわれの信仰を単純なものにすることである。

つまり、神と私自身のたましいだけがあり、他の人々は影にすぎない、そんな関係である。

他の人々が影になるまでは、雲や暗闇は時にわれわれのものとなる。私と神との関係がかつてないほどに単純なものとなっているだろうか。

 神の不思議な導きとわれわれの知っている神についての知識との間にはつながりがある。

われわれは人生の神秘を神について知っている知識に照らして解釈することを学ばねばならない。

最も暗い、最も暗澹たる事実を、神のご性質を損ねることなしに直視できるようにならなければ、神を知っているということにならない。

「彼らが雲の中に入って行った時、彼らは恐れた…」

あなたの雲の中に「イエス以外」に誰かがいるのだろうか。

もしいれば、さらに暗くなるであろう。

あなたは

「もはやイエス以外にだれもいない」

という所にまで来なければならない。


    *:--☆--:*:--☆--:*:--☆--:*:--☆-

 




チャンバースのこのメッセージに深く心が揺さぶられた

雲に乗って来られる・・とは、なんという啓示でしょう!

 
「だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、

星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。

そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです」


          マルコ13:24〜


  私にとって、私の内側すべてが揺り動かされるような出来事そのもの、その雲に乗って主が来られる。

 来られる、で終わりではない。

 そのお方を「見る」のです。

 揺り動かされる出来事のただ中で、すべてが零れ落ちてゆくようなただ中で、このお方を見る。

 御言葉には、「あなた方は見る」と幾度も書かれてあります。

 なんということでしょう。

 雲に乗って来られる主を、多くの人々が見るのです。

そして、なにより、雲は主の足の下にあることを忘れてはなりません。私たちを今にも飲み込もうとするような雲も、主の足の下なのです。

  雲に・乗って・来られる・お方を見る!

 アーメン、ハレルヤ!

 それで十分ではないですか!
 
 
 雲に乗って来れれる方によって、 
 
 幼子のように、ただ神の前に単純にされる幸い。

 
 栄光が主にありますように!
| オズワルド・チャンバース | 23:14 | comments(2) | trackbacks(0) |
何もこわくない


 主ご自身がこう言われるのです。

 「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

  
         へブル13:5



 「私はどのように物事を考えているだろうか。
私も思いは、神の言われた
ことに向けられているだろうか。それとも、
恐れに向けられているだろうか。
私は、神の言われないことを話すのではなく、
神の言われたことを聞いた後で
何かを話すようにしているだろうか。

 「そこで私たちは確信に満ちてこういいます。
『主は私の助けです。私は恐れません。
人間が私に対して何ができましょう。』」

そして
「わたしは決してあなたを離れず」とある。
私のすべての罪、その利己心、
私のかたくなさにもかかわらずである。
私は、決してあなたを離れないとの神の御声を、
聞いただろうか。

 もし、聞いたとしたら、次の御言葉に耳を傾けよう。

 「わたしは決してあなたを・・・捨てない」

 神が私を見捨てられたと思うのは、
困難な時ではなく、単調なときである。
そこには恵みの高嶺もなく、
ビジョンも与えられず、何らの歓喜も美しさもない。

 ごく平凡な日々において、
あなたは神の言葉を聞くことができるだろうか。
私たちは神が特別なこと、つまり、
何か並外れたものを備えておられるのではないかと考える。
しかし、私たちが恵みの中を歩んで行くとき、
今、ここですぐにでも主ご自身の栄光を見出すのである。
もし私の背後から語りかけられる
神の言葉を聞くことができたら、
驚くほどの力が与えられ、
平凡な日々にも声高く歌うことができるのである。



.。o○o。.★.。o○o。.☆.。o○o。.★.。o○o。.☆



「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
この御言葉を初めて主からいただいたときは
2007年の9月、主人の体の調子が思わしくなく、
何か大きな病気なのではないかと不安を抱え始めたときだった。

神が、自ら、・・語ってくださったことのゆえに、
深い平安を覚えたこと
主人が重い病気で、しかも難しい状況と聞かされたときも、

主の御言葉が私の思いを深く捉え
主人の闘病中、不思議なほどに支えられ続けた

 
 あれから2年余り
主人が癒され、私自身も闘病中とはいえ、静かな日々を送っている。

 週3日透析を繰り返すだけに見える単調な日々、平々凡々な日々を送る中で

 このチェンバースのメッセージから、
再び、あの主の御言葉に触れた。

 『わたしは決してあなたから離れず、また、あなたを捨てない』

主人の病の試練の時だけのものではない。

主が語られたお言葉は
あの時であろうが、今このときであろうが、
何も変わることがない主のお約束であることを
光が差し込んでくるかのように私の内を照らした。

「困難なときではなく、単調な時、恵みの高嶺もなく、
ビジョンもなく、なんら歓喜も美しさもない」
平凡な日々において、神のみ声を聞く

当たり前の毎日、何ら変わり映えもない毎日
その中で主のみ言葉を聞く恵み

泉が滾々と日々変わらず湧き出ていることを知る

あの時であろうと、この今のときであろうと。


 

| オズワルド・チャンバース | 22:45 | comments(2) | trackbacks(0) |
私自身の得ではなく
 
        「  私の泉はことごとく、あなたにある。 」

                       詩篇87:7
 

    私たちの主は、私たちの生まれながらの性質を一時的に取り繕おうとは決してされない。

 主は内側からまったく作り直される。「新しい人を身に着るべきです」〜新しいいのちに触れるために、あなたの生まれながらの性質に、衣をまとえ。神が私たちのうちに植えつけられるいのちは、それに備わっている徳を育てる。

それは、アダムの徳ではなく、聖化の後、生まれながらの性質に対するあなたの確信が、神によってどのようにくつがえされていくかを見よ。

 ついにあなたは、イエスのよみがえりのいのちという源から、あなたのいのちを引き出すようになる。もしあなたが飢え渇きを覚えているとしたら、神に感謝せよ。

 
 私たちのうちに神が働いておられるというしるしは、生まれながらの徳に対する私たちの確信を、神が壊されることである。

 神が、私たちをイエス・キリストのいのちに近づけようとされる時に、私たちは生まれながらの徳にしがみつこうとする。神の働き人が、神の恵みによらないものに信頼しているのを見るのは、何とも悲しいことである。

 神は、私たちの生まれながらの徳を導き、それを変えられるような事はされない。生まれながらの徳は、どのようにしてもキリストの望まれる目標に近づくことができないからである。

 生まれながらの愛、生まれながらの忍耐、生まれながらのきよさ、これらのものは決して主の要求に応じることはできない。

 しかし、私たちの肉体生命のすべてを、神が私たちのうちに与えられた新しいいのちと調和させる時、神は私たちのうちに主イエスの徳を現される。


 .:。£+゜.:。†゜.:。£+゜.:。†゜.:。£+゜.:。†゜.:。£+゜..:。£+゜.:。†゜.:。£+゜.



   生まれながらの性質・・

 イエスの救いを受け、その喜びもあって、色々な奉仕を進んでしてきた。
 
 それが悪かったということではない。

 奉仕をしていく中で、確かに神は祝福してくださった。神に信頼することの多くも学んできた。
 
 が、・・・生まれながらの性質のまま・・であった。

 主は、私自身がキリストにある幼児、幼子であるゆえに、生まれながらの性質を持ち続けたままの私を、忍耐を持って導いてくださっていたとしか言いようがない。

 しかし、幼子のまま、幼児のままであることを主は望まれない。

 ここ数年の間、主は、私という生まれながらの性質に頼って生きているわたしに対して

 十字架の死へと導き始められた。

 今まで、生まれながらの徳、それは私の中にある確信、賜物をも壊し、私の足場を取り崩され、

 私はまったく足場を失ったような不安定さの中に取り残されたような感覚に陥った。

 
 今までの確信はいったいどこに? 私はどうなってしまったのだろう、

 今まで私のうちに与えられていたと思ったものさえ、煙のように消えてしまった。

 それからというもの、主のために奉仕をすることが、怖くなった・・本当に怖い。

 こうして文字にして語ることさえ、泉のように心から溢れてきていたことが、枯れ

 何もないかのようになっていった。

 まったくの無力さ、何もない空 

 もちろん、以前だって自分は無力で、空の器と思っていたはずだった。

 でも実際、空になって、砂漠のように枯れ、すっからかんの自分を見、

 生まれながらの性質、徳というものに、しっかりと頼って、それを足場とし、生きていた自分を見る。

 自分は無力といいながら、無意識の内にも、自分の内にある生まれながらの確信の上に立ってそう言っていただけに過ぎなかったのである。

 
 生まれながらのもの、そのすべてが十字架のイエスと共なる死に継ぎ合わされてゆく。

 それはキリスト者が思い描いているような、力に溢れたクリスチャンになることではない。

 普通の、本当に普通の人になるということだ。

 そして普通の生活の中にともに生きておられるキリストを普通のことのようにして知る

 主がいかに普通の生活の中におられるのかを知って、そのいのちを受けながら

 喜びのうちに生きてゆくことだと思う。

 宗教という教えや儀式の世界に主は来られたのではない。

 生活の只中に来て下さって、この方のいのちに頼って生きる喜びに招いてくださるためだと深く思う。

 生きること、死ぬこと、過ごすこと、その人間生活の当たり前の中にキリストご自身が

 もはや引き離されることのない愛によって確かに導いておられることを見、

 主ご自身を現して下さる

 主はなんと私たちの小さな出来事の中に、ご自身を現すことを喜びとしてくださっていることでしょう。

  この地上で生かされている間、病のときも、苦難のときにも、死を迎える時も

 当たり前のように迎える人間の営みの中に、

 いのちが溢れ出ることを見る

 すべてがこの方の中で。

 

    
わたしは確信しています。死も、いのちも、天使も、
  支配するものも、現在のものも、未来のものも、
  力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、
  他のどんな被造物も
   わたしたちの主キリスト・イエスによって示された
  神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

          ローマ8:38,39

  
 
| オズワルド・チャンバース | 08:23 | comments(4) | trackbacks(0) |