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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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じっと見、また手でさわったもの
 

   我が家のとなりの畑の写真 

 今朝から降り積もった雪 息子は自転車通学。スムーズにはいけないと言うことで

 朝5時半に登校していった。

 今週いっぱいまで、学校から職場実習に出かけている。

 2週間の予定で、実際に仕事を体験させてもらえるのだ。

 今回の息子の体験実習先は 金属塗装の会社

 外での作業と聞いているので、今日のような日はどうしているのだろう・・。

 カイロを持たせ、玄関先でともに祈った。

 祈って送り出せる幸い、すべては主の御手の中に握られている

 どんなことがあるか、分からなくても、それでも主の御手の中
 
 御名があがめられますように

 
 
             
    

 はじめからあったもの、私たちが聞いたもの、私たちの目で見たもの、よく観て、私たちの手で触ったもの、〔すなわち、〕命のことばについて ――

そのいのちが現れた。そして、父のもとにあったが私たちに現れたその永遠の命を私たちは見て、あなたがたに証しし、告げるのである ――

私たちが見たもの、聞いたものをあなたがたにも告げ知らせる。それはあなたがたも私たちとの交わりに与かるようになるためである。私たちの交わりとは父とその御子イエス・キリストとの交わりである。

そして私たちがこれらのことを書くのは、私たちの喜びが満ち溢れるようになるためである。」

            ヨハネ 機。院В院
 

 
 

  主の御名はほむべきかな!

 ヨハネは いのちの言葉を、私たちはそれを見たので、証をしていると語っている。

 じっと見つめ、また触る、内に与えられた霊によって、いのちの言葉を見たのである

 
 マリアは受胎告知を受け、イエスを身ごもった。

語られたお言葉が、触ることが出来るいのちへ

 10ヶ月その身ごもりの間、日々感じた胎動は、

 いのちの言葉そのものなるお方を じっと感じ、そして触ることの喜びで

溢れたにちがいない。 他の誰でもなく、マリア自身がその喜びを霊、体全身で知ったのだ。

 それはヨハネの言葉、じっと見、そして手で触ったものとしての喜びである。

 身ごもったものだけが味わう特権 

 しかし、この身ごもりこそ、内に確かに触ることが出来るいのちのことばとして

 今も信じる者の内に形となって現れる

 御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのち ・・が

 私の中で実体となる事を知る

 まるで胎の子の動きを母が即座に感じるように、御言葉が内側で動いている事を知るのである。

 宿されたいのちは宿すものとの深い交わり いのちを共有し、一つである。

 「私たちが見たこと、聞いた事を、あなた方にも伝えるのは、

 あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。」


 マリヤはエリザベツ(バプテスマのヨハネの母)の所に行って三ヶ月とどまった

 この二人の交わりを思ってほしい

 内に宿したいのちの喜びを共有する姿を。

 マリアの挨拶の声を聞いただけで、

 エリザベツの胎の子は喜び踊ったのである。

 互いに宿したいのちをじっと見つめ、またその手で触れた

 現されたいのちのことばどれほどに励ましを与え、

 喜びに満たしたことだろう

 
 この二人の姉妹の交わりが象徴されるのは、

 今も、まことにイエスのいのちの言葉をその身に宿し、日々触り、じっと見つめるものにとっての

 すばらしい絵、

 実際に与る喜びに満ちた交わりの青写真である


  私たちがこれらの事を書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためである。

   アーメン!


  

  初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの じっと見、また手でさわったもの

 すなわち 、いのちの言葉について、

  
  勉強し、本で読み、神学校で学んび、人から聞いた 言葉で話すのではなく、

  実際にさわって、じっと見つめ、あなた自身に現れたいのちの言葉だけが

  真に交わりを生み、喜びに与るようになるのです
 

 
  
 

 

| 御言葉の分かち合い | 09:43 | comments(3) | trackbacks(0) |
床が表すもの
 この後、ユダヤ人たちの祭りがあって、イエスはエルサレムにのぼった。


さて、エルサレムには羊門の近くにヘブライ語でべトザタと呼ばれる、五つの回廊のある貯水池がある。


それら〔の回廊〕には病んでいる人々、目の見えない人々、足の不自由な人々、痩せ衰えた人々などが大勢臥せっていた。


そこに一人の人がいたが、彼は三十[と]八年間病のうちにあった。


イエスは、この人が臥せっているのを見、またすでに長い間のことだと知って彼に言う、「健やかになりたいか」。


病んでいる人は彼に答えた、「だんな、俺には水がかき乱される時、池に入れてくれる人がないんでね。俺が行こうとすると、その間にほかのやつが俺よりも先に降りて行ってしまう」。


イエスが彼に言う、「起きなさい、あなたの寝床を担ぎなさい、そして歩くのだ」。


その人はただちに健やかになり、自分の寝床を担いだ。そして歩き出したのである。

ヨハネ5:1〜8


 
 主はこの病んでいる男に「起きなさい。、そして歩きなさい」とだけ言われれば十分だったのではないだろうかと思う。

 しかし、あなたの寝床を担ぎなさい、そして歩くのだ と
主がお語りになられたのには、何も自分が寝ていたところを片付けよ。。とおっしゃったのではない。それには意味があった。

それは床とは、十字架を象徴しているということだ。


イエス様が真にこの男に伝えたかったのは、

寝床を担ぎ、すなわち、あなたの十字架を肌身離さず担ぎ、そしてわたしについてきなさい。十字架の道を歩みなさい、

ということなのである。


 
    


今日は久々に東方面の兄弟姉妹とお電話で交わった

不思議ですね

声を聞くことが出来ただけで、喜びが沸々と溢れてきた

主よ、感謝します。



最近は色々な用事が入ってゆっくりパソコンに向かう時間が減った

家にいる時も、御言葉に向き合い、じっくり味わうことを求め、

御顔を慕い求めるように 御言葉にふれる


ということで、

少し更新ペースがゆっくりになると思います  








 
 

| 御言葉の分かち合い | 22:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
外なる人が朽ち果て
 「それゆえに私たちは、失望することはない。むしろ、たとえ私たちの外なる人は朽ち果てても、

しかし私たちの内なる人は、日ごとに新たにされるのである」
 
 第二コリント 4:16


 
 外なる人が朽ち果てても。。。

 これは文字通り、まさに朽ち果てることを意味する

 年齢を重ねると、この肉の体においてですら、

 若いときに当たり前のように出来ていたことが一つ一つ出来なくなる事を感じるが、

 外なる人が十字架を経る、聖霊の対処を受け続けると、

 今まで出来ていたことのすべてが、剥ぎ取られたかのように出来なくなる

 それは、今まで見えていたものが、見えなくなる。

 聞こえていたものが聞こえなくなる。

 考えることが出来ていたのにそれすらも考えられなくなる。

 祈ることすらもままならなくなる。いったい自分はどうなってしまったのだろうと、

 まるで何もなくなってしまったかのようになり

不安におののいてしまう

 本当に衰え、剥ぎ取られ、このようにして『外なる人』は朽ち果てていくのである。

 
 足元はとても不安定で、まるで足場を失ってしまったかのようなおののきすら感じ

 とても弱くされます。おののきと弱さと、恐れしかありません。

 肉にあっては、なんと辛く悲しいことでしょう。

 しかし、内なる人は、日々新たにされているとは、なんという驚きでしょう!


  
  外なる人が砕かれる(十字架を経る)ことなしに、神の力に真に頼る事を人は学ぶ、知ることが出来ません。

 それほどに人は、実は神にではなく、自らの力と知恵に頼って生きており、しかしそのことを自覚すら出来ないのが私たちなのです。

 神の啓示と知恵によらずして、神を知ることができないのと同様、自らの真の姿をも知ることができません。

  
 レビ記の2章に穀物のささげ物の記事が出てきます。

 これは人の手の業である奉仕について、なんと明確に主は御心を表しておられることでしょう。

 人の手の業である穀物のささげ物は、小麦粉でなければならない

 この小麦粉は砕かれたさま、謙遜と柔和さを表しています。
その上に、油を注ぎ、乳香を添えるのです。(レビ2:1)

 そして、主に捧げる穀物のささげ物に、パン種と蜜をすこしでもいれて作ってはいけないのです。
(レビ2:11)
 パン種は腐敗を表し、わずかであっても全体を膨らませるほど、影響を与えます。

 そして、蜜は火を通すことによってすっぱくなるんです。

 神の前に腐敗とすっぱさ混じる奉仕を捧げるのは、私のこの「外なる人」=砕かれない自己なのです。

 神の御心よりも、自己の思いを優先する奉仕、そのような自己中心な思いからくる奉仕、は

 火に通されると、すっぱくなる。

 パン種のように、腐敗が全体に広がり、影響を与えてしまうのです。



 なめらかにされた小麦粉、穀物のささげ物には、すべて塩で味付けされなければなりません。(レビ2:13)

 地の塩のような働き、奉仕、

 その秘訣は、ただ、外なる人が砕かれ、内なるいのち

 「もはや私ではなく、キリスト」にあるのです。

 
 「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。

 生きているのは、もはやわたしではありません。

 キリストがわたしの内に生きておられるのです」

 ガラテヤ2:20

 
  
 

 
 

 
 
   
 
| 御言葉の分かち合い | 21:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
しばらくするとわたしを見る

  しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」

そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』また『わたしは父のもとに行くからだ。』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」

 そこで、彼らは「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない。」と言った。

イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。

 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。

 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。

あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」

                 ヨハネ16:16〜



 この聖書の箇所は、間もなくイエスが十字架の上で死なれること

「しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」とは、

イエスが死からよみがえられて、再び弟子たちと会うこと

そして、「わたしは父のもとに行く」とは、

イエスが昇天され、

父の右に着座されることを表している言葉である。

あぁ、ここは、イエス様の十字架の死と復活、および昇天の事を言っているのだな・・とまるで理解したかのように、読み流してしまう箇所ではないだろうか。

しかし、

 この御言葉こそ、十字架を負って主についてゆくことがリアルに描き出されているように思った。

 十字架を日々負うということは、日々死ぬことを意味する。

 正直、十字架を負うことは肉にとっては痛みであり、苦しく、辛いことだ

 死に囚われたような状態なのだから、 もう手も足もでない。身動きすらとれず

 全くの無力さの中に座らされる

 それはまるで、「あなたがたは、もはやわたしを見なくなる」と主が言われたお言葉のように、

 わたしのこの目に、力強い主の臨在すら消えてしまったのではないかと錯覚してしまうような

 しばらくは全てを失ってしまったような不安定さの中に置かれる


 しかし、時が満ち

 
「しばらくすると、わたしを見ることになる。」 という復活のお約束が

 現実の只中に起きる事を知った。

 しばらく御顔が隠されていたかのような状態(死)から、突然、いのちへと移され

主の慈しみ深い御顔を見る(主である事を知る)のだ。

 その事を分かりやすく、主は出産の苦しみと喜びに例えられた。

「女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。

しかし、子を産んでしまうと、

ひとりの人が世に生まれた喜びのために、

もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。


 あなた方にも今は悲しみがある。だが、

再びわたしはあなた方を見て、

あなた方の心は喜ぶこととなり、

そのあなた方の喜びをあなた方から奪うものは誰もいない。」

 と語られた。

 世にあって確かに苦しみがある。十字架の死を通らなければならないような痛みがある。

 陣痛がきた女のように、あまりの痛みと辛さのゆえに、しばらくは主を見ることすら困難であろう。


しかし、  「しばらくすると、わたしを見る」と語ってくださっていることはなんという素晴らしい希望、

 復活の望みなのだ!

悲しみから喜びへ、死からいのちへ、

いのちへと移された喜びはもはや誰も奪うことが出来ない、とすら、お約束してくださっているのだ。

 それだけではない。

 主は昇天されたのだ。つまり、神の右の座に着座されたのだ。

 それは主が完全に勝利したことの証である。イエスの御名によって求めることが出来るのは、

 イエスの御名が、全ての名にまさる名として父なる神がキリストを高く上げられたからである。

 この名によって求めることが出来・・・そして受け、その結果、

 喜びが満ち溢れたものになる・・・ハレルヤ! 

 なんという喜び、なんという恵みでしょう!

しかし、今日、 

 何でも欲しいものを求めよと、まるでそこだけを抜き取って自分勝手な願いを祈り求めようとすることがなんと多いのだろうと思う。

 十字架の死と復活抜きに、何が御心であるのか、わたしたちの目は全く閉ざされており、それがわたしたちの本来の姿である。

欲望のままに(自分がその時よいとおもうことに従って)願うことは出来ても、

御心にかなった願いを人は捧げることすら出来ないのだ。

 

 『 しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』

 この御言葉はイエスを信じる私たちにとって奥義です。

 
キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。

 死と復活と昇天、そして

イエスの御名によって父に求めることは 

どれも切り離すことはできず、一本の糸のように繋がっており
 
御名を通して、わたしたちは受け、喜びに満たされる。

それこそが

 神たるお方を神とし、神をあがめる

(父が崇められる)生き生きとした礼拝であるかを知って、

 さらに喜びに満たされるのです。

 

 

 


 
 
 

| 御言葉の分かち合い | 22:38 | comments(2) | trackbacks(0) |
杖に拠りかかる者へ


創世記32:24〜

ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。

26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」

27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」

28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください。」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した。

30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。

31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。



 


自分は無力で、弱く、何もできない者だと思っていることと、

 無力で弱く、何もできない者とさ・れ・る ことの間には大きな淵がある

 
 ヤコブも、ももつがいを外されるまで、なんと多くをその肉に頼ってきたことであろうか。

 自分は無力で、弱く、何もできないと認めていても、それすらも肉によるのだ。

 どんなに熱心で、心からの告白でも、

 サタンによって注入された猛毒(罪)によって完全に毒された肉のその上に

 イエスの真の謙遜を身にまとうことはできないのである。


無力で、何もできないものとされる、まことの謙遜は、あなたのももつがいを外されることによる。

 ももつがいを外されたら、もう自分一人では、立つことすらできない。

今まで当たり前に出来ていたことすらも、もはやままならなくなる。

ヤコブは杖なしにもはや歩けなくなってしまった。

杖を真に必要とするのは、それなしでは歩けない人である。

ヤコブは創世記32:10でただ杖を持つ者であった。

しかし、神と戦ってももつがいが外されてからは、真に杖に頼るもの、杖のかしらに拠りかかる者とされたのである。


イエスなしに、無きに等しい者と自分で言うことは、ある意味、なんとたやすいことだろう。

しかし、まことの謙遜は、自分で思うことでも、言うことによるのでもない。

実際にさ・れ・て・し・ま・うのである 

世の中の目からすれば、役立たずであり、なんと不恰好であろう。

しかし、神の目には、それこそが、幸いな心の貧しい者、

天の御国はこのような者たちのものと語られた、幼子の姿、

放蕩から帰ってきた息子の姿に通じるものではないか。

ただ神は恵みによって、杖を持つ者から、杖に拠りかかる者へとしてくださるのである。



 


 

| 御言葉の分かち合い | 06:50 | comments(3) | trackbacks(0) |
キリストの愛が、しっかりと捕らえているのは、
       (追記あり)

「事実キリストの愛が、(次のように)判断している私たちを、しっかりと捕らえている。

ひとりの人が、すべての者のために死んだのであり、それゆえにすべての者は死んだのである。と。

 (然り、その一人の人は)まさにすべての者のために死んだのである。それは生きている者たちが、

もはや自分自身のために生きるのではなく、むしろ彼らのために死に、そして、(死者たちの中から)

起こされた方のために(生きる)ためである。」  


 コリント第二  5:14〜




   どう判断しているから、キリストの愛が私たちをしっかり捕らえていると言うだろうか。

 ひとりの人、すなわち、イエスキリストがすべての者のために死んだことを通して、

 すべての者は彼と共に、死んだのであるということ。

 イエス様は、すべての人のために死んだのである。

  そして、この言葉はここでは終わっていない。

 それは、と続いている。

 それは生きている者=すなわち、彼と共に死んだと信じる者たちが

 もはや、自分自身のために生きるのではなく、むしろ、キリストがすべての人のために死んだように、
 
 すべての人のために死に、

 そして、死者をも起こされた方のために生きるため、と!

 そのように判断する私たちを、キリストの愛は捕らえている、と書かれてある。


 これこそが、信じる者に与えられた、

「和解の務め」本質ではないだろうかと感じた。

そして、また、殉教とはそのような意味ではないだろうか。

 
 この肉体が、死ぬことだけが真の殉教ではない。

 この体で生きている間、その歩みにおいて、

このキリストの足あとに従い

 「すべての人のため」小さな死に与ることを

日々、真実に負うことがなければ

 どうして、肉体において、キリストの死に与ることができよう。

 まさに、「生きることはキリスト、 死ぬことも・・」  なのである。

 もちろん、誰もがこの体においての殉教へと召されているわけでは決してない。

 
 本質的なことにおいて、

 日々、十字架を負ってついて行くことの意味を

 このコリント第二の手紙の5章から、深く感じさせられた。


 

 
 
  
 

 
 
  
| 御言葉の分かち合い | 07:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
主がお入用なのです
 
それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、
言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。

もしだれかが何か言ったら、「主がお入用なのです。」と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」
  マタイ21:1〜

  
  

  瞬きの詩人として知られる水野源三さんの詩に「子ろば」という詩がある


ロバの子よ

水野 源三

目がやさしいロバの子よ
食べ過ぎて腹をこわすな
はね過ぎて足いためるな
王の王なるイエス様を
お乗せするご用があるのだから

目がやさしいロバの子よ
呼ばれたならばすぐさまに
ついてゆける用意をせよ
王の王なるイエス様を
お乗せするご用があるのだから

目がやさしいロバの子よ
選ばれたるこのほまれを
喜び勇みて進めよ
王の王なるイエス様を
お乗せするご用があるのだから


 
 「 主がお入用なのです。」

 まだ誰も乗ったことがないロバ

 このロバの持ち主が一体どのような人物であったか、それは何も聖書には書かれていない。

 名も知れぬこの人は、ロバを弟子たちが解こうとしたとき、「なぜほどくのか」と尋ねた。

 ところが、「主がお入用なのです。」と聞くと、そのロバを明け渡した。

 どのような思いをもってロバの子を育ててきたか・・・水野源三さんの歌のように

 お乗せする用意があるのだから・・と思って育てられたのかどうかも、何も分からない。

 ただ、わかっていること、それは、

 名も知れぬこの人は、主の言葉に応答したのである。

 
  私たちにとって大切なことは

 この名もしれぬ人のように、ただ主が語られることに応答してゆくだけである。

 そして「呼ばれたら、すぐさまについて行ける用意を」していることだけである。


 主のために、どこに連れていくのかとか、何に使うのかとは何も問うことはしていなかった。

 それらのことさえも全くゆだねること、自分の手から放すとはそういうことである。

 
「 主がお入用なのです。」

 
 このお言葉でもう一つ


 ブラザーユン師の著書の中の証を思い起こしていた。

 彼が中国の獄中に捕らえられていたときの証である。

 ある日、刑務所の指揮官から呼び出されたユンは、このように言われた。

 「ユン、あなたがイエスを信じていることは知っています。今日は特別な課題を差し上げることにしました。

 9番の監房にファンという殺人者がいるのですが、毎日のように自殺を計ります。頭がおかしくて、他の囚人に噛み付こうとします。私たちは、ファンをあなたの監房に送ることにしました。
もししっかりと見張らずに、自殺をしたら、あなたの責任を問いますから。」

 ユンはすぐさま、ファンは主が救うようにあたえてくださった貴い魂であることを感じる。

 しかしファンは誰からも恐れられる存在であった。人間ではない、悪魔だ、と。。

 ところがユンは

 「兄弟たち、イエスを信じる前、私たちもファンのようだったじゃありませんか。私たちも悪魔のようでした。でも、魂が死にかけていたときに、イエスによって皆、救われたのです。私たちはこの男を憐れんで、イエスご自身のように彼に接しなければなりません。」と、同房者たちを説得する。

 連れてこられたファンは、まるで聖書に出てくるレギオンの悪霊に取り付かれたかのような男だった。誰も彼の世話を今までするどころか、体中汚れ、汚い言葉を吐き、自分の体を傷つけてきたあとがたくさん残っており、9番監房でひどい扱いを受けてきていた。

 ユンたちは、貴重な飲水で、汚れた彼の体を洗い、切り傷もきれいにして、自分たちに与えられたほんのわずかな食べ物を各自 少しずつファンに与えたのである。

 
 その日の夕食、週に一度のマントウ(蒸しパン)の日だった。兄弟たちがユンの方を見た。

 皆誰もが空腹であることは分かっていた。
そこで、ユンは、

 「今日はもうすでに、米と水を新しい友人ファンに分けました。だから、今晩は自分たちのマントウを食べましょう。でも、明日はスープを彼に少し、分けてください。」と言った。

 ユンはファンに最初に食べさせ、次に自分の食事を食べ始めた。

ところが。。。

 ユンは自分がマントウを一口かじった時、泣きたい気持ちになった。優しい声がユンの中からわき上がってきた。

 「私はあなたのために十字架で死にました。あなたが私を愛していることをどうやって示してくれますか?

 私が飢え、渇き、投獄されているとき、もし、あなたがこれらのことを私の兄弟の一番小さい者にしてくれたら

 それは私にしてくれたことと同じになります。」


 すぐにユンは、神が、マントウの残りを犠牲としてファンに与えなさいと望んでおられることを知る。

 しかし、ユン自身も空腹で苦しかった。

 「主よ、私も飢えています。とてもお腹がすいているのです。」と

 再び御言葉が彼に臨んだ。

 「私たちをキリストの愛から引き離すのは誰ですか。患難ですか。苦しみですか。迫害ですか。飢えですか。裸ですか。危険ですか。剣ですか。」

 ユンは残りのマントウをハンカチでくるみ、ファンのためにとっておこうと服の中に入れた。
すぐに平安と喜びがユンを包んだ。

 次の日の朝食はわずか麺が2,3本しか入っていない汁ばかりの麺類だった。

 それを見たファンは看守に向かって叫んだ。

 「俺はもうすぐ死ぬんだ!どうして もっとまともな食事を与えないんだ!処刑するまえに飢え死にさせるつもりか?。」と。

 主はその時、ユンに語りかけた。

 「急いでマントウを服から取り出して、彼に与えなさい」

 ユンは主にお言葉にしたがい、マントウを彼に与えたのである。

 その直後、ファンの石の心が砕けたのである。

 ファンは椅子から落ちて、床にしゃがみこんで泣き始めた。

 「お兄さん、どうしてこんなふうに私を愛してくださるのですか。どうして昨晩、そのパンを食べなかったのですか?私は人殺しです。みんなから憎まれています。自分の両親や姉妹、私の婚約者でさえ、私と縁を切りました。

 どうしてそれほどまでに、私を愛してくださるのですか。私は今、あなたの親切に報いることができません。でも、私が死んだら、幽霊になってこの監房に戻ってきて、あなたがしてくださったことに対して、お返しします。」

 ユンは主が、彼に福音を伝えるように望んでおられることを知り、
ファンに

 「私たちがあなたに優しくしたのは、イエスがあなたを愛しておられるからです。もしイエスを信じていなければ、私は9番監房の人たちと同じことを、あなたにしていたでしょう。神の御子イエス・キリストに感謝せねばなりません」

 かたくなな心は砕かれファンは、涙を流しながら心の中にイエスの愛を受け入れたのである。


  
 
   「 主がお入用なのです。」

 
 御言葉に応答し、

与えられているもの差し出して、主を礼拝すること 

そこに私たちの計画や思いにはよらず、一切を手放し

主の御心のままに

主の時に、

ただ主の恵みにより、自らを生きた供え物として

差し出すことができますように

 
 

  

 
  
  

 

 
 

 
| 御言葉の分かち合い | 07:01 | comments(0) | trackbacks(1) |
山に登り、木を運んできて
 「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべきときであろうか。

今、万軍の主はこう仰せられる。

あなた方の現状をよく考えよ。

あなたがたは多くを期待したが、少ししか刈り入れず、食べたが飽き足らず、

飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴の空いた袋に入れるだけだ。

 万軍の主はこう仰せられる。

あなた方の現状をよく考えよ。

 山に登り、木を運んできて、宮を建てよ。そうすればわたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう。

 主は仰せられる。

 あなたがたは多くを期待したが、見よ。わずかであった。

あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。

 それはなぜか。〜万軍の主の御告げ。〜

 それは廃墟となったわたしの宮のためだ。

あなたがたはみな、自分の家のために走り回っていたからだ。

それゆえ、天はあなたがたのために露を降らすことをやめ、地は産物を差し止めた。

 わたしはまた、地にも、山々にも、穀物にも、新しいぶどう酒にも、油にも、地が生やす物にも

人にも、家畜にも、手によるすべての勤労の実にも

日照りを呼び寄せた。」

   ハガイ書1:3〜


 

  
 山に登り、木を運んできて・・

わたしは長年の間、この御言葉が意味すること、いったいこれはどういう意味なのだろうかと

思い巡らしてきた。

随分と昔、このハガイ書のお言葉を主がお与えくださった。

もう20年以上も前のことである。

そのときのことは決して忘れもしない。

与えられたお言葉が、どういうことでしょうかと幾日も祈り求めた。

主はその中である光景を思い起こさせてくださった。

「ある人が砂漠を旅をしていた。しかし、飲み水がなく、その人は

水を求めてさ迷い歩いていた。

ようやく井戸を見つけて走り寄るが、その井戸は枯れた井戸だった。

主は、わたしにこうおっしゃった。

「この人は、再びこの井戸に来るだろうか」

「いいえ、来ません。」

その時初めて、穴の空いた袋が水のない井戸そのものであり、

いのちの水を求めてくる人々は、もう二度と枯れた井戸に戻ってこようとは思わないことを知った

それはなぜか。


 「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべきときであろうか。

あなた方の現状をよく考えよ。。

 ・・・あなたがたはみな、自分の家のために走り回っていたからだ。」


 
 「山に登り、木を運んできて、宮を建てよ。

そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう。」

 
  

  今日、透析の最中、このハガイ書の御言葉が再び内側に臨んできた。

 わたしは家に帰り、急いでハガイ書を開いた。

 山に登り、木を運んできて、という箇所を目にしたとき、即座に主は

 アブラハムの礼拝を主は思い起こさせてくださった。

 主はアブラハムにひとつの山をお示しになり、その上で、イサクを全焼のいけにえとして捧げるようにと告げられた。

 全焼のいけにえのために焚き木をイサクに背負わせ、主が示された山に登ったのである。

 山に登り、木を運んできて、アブラハムは、もっとも大切なひとり子なるイサクを犠牲として捧げ

 主を礼拝するために、神に従ったのである。


  主の宮を建てるとは、決して、教会の建物を建てると言う意味ではない。

 豪勢な建物や、教会らしい雰囲気、また立派な礼拝堂の中で礼拝を捧げることではない。

所有物が多ければ、かえって失うものがあることを知らなければならない

 「聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は持っていると思っているものまでも取り上げられるからです」ルカ8:18

 所有物が豊かであることは、いのちが豊かであることとは何も関係がないのである。

 「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」ルカ12:15

主が示された 手放すべきもののすべて、もっとも大切なものをささげるために、すべてをもって主を礼拝することである。

  アブラハムは伴ってきた若い者を途中、ロバと一緒にとどまっているように言った。

 一緒に仲良く行きましょうとは、言わなかったのである。

 わたしたち日本人は群れていることで安心し、錯覚してしまう。。

 自分は、神に喜ばれる礼拝を捧げている、と。

 果たしてそうであろうか。

神があなたに示される礼拝は、

 ただ一人、アブラハムのように神に示され、一切を捧げるために山に登るものであり、大勢といっしょではない。

 ロバを連れて登れば、楽だったに違いない。

しかし、ロバさえも置いていったのである。

 自分の足でその一歩を踏み出すことを主は望んでおられる。


 
  
  主の宮が廃墟であるなら


 そのことを避けて、いったい何を捧げ、建てようと言うのか。


 
 震災を通して、すべてを失うことの痛みの大きさを見る。

 ただ復興を願うことだけが、御心であろうか。

 暗闇の中で輝く光なる方は、言葉を持って語られる神である。
 
 暗闇の中でしか聞くことができない言葉があり、

 そのお言葉を聞かなければならない。

 それは、一人神の前に出、直接聞こうと御前にでることであり、

誰かのメッセージを聞きに行くことではない。

 聞く耳ある人は聞きなさいと主は語られる。
 


 「この宮が廃墟となっているのに、

あなたがただけが板張りの家に住むべきときであろうか。。」


 

 
  

| 御言葉の分かち合い | 14:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
最後の者だと、わかった
 
「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。

彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。

それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
 

彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。

また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
 

彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』

こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。

『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』

そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。

 

最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。

そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、

言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、

あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』

しかし、彼はそのひとりに答えて言った。

『{友よ。}私はあなたに何も不当なことはしていない。

あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか

自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、

この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。 」


   マタイ20:1~



  
   この箇所を読むたびに、何か公平ではないような思いがしていたことがずっとあった

 何か自分が朝9時ごろから働いたのにも関わらず、一番最後に来た人と同じ賃金を渡されたかのような不満を抱いているかのようだった。

 でも、この箇所を先日、久しぶりにメッセージで触れた。

 ところが、自分の中には、もう先に来て働いていた人々ではなく、

 一番最後の者、朝から働いた人たちと同額をもらう資格もないものが、

ぶどう園の主人の一方的な恵みによって同額の賃金をいただいたに過ぎない、

自分がそういうものであることを

パズルのピースがピタリとはまるような思いで、、最後の者であったことが、わかった。

神の前に、自分はどういうものであると思っているのか、それを映しだす鏡のようなたとえ話だなぁとつくづく思わされた。




最後の者であるゆえに、資格のない者に注がれる愛に触れ、

最後の者であるがゆえに、 ぶどう園の主人の憐れみがただ、ただ、うれしくて・・

ただ憐れんでくださった方に、感謝するしかない者であることを知りました。


 
 「 この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」


 あぁ、 主よ、・・・ありがとうございます。

 

 
     

| 御言葉の分かち合い | 11:17 | comments(2) | trackbacks(0) |
何も見えない時に

            
                  〜名大病院〜
   (主人の迎えを待っている時に一枚 パシャ )

  本日の予定PET検査終了〜

検査用の注射を打ってから、40分ぐらい待たされるのだけど、

テレビも何もないところで、じっとソファに座っている間、

賛美しながら待っていた。

非常にリラックスしすぎて、いざ検査になったら、

ほぼ幸せな気分で居眠り状態。(笑)

明日、担当医から電話で結果のお知らせが入る予定。



ずっと恵みの只中にいるようなところから、ここ2,3日、

あの祝福された状態はどこにいったの?と思うほど

神様のご臨在を感じることがなくなっていた。

信仰が消えてしまったのかしら・・

喜びが潮が引くように心から消えたように感じていた。

喜びが波のように押し寄せてくるとき、

その中で信じることは実に容易。

むしろ、何も感じられないときに静かに、

 ただ、信頼するという事を思い起こした。

   
「 立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、

   落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」

     イザヤ30:15
 
 見ないで信じること

 自分の内に喜びが消えたように感じられ、

神の臨在さえも感じられないようなとき、

 内にそのような神からの祝福が見えない時、

(もちろん、罪のために御顔をさえぎっている時には、
即座に悔い改めることが必要だが。)
 
  落ち着いて信頼すること。

 主は必要な時に、引き上げてくださる。

 「イエス様、何も見えない時にあなたを信頼します。

 喜びが感じられないときに、見ないであなたを信じます。

 あなたのみ顔が見えない、感じられないとき

 ただ信じて座ります」 今朝、そう祈った。


  
その後、peT検査に出かける前に、ある姉妹と交わり、

 さらに、夕方には、はるか遠くに住む、でもとても近い姉妹との

 交わりを主は備えてくださった。
 
 交わり後、ランラン気分で鼻歌を歌いながら

 家の中を歩き回っていたら、

 「えらい機嫌がいいなぁ〜鼻歌か?」

 と主人に笑われてしまった。

 明日結果を聞く人にはどう見ても見えないようで。。。。

 結果がどうだとか、そんなことに縛られずに自由でいられること

 神様の愛が私を自由にしてくださっている。

 なんて私は幸せな者なのだろうと、

 ただ、ただ思わされています。

  
 
| 御言葉の分かち合い | 19:21 | comments(2) | trackbacks(0) |