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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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いつか無くなる光
 

『私たちはみな、鏡のように主の栄光を反映させながら…。』
   2コリント3:18

 
キリストのしもべは自分でも気がつかないくらい
一人ぼっちで立たなければならない。


クリスチャン生活の初期において
がっかりすることがある。


それはそれまであなたにとって
光であったような人々が光でなくなったり、
支えてくれていた人々が召されたりするから。


私たちはそういったことに十分慣れて、
一人で立っていることさえ
分からないくらいになる必要がある。


「みな私を見捨ててしまいました。
…しかし、主は、私とともに立ち、
私に力を与えてくださいました。」
(2テモテ4:16,17)


私たちはやがて無くなる光ではなく、
決して無くならない光によって
自分の信仰を立て上げていかねばならない。


「頼りにしていた人」がいなくなると悲しい。
しかし、いつかそうなることは決まっていたのだ。


私たちに残されている事は、
自分自身で神のみ顔を仰ぐことである。

 
あなたは自分について、
自分の信じていることについて、
神のみ顔をしっかりと見続けなさい。


あなたが神のことを語るときはいつでも、
先ずその事について神のみ顔を見るようにしなさい。


そうすれば神の栄光はいつもあなたにとどまる。


クリスチャンの働き人とは、
いつでも神のみ顔を見て、
それから人々に語る人のことである。


キリストに仕えることの特徴は、
神の栄光が
気がつかないうちに与えられていることである。


「(モーセ)は自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。」


 私たちは自分の疑いをひけらかしたり、
神との密やかな交わりを見せたりするために
召されているのではない。


神の働き人の人生の秘訣は
神といつも心が一致しているということである

| オズワルド・チャンバース | 22:31 | comments(4) | trackbacks(0) |
ありえないことだろうか
 

『ヨアブはアドニヤについたが、アブシャロムにはつかなかった。』砧鷁Φ2:28

 
 ヨアブは大きな試練を乗り越えた。
彼はダビデに対して完全に忠実であり誠実であった。


彼は魅力的でかつ野心的な
アブシャロムについていかなかった。


しかし彼は晩年になって
臆病なアドニヤについたのであった。


人が会ったことのある試練には、
だれもが会う可能性があるという事実に
常に警戒を怠らないようにしなさい
(1コリント10:3を見よ)。


あなたは大きな危機を通り抜けたかもしれない。
しかし小さくて取るに足りないと思えるような事に警戒しなさい。「取るに足りない隠れた部分」を
計算に入れておきなさい。


 私たちは次のように言う傾向がある。
「あのような最悪の危機を乗り越えたのだから、
今さらこの世的なことに屈することなどありえない」と。


誘惑がどこから来るか予測しないようにしなさい。
思っても見ないような事が危険なのである。


大きな霊的な戦いの後で、
「取るに足りない隠れた部分」が物を言い始める。


それは強力という訳ではないが、
それでもそこにある事は事実なのである。


それであなたが警戒していなければ、
それはあなたをひっくり返すことができる。


あなたは大きな激しい試練の中にあっても
神に対して誠実であり続けた。


しかし目に見えない底流に気をつけなさい。
悲壮感を持って明日を見るような、
病的に内省的であってはいけない。


しかし警戒していなさい。


あなたの記憶力を神の御前に活発にさせておきなさい。


あなたの強みを警戒していなければ、
それは非常な弱さになる。


なぜなら「取るに足りない隠れた部分」が
忍びよるのはあなたの強みにあるのだから。


聖書の中に出てくる偉大な人々が
失敗したのは彼らの強みであって、
決して弱点で失敗したのではなかった。

 
「神の力によって守られること」
――これだけが唯一の安心である。

| オズワルド・チャンバース | 18:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
慈悲の泉

     



     「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、
永遠のいのちへの水がわき出ます。」ヨハネ4:14


われわれの主がここで与えておられるイメージは
水路ではなく、泉である。


「満たされ続けよ。」
そうすれば、
イエスとの活きた交わりから生じる優しさが
主 から与えられるだけ聖徒から豊かに湧き上がるだろう。


もし、あなたのいのちが
思うように湧き上がっていないならば、
自らに責任がある。


湧き上がるのを何か が妨げているのである。
いのちの源なるお方と正しい関係を保ちなさい。
そうすれば、あなた自身が祝福されると言うのだろうか。

否、あなたから生けるいのち の水が、
押さえ切れないいのちが湧き上がるのである。


われわれはイエスが
生ける水の川となって流れ出ることのできる
水源となるように求められている。

それがすべての人に祝福をもたらすのである。


ある人々は 死海のごとくである。
いつも水が注ぎ込まれているが、
注ぎ出されることがない。
それは主イエスと正しく結ばれていないからである。


主から受ける分だけ確実 に
主はわれわれを通して注ぎ出される。

主が注ぎ出されていない分だけ、
主とわれわれの関係に欠陥がある。


あなたとイエス・キリストの間に何かあるのだろう か。
何かが主を信じるのを妨げているのだろうか。

そうでないならば、
あなたの中から生ける水の川が流れ出る、
とイエスは言われる。


それは祝福が受け継がれ ることでもなければ、
経験が語られることでもない。
川が流れ出るのである。

いのちの源なるお方のところにいなさい。
イエス・キリストに対する信仰と関係を
 しっかりと守りなさい。

そうすれば、他の人々のためにいつも水が流れ出る。
無味乾燥とか無感動ということが無くなる。


「個々の信仰者から川が流れ出るというのは
言い過ぎではなかろうか。」
「川が流れ出ているとは思えない」とあなたは言う。


自分は何者だろう、という観点 から
決して自分を見てはいけない。


神のみ業の歴史を見るならば、
殆どいつもそれは目立たない、
無名の、無視されている人、
しかし、イエス・キリストに対し て常に真実な人、
そういった人から始まっていることが分かるであろう。


 

| オズワルド・チャンバース | 06:27 | comments(4) | trackbacks(0) |
不可解な神の召し


   
       

『人の子について預言者たちが書いてあるすべてのことが実現するのです。…しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。』ルカ福音書
1831
34


 神はイエス・キリストを
全くの不幸と見えることのために召された。


イエス・キリストは弟子たちに
ご自身の殺されるのを見せるために召された。


キリストは一人ひとりを心が張り裂ける所へと導かれた。


イエス・キリストの人生は神の視点を除いては、
あらゆる点から見て失敗であった。


しかし人間の視点から見て失敗であるように思えたことが、
神の視点からは驚くべき勝利であった。


なぜなら、神の目的は決して人間の目的ではないからである。

 

私たちの人生のおいても不可解な神の召しが来る。


神の召しは決してはっきりと表現できるものではない。

それはそれとなく表現される。


神の召しとは海の呼びかけみたいなものである。
自分の中に海の本性を持っている人以外は
聞こえないのである。


神の召しが何のためにあるのか、
明確に表現することはできない。

なぜなら、神の召しとは
神ご自身の目的のために神と友達になることであるから。

そして、神はご自身が何をされようとしているかご存知である、

ということを信じられるかどうかが試金石である。


出来事は偶然に起こるのではなく、
完全に神の意図のもとで起こるのである。


神はご自身のご計画を実現しょうとされている。

 

もしわれわれが神との交わりの中にあり、
神がわれわれをご自身の目的へと
導き入れておられることを知っているなら、
われわれはもはや神の目的を見出そうと
努力することはないであろう。


クリスチャンの生活は続けていくにつれて、
ますます単純なものになる。
なぜなら、
「なぜ神はこれこれ云々のことが起こるのを許されたのか」
と聞くことがしだいに無くなっていくからである。


すべての物事の背後に避けられない神の力が横たわっている。
「われわれの人生の目的を形作る神がおられる。」

クリスチャンとは自分の知恵ではなく、
神の英知と知恵を信頼している人のことである。

もしわれわれが自らの目的を持っているならば、
神の子供たちを特徴づけている単純さや落ち着きを壊してしまう。

 

| オズワルド・チャンバース | 23:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
心を占めるもの
 

『死はもはやキリストを支配しない…
キリストが生きておられるのは、
神に対して生きておられるのだからです。
このように、あなたがたも、
自分は罪に対しては死んだ者であり、
神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、
思いなさい。』
ローマ6:9−11

 

神と共なる永遠のいのち・
永遠のいのちとは
イエス・キリストが
人間として見せてくださったいのちのことである。


それは私たちが神によって新しく生まれ変わるときに、
この生身に現れるそのいのちである。


キリストのいのちに似たいのちというのではなく、
まさしく同じいのちである。


永遠のいのちとは神からの賜物ではなく、
永遠のいのちとは神という賜物のことである。


ひとたび私たちが罪について心に決断を下すならば、
イエスの中に現れたエネルギーと力は
神の完全に一方的な恵みによって
私たちの中に現れるであろう。


 『あなたがたは聖霊の力を受けるであろう』
――聖霊からの贈り物としての力ではない。
その力そのものが聖霊なのである。


それは何か聖霊が分け与えるものではない。
ひとたび私たちが
イエスと結ばれるように決断をするならば、
イエスの中にあったいのちが
十字架という方法によって私たちのものになったのである。


神と正しい関係になることが難しいとすれば、
私たちが罪について断固とした決断を下さないからである。


私たちが決断をするやいなや、
神の満ち溢れるいのちが心に入る。


イエスは
「あなたがたが神の満ちみちた姿に満たされるように」と、
いのちを無限に与えるために来てくださった。


永遠のいのちとは「時」の長さとはなんの関係もない。
それはイエスが地上にあって生きられたいのちのことである。


「いのち」の唯一の源は主イエス・キリストである。

 
まるで力のない聖徒であっても、
もし進んで「手放」しさえすれば、
神の御子の聖なる力を経験することができる。


自力に頼ろうとするとイエスのいのちがぼやけてくる。
私たちは絶えず手放し続けねばならない。


そうすれば、ゆっくりと着実に
神の満ちみちたいのちが
私たちのあらゆる領域に充満してくる。


そして人々は私たちがイエスと一緒にいたことに気付くであろう




オズワルド・チェンバース



☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*





>イエスの中にあったいのちが十字架という方法によって私たちのものになったのである




十字架の死と復活の実際へと導いてくださる主を褒め称えます。

ぜひお読みください。


おすすめブログ



私ではなくキリスト



以下はヴィオロンさんのブログより一部抜粋



 暗闇の勢力が最も恐れるのは、そのようにして、十字架が生活において全存在的に実際となっているクリスチャンであることです。なぜならば、自己が十字架で対処されるという過程を経てのみ、神の命――生ける水の川々――は本当に、私たち自身の腹から外側に向かって流れ出すようになるからです。このようにしてキリストの統治をこの地上に実際としてもたらすようになったキリスト者こそ、この暗闇の主権者たちが、地上から何よりも消し去りたい存在なのです。

  

| オズワルド・チャンバース | 21:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
燃える心
 

『私たちの心はうちに燃えていたではない。』
ルカ24:32

 
われわれは燃える心の秘訣を学ばねばならない。
イエスが突然現れると、火が燃える。
そしてわれわれはすばらしいビジョンを持つ。


その後われわれは
どんなことにも耐えて燃え続ける心を保つ秘訣を
学ばねばならない。


イエスにとどまる秘訣を学ばねば、
平凡な日々の務めや、
人々との単調で退屈で平凡な日々が
燃える心を冷ましてしまう。

 

クリスチャンとしての悩みのほとんどは
罪から来るのではなく、
われわれの性質の法則を知らないことから来る。


例えば、われわれが感情を
そのおもむくままにしてよいかどうかを
見極める唯一の方法は、
その感情を出した結果が
どうなるかを知ることである。


その考えを推し進めるならば、
もし結果が何か神がとがめられるようなものであるなら、
その感情をそれ以上おもむくままににしてはいけない。


しかし、もしある感情が
神の御霊によって燃やされたものであって、
しかもその感情を自分の生活の中で
正しく生かさないとすれば、
それは低いレベルで反応する。


人がセンチメンタルになるのはそのためである。
感情が正しくそのレベルで用いられなければ、
感情が崇高であればあるだけ、
品格の低下はそれだけひどくなる。


もし神の御霊があなたを揺り動かすなら、
結果を恐れずに、
できるだけ多くの事を後戻りできないようにせよ。


われわれは変貌の山に留まる事はできない。
しかしわれわれはそこで受けた光に従わねばならない。
それを実践しなければならない。


神がビジョンを与えてくださる時は、
どんな犠牲を払ってでもそのビジョンにそって
事を運びなさい。


「われわれは心の内にある火を

  望むままに燃やす事はできない。

  御霊は吹く時もあれば静まる時もある。

   われわれのたましいは神秘の中に住む。

 しかし深い洞察の中で持った使命は

  悲しみの時を経て成就される。」

| オズワルド・チャンバース | 20:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
こころのきよさ
 

『心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。』
マタイ5:8

  きよさとは汚れなさのことではない。
それよりもはるかに多くの事を意味している。


きよさとは神と霊的に繋がっている結果
現れるもののことである。


われわれはきよさにおいて成長しなければならない。
確かに神と正しい関係で生きており、
心のきよさにも陰りがないかもしれない。


しかし時々外の輝きが曇ることがある。
そうならないように
神がわれわれを守ってくれるとは限らない。


なぜなら、外の輝きの曇りを通して
われわれは心のきよさによって
神を見続ける必要性に気がつくから。


もし神と共にあるわれわれのいのちの霊的輝きが
いささかでも陰ってきているとしたら、
すべてを棄ておいて軌道修正しなければならない。


神を見るのは心によることを覚えていてほしい。
心のきよい者は神を見るということを。

 

神はご自身の至高の恵みによって
われわれをきよくしてくださる。


しかしわれわれが気をつけねばならないことがある。
それは他の人々や他の見解に接触する
この生身のいのちである。


よごれやすいのはそういったことである。
内なる聖所が神と正しい関係にあるだけでなく、
外なる庭もまた
神がご自身の恵みによって与えてくださるきよさと
完全に一致するようにしなければならない。


外なる庭が汚れるや否や
霊的理解が曇って来る。


もしわれわれが主イエス・キリストとの
個人的結びつきを保ちたいなら、
われわれが潔(いさぎよ)しとしない行いと思いに気をつけよ。


何か正当なことであっても
それに触れることを潔しとしないことには気をつけよ。



 他の人との関係の中で
心のきよさをよごさない実際的な方法は、
自分自身に次のように言うことである。


「あの人は、
キリスト・イエスにあって全き人である!
あの友人、あの親類は
キリスト・イエスにあって全き人である」と

| オズワルド・チャンバース | 14:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
従うということ
 

『あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、
その服従する相手の奴隷であって…』ローマ6:16

 

 
自分を支配する力を吟味する時に最初にすべきことは、
そのように支配されているのは自分の責任である
というありがたくない事実を理解することである。


もし私が自分の奴隷であるとすれば、
私は自分を責めるべきである。


なぜなら過去のある時点で
私が自分に自分を差し出したからである。


同じようにもし私が神に従う者であるとすれば、
私がそうするのは、私が神に自らを差し出したからである。

 

子ども時代にわがままに自分を差し出したとすれば、
そのわがままがこの世で
あなたを最も強く束縛する暴君であることを知るであろう。


自らを何かに差し出すことによって
形作られた性格の鎖を打ち破る力は
人間のたましいの中には存在しない。


欲望という性質を持つ何かに
ひとたび自分を差し出すなら
(肉の欲望であろうが、心の欲望であろうが、
「私は今すぐにそれを手に入れたい」
というのが欲望であることを思い出しほしい)


――ひとたび自分を差し出したなら、
差し出した事をあなたが嫌悪しているとしても、
あなたはそのことの奴隷なのである。


人間の力の中ではその事から解放されることができない。
ただ「贖い」によるのみである。


あなたを支配している力を
打ち破ることのできる唯一のお方にひれふして、
あなたは自分を差し出さねばならない。


つまり、主イエス・キリストにである。
――「主は私に油をそそがれた…
すべての捕らわれ人に解放を告げるために。」

 

あなたはこのことを
途方もなく小さい事の中で知るであろう。
――「私はいつでも自分がしょうと思えば
その習慣を捨てることができる」と考える。


しかし実際はできないのである。
その習慣があなたを完全に
支配していることが分かるであろう。


なぜならあなたが自発的に
自分を差し出したから。


「主はあらゆる足枷を壊してくださる」と歌い、
同時に自分に明らかに縛られて生きる事は簡単である。


イエスに自分を差し出すことによって、
いかなる人も
自分を縛っているあらゆるものから
解放されることができるのである。

| オズワルド・チャンバース | 22:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
神の働き人の中心的情熱
 

『そういうわけで、…私たちの念願とするところは、
主に喜ばれることです。』
2コリント5:9

 

 「そういうわけで…私たちの念願とするところは…」
最も大切な願いを常に最前線に保つという事は
骨の折れる仕事である。


それは来る年も来る年も
自らを高い理想に保つという意味である。


たましいを勝ち取るとか、
教会を立て上げるとか、
リバイバルを起こすとかということではない。


ただ「主に喜ばれること」を
渇望するということである。


失敗に導くものは霊的経験の欠如ではなくて、
理想を正しく保つために骨をおる努力の欠如である。


少なくとも週に一回は神の御前に吟味して、
自らの生活が神の望まれる水準にあるかどうかを
計ってみなさい。


パウロは自分の「師」からの
承認の表情を得さえすれば、
聴衆の承認は気にしない音楽家のようである。

 

「主に喜ばれること」という
この中心的な渇望からほんの僅かでも
それている野心があるならば、
われわれは見捨てられた者になってしまう可能性がある。


野心がどこに導くかを見極めることを学びなさい。
そうすればなぜ
主イエス・キリストを見つめて生きることが
これほどまでに必要かが分かるであろう。


「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。
それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、
自分自身が失格者になるようなことのないためです。」
(1コリント9:27)とパウロは言っている。

 

私はすべてのことを
この中心的な渇望に結びつける事を学ばねばならない。
しかもそれを間断なく維持することを。


公衆において私が
神に対してどれほどの価値があるかは、
プライベートにおいて私が
神に対してどのような者かで決まる。


私の中心的な願望は神を喜ばせ、
神に喜ばれることであろうか。
あるいはいかに高尚なものであろうと
何かそれ以下のものであろうか。

| オズワルド・チャンバース | 22:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
放棄するとは
 

『私はキリストとともに十字架につけられました。』
ガラテヤ2:20

 

 
罪だけでなく、物事の見方すべてをも
喜んで手放すようになるまでは、
イエス・キリストと結ばれていることにはならない。


神の御霊によって生まれ変わるということは、
つかむ前に手放すという意味である。


そして初期の段階では
それはすべての見せかけを放棄することである。


われわれの主がわれわれから求めておられる事は、
われわれの誠実さや正直さや努力ではなく、
正真正銘の罪である。


主がわれわれから受け取ることができるものは
それだけである。


そしてわれわれの罪の代わりに
主は何を与えてくださるか。
正真正銘の義である。


しかし、われわれは
自分が何か価値があるかのような見せかけのすべてを、
かつ神に目を止めていただく価値があるという
主張のすべてを放棄しなければならない。

 
続いて神の御霊はその後
何を放棄すべきかを示してくださる。


自分には権利があると言う主張を
すべての局面において放棄しなければならなくなるだろう。


私は自分が所有するもののすべて、
私が愛着をもっているものすべて、
すべてのことに関する自らの権利を放棄して、
イエス・キリストの死と結ばれる用意があるだろうか。

 

われわれが放棄する前に
常にするどい痛みを伴う幻滅を経験する。


主がご覧になるごとくに人が自分を見るようになると、
その人に衝撃を与えるものはいまわしい肉の罪ではなく、
イエス・キリストに逆らう
自らの心のプライドという恐ろしい性質である。


主の光の中で自らを見ると、
恥と恐怖と絶望的な良心の呵責を痛切に感じるようになる。

 
放棄という問題にぶつかっているのなら、
危機的状況の中ですべてを放棄せよ。


そうすれば、神があなたに求めておられるに
相応しい者へとあなたを変えてくださる。

 

 

| オズワルド・チャンバース | 21:11 | comments(0) | trackbacks(0) |