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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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もう一つの出会い
 

新しい出会い その2

  

 http://www4.atword.jp/liberty1/


  Liberty Blueさんのブログ

         以下はブログより抜粋です


「人間は一生の間、誰かに繋がっていたいと思う欲求がある。

困難にぶつかった時、誰かに支えてほしい、祈りの中で覚えてほしいと願う。

暗い谷間の底に一緒に居てくださるのは主ご自身だという事を見出す事ができた人は幸いだ。

12節の最後にある「三つ撚りの糸は簡単には切れない」に何故か目が留まった。

「ひとり」から「ふたり」と書いてあるところへ「三つの撚り糸」。

ふたつに織り込んでいくもう一本の糸とは...

このみことばに答えがあるような気がする。

ふたりでも三人でも、わたしの名において

集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ18:20)

| 兄弟姉妹のブログより | 07:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
素敵な出会い

 主は素晴らしいです!皆様!!

 素敵な出会いを主は備えてくださいました。

 実は先日、ウオッチマン・ニーをいろいろとPCで検索していた所、あるブログに導かれました。

 内容を読んで、「??こんな人がいる!!!}

 とにかく嬉しくなってしまいました。

 十字架を分かち合える兄弟姉妹の存在は
なんて励まされるのでしょう!!

 教えられることがとても沢山あり、とても励まされています。

 十字架の交わりが豊かな流れとなって広がってゆきますように!!!


   クマ郎さんのブログ

http://8125150.seesaa.net/ 
 
 いのちパン まことの食物
   

以下はクマ郎さんのブログより



「私たちは毎日、食事をすることによって食べ物から命を頂いて生きている。食べ物、飲み物がなければ人は生きていくことができない。

聖書はイエス・キリストが「まことの食物」「まことの飲み物」であるとしている。

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。(ヨハネ6:51)

まことの食物であるイエスは、罪によって死んでいた私たちに「復活のいのち」を与えるために天から下って来られた。

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。

生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

これは、天から下って来たパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます(ヨハネ6:53〜58)


まことの食物であるイエスは、肉であると同時にパンである。
私たちの罪を取り除くための小羊(肉)として来られ、十字架で焼かれた。そして三日目に復活の初穂(麦=パン)としてよみがえられた。

私たちが永遠のいのち(パン)を得たのは、罪を取り除く小羊(肉)としてのイエスを食べ、血を飲んだからである。イエスの死にあずかる者は彼のよみがえりのいのちによって生きるようになるのである。

クリスチャンになった後も、彼の肉を食べ続けること、すなわち、イエスの死にとどまり続けることが私たちに求められている。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(ローマ6:4〜5)


イエスの死にとどまる道が、復活のキリストというパンを食べて生きていく唯一の道となる。

私たちがこの道をゆくならば、私たち自身がパンとなって、この世や周囲の兄弟姉妹に復活のキリストのいのちを与える存在となる。

私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。(競灰螢鵐硲粥В隠院腺隠押


神が私たちに求めらておられるのは、私たち自身が食物となって周囲にいのちを与えることである。

私たちの生臭い天然の命は、肉なるキリストが焼かれた十字架の火によって焼き尽くされなければならない。もし私たちがこのことを避けるならば、私たちは周囲に提供するものを何も持たない。

私たちはただ生臭い腐敗臭を放つ「食えない」存在となり、私たちの集まるところには“空の鳥”が群がってくることになるであろう。(マタイ13:31〜2)

しかし私たちが生臭い自分自身を十字架の火の中に置くならば、私たちは香ばしい香りを放つパンとなる。自分が生きるだけではなく、周囲をも生かすことのできる存在となるのだ。これがクリスチャンがこの世に存在している理由であろう。

しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」(マタイ14:16)

だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。

主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。

まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に全財産を任せるようになります。(マタイ24:44〜47)


単に正しく聖書のことばを語るだけでは足りない。食べなかったマナが悪臭を放ったように、私たちがキリストを食べることなく語った聖書のことばは悪臭を放つ。キリストの死を食べることによって、私たち自身が食べることのできるパンとならなけばならない。

そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。
「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」(ヨハネ6:60)


説教やメッセージが不足しているのではない。イエスの肉を食べてパンとなる道を歩むクリスチャンが圧倒的に不足しているのだ。」


 

| 兄弟姉妹のブログより | 07:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
「生まれながらの私」は枯れたいちじくの木
 
翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
道端にいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。(マタイ21:18〜19)


「生まれながらの私」はこのいちじくの木のようだ。
それは主の空腹を満たす実を結ぶことがない。

「生まれながらの私」は善悪の知識の木である。
私の結ぶ実は、たとえそれが「神のための働き」であり、人の目に正しく見え、称賛され、多くの尊敬を集めるものであったとしても、食べると「必ず死ぬ」実なのである。(創世記2:17)

それゆえ主は「生まれながらの私」に対して「実を結べ」とは言われず、「おまえの実は、もういつまでもならないように。」と言われる。
 
そして、「生まれながらの私」の実がいつまでもならないようにするために、神はキリストと共に、私を十字架にもたらしてくださったのだ。

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:19〜20)



     いのちのパン まことの食物
               クマ郎さんのブログより
   
| 兄弟姉妹のブログより | 23:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
座る
 
みのみのさんのブログ

 いのちの泉より
 
 http://livingwater.jugem.jp/?mode=comment&act=captcha

少し長い文ですが、とっても素晴らしい真理が書かれてあります。ぜひ皆さんと分かち合いたくて^^



座る


どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、髪を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。

そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐ者がどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。

また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。

エフェソの信徒への手紙1章17-21節


☆★☆★☆★


しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、− あなたがたの救われたのは恵みによるのです− キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。

こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちをお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。

このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。

行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためです。

エフェソの信徒への手紙2章5-9節




「神は・・・キリストを・・・御自分の右の座に着かせ・・・キリスト・イエスによって(わたしたちを)共に・・・天の王座に着かせてくださいました。」

まず、「着く」、つまり「座る」という言葉の含む意味について考えてみることにしましょう。


その言葉は天的な生活の秘訣を啓示しています。

クリスチャンの生活は、歩くことから始まるのではありません。

座ることから始まるのです。


クリスチャンの起源は、キリストと共に始まりました。

聖書は、このキリストは、罪のきよめをなし終えてから、「天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」(ヘブライ1:3)と言っています。

同様にして、わたしたちは次のように言うことができます。

すなわち、個人的なクリスチャン生活は、「キリストにある」人と共に始まります。

言い換えますと、私たちが、自分自身が天上でキリストと共に座っている光景を信仰によって見る時から始まります。


大半のクリスチャンは、座ることができるようになろうとして、歩くことを努力するという間違いをしてしまいます。

そうであれば、正しい順序が逆になります。

私たちの生まれながらの理性は、

「もし私たちが歩まないのであれば、どうやって目標に達することができるだろうか?

努力無しに私たちは何を達成できるだろうか?

もし私たちが動かなければ、どうやってある場所に到着できるのだろうか?」

と言います。



しかし、クリスチャンの信仰は実に不思議なものです!

もし始めに私たちが何かを行おうとすれば、私たちは何も得ません。

もし私たちが何かを達成することを求めれば、私たちはすべてのものを逃してしまします。

なぜなら、クリスチャンの信仰は「行う」という力点をもって始まるのではなく、「成された」という力点をもって始まるからです。



こういうわけで、エフェソの信徒への手紙は、「神はわたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」(エフェソ1:3)という表明で始まります。

わたしたちは、開始の時点ではまず座り、神がわたしたちのために成してくださったものを享受するようにと招かれています。

わたしたちは独力でそれをしようとしたり、達成しようとしたりするのではないのです。



「歩む」という言葉は、努力を暗示しています。

それに対して神は、私たちが救われたのは、行いによるのではなく、「恵みにより、信仰によって救われました」(エフェソ2:8)と言われています。

私たちは、「信仰を通して救われる」としばしば語りますが、これはどういう意味でしょうか?

これは、私たちは主イエスの中で休息することによって救われるという意味です。

私たちは、自分を救うために何一つ行ってはいません。

私たちはただ、罪で病んでいる魂の重荷を、主イエスの上に横たえたにすぎません。

私たちは、自分のクリスチャン生活を、自分の行いに頼るのではなく、主イエスが成してくださったものに頼ることによって開始されました。

人がこのことを行うまで、クリスチャンではありません。

「私は自分を救うために何もすることができません。しかし、神は恵みによって、キリストの中で、私のためにすべてを成し遂げてくださいました」と言うことは、信仰生活において第一歩を踏み出すことです。

クリスチャン生活は、初めから終わりまで、主イエスへの全き依存の原則に基づいています。

神が私たちに喜んで与えてくださる恵みには、制限がありません。神は、すべてのものを私たちに与えてくださいますが、私たちがキリストの中で休息しなければ、何一つ受け取ることができないのです。


「座る」とは、休息の態度です。

ある事柄が完了し、働きは止まり、私たちは座ります。

私たちがまず座ることを学べば、クリスチャン生活において前進しします。

これは逆説的ではありますが、真実です。



「座る」とは、実際にはどういう意味でしょうか。

私たちが歩いたり立ったりするとき、自分の体の全体重を両足で支えています。

しかし、私たちが座るとき、全体重は私たちが座る椅子とかソファーに掛かります。

私たちは歩いたり立ったりしていると疲れてきますが、しばらく座っていれば休まります。

歩いたり立ったりしている間に、私たちは多くのエネルギーを消耗しますが、座ればすぐにくつろぎます。

負担はもはやわたしたちの筋肉や神経には掛からず、私たちの外部の何かの上に掛かるからです。

同様に、霊的な領域においても、座るということは、ただ私たちの全体重を、すなわり、自分の重荷や、自分自身や、自分の将来や、すべてのものを主にゆだねることです。

私たちは主に責任を担ってもらい、自分自身が責任を持とうとすることをやめることです。



これは当初からの神の原則でした。

神は創造の時、第一日目から第六日目まで働かれ、第七日目に休まれました。

これら六日の間は神は非常に忙しかったと、私たちは本当に言うことが出来ます。

それから、神はご自身に課した仕事が完了すると、働くことをやめられました。

第七日目は神の安息日となりました。

それは神の安息でした。



アダムについてはどうでしょうか?

アダムは神の休息とどのような関係にあったのでしょうか?

聖書は、アダムは六日目に創造されたと言っています。

アダムはこれら六日間の働きには何の関係もないことは明らかです。

というのは、六日の最後の日になって初めて、アダムが存在するようになったからです。

神の七日目は、事実上アダムの第一日でした。

神は六日間働かれ、それから安息の休みを享受されましたが、アダムの命は安息をもって始まりました。

神は休む前に働かれますが、人はまず神の安息に入らなければなりません。

そうして初めて、人は働くことができるのです。

さらに言うなら、神の創造の働きが真に完成したからこそ、アダムの命は安息を持って始まることができたのです。



ここに福音があります。

それは、神は一段階さらに進まれ、贖いの業をも完成されたというとことと、私たちはそれに値するために何一つ行う必要がなく、神の完成した働きの価値の中に、信仰によって直接に入ることができるということです。


もちろん、これら二つの歴史上の事実の間に、すなわち創造における神の休息と贖いにおける神の休息の間に、悲しい物語のすべてがあることを、私たちは知っています。

その物語は、アダムの罪と裁きについてのものであり、人の絶え間ない無益な労苦についてのものであり、神の子が来て労苦し、ご自身を与え、ついに失われた地位が回復されたことについてのものです。

主は、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。だから、わたしも働いているのである」と、御自分の道を前進されるときに説明されました。

この贖いの代価が払われて初めて、主は「完了した」と叫ぶことができたのです。



この勝利に道が叫ぶのゆえに、私たちの推論は正しいものです。

クリスチャンの信仰とは、神がキリストの中ですべてのことを成し終え、私たちは信じることによって単純にその事実を享受することです。

ここでの鍵の言葉は、無論、文脈上、「座りなさい」という命令ではなく、私たち自身がキリストの中で「座っている」ことを見ることです。

パウロは、私たちの心の目を開いていただき(エフェソ1:18)、この二重の事実の中に含まれているすべてを、わたしたちが知ることができるようにと祈っています。



この事実とは、神はまず大能の力によって、「キリストを座らせ」、それから恵みによって、「私たちをキリストと共に座らせてくださった」という事実です。

私たちが学ぶべき最初の学課は、働きはその始まりにおいて、一つとして私たちのものではなく、神のものであるという点です。

私たちが神のために働くのではなく、髪が私たちのために働いてくださるのです。

神は私たちに、休息という私たちの地位を与えられます。

神は、御子の完成した御業をもたらし、それを私たちに与えて、このように言われます。

「どうぞお座りなさい」。


私たちに対する神の申し出は、盛大な晩餐への招待の言葉で最もよく表現されています。

「もう用意ができましたから、おいでください」(ルカ14:17)。

私たちのクリスチャン世知活は、神が用意してくださったものを発見することから始まります。



  
 
| 兄弟姉妹のブログより | 09:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
saltさんのダイアリーより
 
そこにいなくてもいい私
     ...2009/08/28(Fri)  No.1532  
「私がいなければどうにもならない」「私がいるから動いている」と感じられる立場にいる人はある意味で幸せな仕事をしている人だと言えるかもしれないが、実は錯覚である。

確かに「交換不可能な唯一無二の私」を実感できることは、その人のアイデンティティーやセルフエスティームの大事な根拠になるだろう。

でも実際、私の能力や特性を単なるシステムを稼働させる機能の一部として冷静に見つめ直すと、いくらでも交換は可能で、別のさらに良いパーツに交換した方が遥かにスムーズに動くということもあるのだとわかる。

つまり、自分を過大評価せずに、正しく相対化すると、私は必要不可欠どころか、別にいてもいなくてもどちらでもいい存在だと証明されてしまうのだ。

これは、私自身のことでもある。

私はたいてい「あなたしかいない」と毎年「長」と名前がつく人たちに何度も頭を下げてもらっていろんなポジションを守ってきた。私は私なりにではあるが、その年、その年、ベストを尽くしているつもりでいるし、それなりの評価も受けてきた。しかし、それは別に私でなくても良かったのだということが、次の年度には簡単に証明される。なぜそう言えるのか。それは、私ではない人が、私が苦労して積み重ねてきたものをいとも簡単に捨て去り方向転換しても、誰も何も言わないし、何事もなくシステムは動き、仕事はどんどん右から左へ流れていく。かなりさびしい感じがするが、残念ながらそういうものなのだ。

私自身もポジションが変わった時点で、かつてあれほど重要に思えて細部にまでこだわっていた事柄が、少しずつ他人事に変わっていくのを認めざるを得ないのである。誰のために気を使い、何のために骨折っていたのかと、愕然とさせられる場面もある。

人は神という中心を見失うと、どこまでも愚かになる。本来神との交わりを持つ交換不可能な「私」は、「神」という原因と目的を失った時点で、一体誰のために機能しているのかよくわからない国や自治体や会社や学校という虚しいシステムに奉仕する「機能の一部」になってしまうのだ。そして、そこにはめ込まれること以外に自分の居場所はないのだと思い込まされる。

そこで、取りあえずの自分の目標を定め、やり甲斐を求める。それ自体はいい加減にやるよりはずっと素晴らしいのだが、それはあくまでも「取りあえずのもの」であって、「最終的なもの」でも、「永続的なもの」でもない。実際に立場や職を失うと、抜け殻のようになってしまう人は多い。そこにあって有意義な活動をする私に心を置いていたからである。

立場や職に関係なく、「あくまでも私は私」と実感でき、「別にそこにいなくてもいい私」に価値を見出せるのは、神との関係とその立ち位置においてのみである。

あえて世の中からはみ出す必要もないが、福音書においてイエスと劇的に出会って変えられた人たちはみな、こうしたシステムからはじかれた連中だったというのは実に興味深い。

兎にも角にも、「働かざる者、食うべからず」心して「静かに」「落ち着いて」働き、健やかに日々の糧を得よう!!



  .☆.・∴.・∵☆:*・∵.:*・☆.☆.。.:*,★ :*・∵.:☆.。.:*・:*・∵.☆:*・∵.゜



 
| 兄弟姉妹のブログより | 06:19 | comments(0) | trackbacks(0) |