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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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二人が見た夢 (終わりの時代)
 
 リチャード兄のブログより転記 ぜひお読みください



「先日、K姉妹が不思議な夢を見たのだが、驚いたことに、彼女が見た夢と全く同じ夢を、アメリカから静岡の教会に訪問中のある伝道者も見ていたという。
その夢は終わりの時代の夢で、以下のようなものだ。

真っ暗な闇夜の中、向こうが見えないほどの巨大な船が海に浮かんでいた。
船の中は光一つなく真っ暗で、イエスを信じた大勢の人たちが、満員電車のようにぎゅうぎゅう詰めで乗っていた。
その船は風で動くのだが、風は全く無く、船は微動だにしない。
人々は不平不満を言い、その中から助け出すための多くの船が、その巨大な船に取り巻いていた。

巨大な船の中では、助けの船に乗り込もうと順番待ちしている人たちが大勢いて、その中にある母子がいた。
母親はこの状況は何かヘンだ、あの船に乗り移るべきでない、と思っているのだけれど、ついに乗る順番が廻ってきてしまった。
人々から「速く乗れ」と促されているのだけれど、強烈な違和感があり、乗り移りたくない。

その母は「主よ」と呟いて上を見上げた。
見上げた空中には、人々が好き勝手に投げたゴミがたくさん浮遊していたという。
浮遊していたゴミの中に、誰かが捨てた粗末な十字架があった。
彼女は「あっ、十字架」と言い、それに向かって手を差し伸べると、母子はふわっと空に引き上げられた。
それを多くの人が見ていたのだが、ある人たちは同じように十字架に向かって手を差しのべると空に引き上げられ、別の人は見ていながらつぶやく事を止めず、助けの船に乗り移ろうとする者もいた。

と、こんな感じ。

K姉妹は、それは世の終わりのクリスチャン状態を示している、と解釈した。

人々は皆、欲望のまま自分勝手な祈りを空中に向かって放り投げ、それらはゴミと化して空中に漂い、風も押し留められてしまう。
また、十字架さえも手前勝手にゴミとして放り出してしまい、自分で考え出した「救い」を作り出して、そこに群がり、飛びつく。
そして十字架に手を差し伸べる者は、実にに少ない。
少ないけれど、心から主の名を呼び、十字架に手を差し伸べる者は救われる。」
| 兄弟姉妹のブログより | 06:48 | comments(2) | trackbacks(0) |
ご紹介

獄中のウォッチマン・ニーについてのあかし

  ビオラさんのブログより



 かつてある兄弟姉妹と分かち合った、獄中のウォッチマン・ニーについての証言です。中国語の原文はネット上に広く普及していますが、この度、和訳をウェブページにまとめましたので、ご自由にご利用下さい。

和訳に際しては、私から漢詩に詳しい方に一部を依頼しました。その他の部分は中国語を専門としない者の翻訳です。もしもお気づきの点があれば、お知らせ下さい。

獄中のウォッチマン・ニー(日本語ヴァージョン)
倪柝聲在獄中(中国語ヴァージョン)
Watchman Nee in prison (英語ヴァージョン)
| 兄弟姉妹のブログより | 15:37 | comments(4) | trackbacks(0) |
再びご紹介

 単立者なれども孤立者にあらず 

  (主とともにあゆむ〜高原剛一郎さんのブログより転記)

・・・・
時に証しはキリストではなく自分自身の事を持ち出す話なので、聖書的ではないと言う意見があります。
私はそうは思いません。
神の神性とみ力は神ご自身が生身の人間になることによって明らかにされたように、神の真理も生身の人間において経験されることにより、他の人にわかる仕方で現されるように思うからです。
みことばの真実がいわば受肉する事で、その深みが現されるように思います。

集まった兄弟姉妹たちは皆さん私が古くからおつきあいのある、気心の知れた方々ばかりでした。
私は彼らに主の真実を証ししたいと願いました。
そのためには私自身が正直に自分自身を明らかにする必要がありました。
しかしそれはとても難しい事なのです。
なぜならそれは大抵、誇らしい事ではなく恥ずかしいことだからです。

誇らしい事は言わなくてもよいし、むしろ忘れてしまったほうが良いと思います。
しかし情けないことから抜け出すためにはしばしば情けない状態なので、助けてほしいと言わなければなりません。
言わなくてもよい誇らしい事はさりげなく伝えるくせに言わなければならない助けについては伏せながら生きていると、その習慣がその人の人柄になってしまいます。
私は参加した兄弟姉妹たちへの尊敬をどのように現したらよいか、を考えました。
それは等身大の自分自身を明らかにしてこの8ヶ月にあったことから学ぶことでした。
この判断は正しかったと思います。
主がともに居てくださる学ぶ会となったからです。

学び会の後、宿泊先の山荘でバーベキューをしました。
ご当地名産の松阪肉です。
クリスチャン同士の交わりでアルコールが入らないのに皆上機嫌で、笑うこと、騒ぐこと、食べること!
途中からは緑橋集会の兄弟姉妹たちの証しが始まりました。
それはまさに赤裸々な証しでした。
集会としてくぐってきた苦難の道のりが涙と笑いの中で語られていきました。
涙と笑い。
そうです。
悲しみと喜びはなんと近くに隣り合っていることでしょう。
悲しみのままに留まる生活とそこから抜け出す人生はほんの一歩の違いだけです。

ふと時計を見ると夜の9時をまわっていました。皆びっくりしました。大阪から来た兄弟姉妹たちは急いで帰って行きました。

「私の愛する方は私に語りかけて言われます。『我が愛する者、美しい人よ。さあ、立って、出ておいで。ほら、冬は過ぎ去り大雨も通り過ぎて行った。』」雅歌2章11〜12節。


| 兄弟姉妹のブログより | 08:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
清い心とは
 清い心と悔い改め

                「みことばざんまい」より


 詩篇24編4節

マタイ5:8の関連聖句をみていきます。

新改訳欄外注及びbiblos.com, cross References参考。

英語の方が分かりやすいので、英語訳を提示します。

詩篇24:4
He that hath blameless hands and a pure heart;
who lifteth not up his soul unto vanity, nor sweareth deceitfully:
(Darby)

‘heart’と訳された単語はלבב(レバーブ)で前回登場した לב(レブ)と姉妹語。

マタイ5:8
Blessed are the pure in heart, for they shall see God.

心が清い(純粋である)者は神に目が向くだろう(これを悔い改めといいます)と書いています。

心が清い(純粋である)とはどういうことか。

先の詩篇を参照にすると、

He who lifteth not up his soul unto vanity, nor sweareth deceitfully

言い換えると、己の魂を空しく持ち上げ、欺きの念を唱える者には救いはない(5節)。

己れの魂に目が向かないことが清いということ。

己れの魂に目が向かないので、神に目が向き、悔い改めることができる。

関連聖句をもう一つ。

詩篇51:10
A clean heart prepare for me, O God, And a right spirit renew within me.
(YLT)

‘heart’はもちろんלב(レブ)で、‘prepare’と訳された単語はבּרא(バーラー)、この単語は創世記1:1に登場する動詞と同じで、意味は「創造する」。

ですから

KJV、Darby、Websterなどのように

詩篇51:10a
Create in me a clean heart

とした方がはっきりします。

視線が神を向いている(悔い改めている)からこそこういう祈りができる。


清い心を創造するのは、私ではなく神です。


*・゜゜・*:.。..。.:*・*:゜・*:.。. .。.:*・゜゜・**・゜゜・*:.。..。.:*・


      
> 心が清い(純粋である)とはどういうことか。

      己れの魂に目が向かないことが清いということ
   
               アーメンです。

 
| 兄弟姉妹のブログより | 22:59 | comments(2) | trackbacks(0) |
ブログのご紹介


 「 電気屋さんのブログ 」  です。

 電気屋さんのブログを読んでいると、木のぬくもりと香りを思い出します。素敵なブログです。
      
    http://dennkiya.blogspot.com/
 
 自然は第二の神の書物。書き込まれた十字架の真理に触れ、アーメンです!ぜひ、お読みください
   
匠の技    4月30日


 
まっちゃんと建前をした。
凸と凹がピタリと合っていく様は、超気持ちいい。
「うまいじゃん」と誉めてくれたが、
墨を引いてくれたのはまっちゃんで
私はそれを切ったり彫ったりしただけだから今回巧くできたのはまっちゃんのお陰だ。わざと角材にしてないので直角を出すときも難しい。

それにしても、今回も思わされた事は、
私は、木が好き。木は良いものです。木が必要でした。
ただ倒れてそのままでは腐っていく木であっても私の目にそれは高価で尊い。
でも、、そのままでは薪などにはなるが(それでも切り刻むが)、家を建てる事には、使えない。
皮のついたまま、捻れたまま、曲がったまま、枝の伸びたままだと無理。
私の所に来るときはそのままの原木でいいんです。
任せてくれれば、墨を出し、切り、削り、研いていく
木は整えられて色んな所に使える木材になる。

2テモテ2:20 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
2:21 ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

金や銀が必ずしも優れているわけでもない。熱いお茶を飲むときには木の器の方が軽いとか、熱くないとか具合がよいものだ。
でも、どんな器でも汚い器は使えない、綺麗にしなければペンキ缶にもならない。
せいぜいゴミ入れとして使って聖書の時代ならベン・ヒノムの谷底現代ならゴミ最終処分場にでも捨てるしかない。
私たちは自分でがんばっても、尊いことに使われるきよさになることはない。

私たちの義はボロ雑巾のようだ、一度も汚れたことのない方、その方だけが私をきよく整えてくださる。
今回も丸太をそのまま使おうとしたり、私が適当に線を出してきざんでいたなら、巧くいかなかっただろう。
自然に生えている木は完全に真っ直ぐである事がない。真っ平らな木、真四角な木を森で見ない。
だから、まず、皮をむき、出ているところは削り、大体平らにしてから、墨壺で真っ直ぐな線を引く
それを基準として進めていかないと、しぐちがぴったり合うことはない。
私は工場から出てきた木材は便利だが魅力は感じない。
曲がっていたり、節があったり、部分的に皮が残っているその木の持つ個性や味わいが好きだ。
だから今回も出来るだけそれを残したが、他の木材とぴったりと合う所、全てが協調して、一つの建物となる美しさは、匠の技なしではなしえない。

32:4 主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。

木は削られるとき文句は言わないが、大工用語で「あばれる」と言うことはある。
その時はねかせておく、いわゆる乾燥させる。
期間は樹種によって違うケヤキは70年、針葉樹は冬に倒して葉を着けたまま乾かせると1年でも使えるらしい。でも同じ木でも1本1本違うから癖の強い木ほど長く寝かす。
さらに、大切な所、(例えば床の間)に使うモノなどはもっと長く寝かす。大体、苦労して育った木ほど良い木になる。痩せた土地、水のない岩の上、崖の先、高いところに育ったモノは成長は遅いが、木目が詰まっていて、香りも強く、しかも個性もある。
最低なモノは植林された木で、特に畑の下などは化学肥料を吸って成長は早いが中はぼこぼこで弱く、根を張らないので風で倒される事が多い。
乾燥させるとき水の中に沈めて寝かしておくとさらに良い。
水の中で乾くのか、と思うのは素人で、樹液が入れ替わり具合が良く早い。
天皇家の材として使う木は海と川の合わさるところで20年は沈めた木材だと聞いた事がある。
その時、あばれるだけあばれさせておくと、実に辛抱強い求められた事に答えてくれる品性のある木になるという。そんな偉そうな事を書いている私はどれくらいねかせられるのだろう。
| 兄弟姉妹のブログより | 08:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
真理に触れる喜び
 
みことばざんまい  MKさんのブログより


 2007/04/07のエントリーで以下のような考察をしました。内容自体に大きな変更はありませんが、この記事を一部修正しながら(一部に間違いがあります)検討を進めたいと思います。


ガラテア2章20節
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きている
のではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、
この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった
神の御子を信じる信仰によっているのです。
(新改訳)


「この文章の最初の一行目は、口語訳、新共同訳には存在しません。異本が存在するためです」と書きましたが、これは間違いで、

ガラテア2:19に、

わたしはキリストと共に十字架につけられた
(口語訳)

わたしは、キリストと共に十字架につけられています
(新共同)

とあります。そして、新改訳は上にあるように

ガラテア2:20a
私はキリストとともに十字架につけられました
(新改訳)

以上ご指摘の通りです。英語訳のほとんどは、この文章をガラテア2:20の文頭に入れています。実はその方が文法的により適切なのです。

原典をみると、この文章は

χριστω συνεσταυρωμαι(クリストー スーネスタウローマイ」という短い文章から成っていて、直訳すると「私はキリストと共に十字架に付けられてしまっている」。動詞の時制は完了形です。英語でもそうですが、「完了形」を日本語に訳出すると、多くの場合その本来の意味合いが落ちてしまうようです。的確な日本語表現が存在しないためです。

よって、

私はキリストと共に十字架に付けられてしまった

というややくどい訳出になってしまいます。

古典ギリシャ語の完了形というのは、「〜した結果、現在は〜である」という用法です。「現在は〜である」という文章が次に来ることが期待されます。

この原則をこの聖句に当てはめてみると、

私はキリストと共に十字架に付けられて「しまった結果」
(私は死んで)「現在」キリストが私の中で生き「ている」

となるわけです。

・・・(以下は参考までに)

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」に誤訳はありません。

問題は、次の文章です。

他の原典も確認してみましたが、この文章は関係代名詞(主格または対格)中性単数であるho(ホ)から始まります。この文章、そして前聖句にも中性単数名詞は存在しません。つまり訳出不能な文章なのです。この単語がなければ全く問題はないのですが。そこで、強引に以下のように解釈したいと思います。英語では前文全体を受ける関係代名詞whichがありますが、この用法を当てはめて直訳を試みます。

というのは、今私は肉の中で生きており、私を愛しそして私のために
ご自身を引き渡された神の子の信仰の中で、私は生きている。

となります。

「神の御子を信じる信仰」ではありません。これは極めて重大な誤訳です。「神の子の信仰」が正訳です。この大きな違いがお分かりでしょうか。「神の御子を信じる信仰」と訳出した場合の主格は誰でしょうか。「私」です。「私が神の子を信じる信仰」となりますが、原典にはそのようには書いていません。「神の子の信仰」です。つまり「人の子イエスが持っていた信仰」です。

主イエスがあくまでも神に従順であったが故に、私パウロは今永遠の命に与っている、という意味なのです


全文直訳します。

私はキリストと共に十字架に付けられてしまった結果、今私は死んでいる。
だから、もはや私が生きているのではなく、キリストが私の中で生きている。
というのは、今私は肉の中で生きており、私を愛しそして私のために
ご自身を引き渡された神の子の信仰の中で、私は生きている。

となります。「私は死んでいる」ので信仰を持ちたくても持てないのです。死んだ私に代わって、主イエスの信仰(神への従順)が私を生かしているのだ、とパウロは言っているのです。

主イエスの信仰が私(たち)を生かしているのです。言い換えると、主イエスの信仰によって私(たち)は生きているのです。
| 兄弟姉妹のブログより | 09:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
ブログのご紹介

 
  
「私ではなくキリスト」

 
http://makotono.tou3.com/


  姉妹のブログから溢れてくるキリストのいのち、

そして主の真実さに深く励まされています。

  
   「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」 

 
伝道書3:11



 

  

| 兄弟姉妹のブログより | 22:46 | comments(2) | trackbacks(0) |
ブログのご紹介


  主を褒め称えます。

  
  主はSugar兄を通して、新しい交わり、
主のいのちの内にある交わりへと
引き寄せてくださいました。

  彼のブログを通して、
主の光が多くの方々を照らしてくださいますように!

  そして、試練の只中におられる兄弟のために、

 そして、主のために

  お祈りください。



 「  この道のmemo 」  sasukeさんのブログ
  
    http://blog.7ecclesia.com/

「しかしこの時、人を生かす方は我々を覆われるのである。試みと死の経験の真っ直中で、不思議ないのちがゆっくりと自分のものになりつつあることを我々は意識する。この新しいいのちとは何か?このいのちを経験したことのない者にそれを説明することはとても難しい。「私にとって生きることはキリストである」という使徒の言葉で十分であろう。(中略)おそらく、以前なら決して夢にも思わなかったような意味で、「すべては我々のもの」である。そして語り尽くせない祝福の中で、我々は「神のために実を結ぶ」のである。自分のために実を結ぶのではない。」

C.G.ムーア              
          

「私たちは四方から圧迫されますが、
窮することはありません。途方にくれますが、
行き詰まることはありません。
・・・絶えずこの体にイエスの死を帯びています。・・・
私たち生きている者はイエスのために
絶えず死に渡されていますが、
それはイエスのいのちが 
私たちの死ぬべき肉体において現されるためです。
こうして、死は私たちの中に働き、
いのちはあなたがたの中に働きます。」

(コリント人への第二の手紙4章8、10〜12節)

| 兄弟姉妹のブログより | 08:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
福音はエンターテイメントではない〜『集会で恵まれた』の意味〜
 
クマ郎さんのブログより


アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。(使徒17:21)

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。(競謄皀藤粥В押腺粥

私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。(汽謄汽蹈縫隠押В粥


以下の文は、映画雑誌「プレミア」の編集者として来日し、かつてサッカー日本代表トルシエ監督の通訳、パーソナル・アシスタントを務めたフランス人、フローラン・ダバディー氏の著書「『タンポポの国』の中の私」からの引用である。ここではダバディー氏の映画についての考えが書かれている。

私にとって映画とは、エンターテイメントではありません。先日、ブルーノ・デュモンという映画監督のインタビューの中に、「最近は、日々の苦しい生活を忘れるために、みんなが映画に行っている。それはおかしい」という発言がありましたが、私もまったく同感です。映画=エンターテイメント、気分転換という考えを否定する彼の考えに、私は大賛成です。

映画は芸術であり、アートです。だから、本来映画を見に行ったら、無傷のままで、言うならば、心に何らかの重い衝撃を受けることなしに映画館を出ることなど、あり得ないはずなのです。必ず、大きなショックがあって、それによって見た人の内面が変化する。それが、本来の映画というものだと思います。

それが、映画を見終わったら、お茶を飲んでショッピングをして、というのは、本当は、おかしい。映画館を出たら、もうショックで口を利く元気もなくて、そのまま今日は、家に帰ろうかな、というのが普通です。もちろんコメディーに関しては、その限りではありませんけど。

ですからハリウッドの、気楽な娯楽映画を見て現実を忘れましょうというコンセプトには反対です。もし現実から脱出するのが真の目的ならば、これはほとんど自殺と同じことです。たとえ口当たりは苦くても、それによって暗く辛い人生が癒されたり改善されたりする、それが本来の映画のあり方だと思います。

・・・・映画館を出るときは傷ついていなければならないし、鑑賞後にショッピングや食事に楽しく出かけるようでは、その映画は失敗だったということです。「今日は一人で帰る」と言わせ、翌朝にそのテーマや哲学が生きている、大げさに言えば映画という芸術を通して自分自身が少し成長している、という映画こそが本来の姿であるはずです。

フローラン・ダバディー著「『タンポポの国』の中の私」より

クリスチャンの間でよく聞かれる「恵まれた」という言葉がある。
「今日のメッセージで恵まれました」「大変恵まれた集会になりました」という使い方がされることが多い。

私はこの「恵まれた」の言葉に違和感を感じることがある。なぜなら「恵まれました〜」と言う人の多くが、平気な顔をしているからである。本当の意味で恵まれてしまった人は、もはや楽しそうな顔で「恵まれました〜」などと言うことができなくなるはずである。

これらの浅薄な「恵まれました〜」の声を聞くと、現在は「人々が、自分のつごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行く時代」(競謄皀藤粥В魁腺粥砲覆里世隼廚錣困砲い蕕譴覆ぁ

ダバディー氏の映画についての考えは、クリスチャン生活にもあてはめることができる。文章中の“映画”を福音、集会、メッセージに置き換えれば、本当の意味で「福音を聞いて恵まれる」とはどういうことなのかを説明することができる。ダバディー氏の文書をベースにして、ここにそれを記します。

福音とは、エンターテイメントではありません。日々の苦しい生活を忘れるために、集会に行くというのはおかしいのです。福音=エンターテイメント、集会=気分転換という考えを否定する汽謄汽蹈縫隠押В粥↓競謄皀藤粥В押腺瓦法∋笋和膸神です。

福音とは十字架のキリストであり、神の言葉は剣です。それは私たちを死と復活へと導くものです。だから、本来集会にメッセージを聞き行ったら、無傷のままで、言うならば、心に何らかの重い衝撃を受けることなしに集会場を出ることなど、あり得ないはずなのです。必ず、大きなショックがあって、それによって聞いた人の内面が変化する。それが、本来の福音というものだと思います。

それが、集会でメッセージを聞き終えたら、お茶を飲んでショッピングをして、というのは、本当は、おかしい。集会場を出たら、もうショックで口を利く元気もなくて、そのまま今日は、家に帰ろうかな、というのが本当の意味で「集会で恵まれた」ということなのです。もちろん、弱っている人に励ましを与える場合は、その限りではありませんけど。

ですから、感情に訴えかけ、良い気分にさせてくれるメッセージを聞いて現実を忘れましょうというコンセプトには反対です。もし現実から脱出するのが真の目的ならば、これはほとんど自殺と同じことです。たとえメッセージが耳障りで口に苦くても、それによって心の中の暗やみが暴露されて、清められ癒されること、それが本来の「恵まれたメッセージ」の意味なのです。

集会場を出るときは傷ついていなければならないし、集会後にショッピングや食事に楽しく出かけるようでは、その集会でのメッセージは失敗だったということです。「今日は一人で帰る」と言わせ、聞いた御言葉が心の中で生きて働いている、気がつけば自分が終わらされて、内なるキリストのいのちが成長している、これが本来の「恵まれた」姿であるはずです。

多くの「恵まれました〜」は、じつは恵まれてはいない。その真相は神が「富む者を何も持たせないで追い返された」(ルカ1:53)ということである。

したがって、本来「恵まれました〜」と表現すべきではなく、アテネの人々のように「耳新しいことを話したり、聞いたりして過ごせてよかった〜」(使徒17:21)と表現すべきであろう。

福音はエンターテイメントではない。自己満足を求めて集会に行っても無駄である。本当の意味で恵まれるためには神の言葉によって傷つけられることがどうしても必要となる。神から受けた傷から復活のいのちが流れ出すのである。

私たちは聞き方に注意しなければならない。持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるのである。(ルカ8:18)

「トルシエの横で日本語で怒鳴っている外人は誰だ?」
そう思った人は、是非この本を読んで欲しい。(帯の記載より)


| 兄弟姉妹のブログより | 23:13 | comments(5) | trackbacks(0) |
Mr.Sugar のブログより「種なしパンの作り方」
 とても上手にパンを作るある姉妹から寄せて頂きました。



私が教わったパンの作り方です。

(材料)
小麦粉…大さじ1つ位(パンの大きさによりますが)
水  …適量

小さめの器に小麦粉を入れ、少しずつ水を加えながら
指先でこねていきます 
小麦粉が固まりになってきたら、器から出して
両手の指先でこねていきます
硬さは耳たぶ位の硬さです
主のことを思いながら、さらにこねていきます
もう十分だと思ったら、ボールの様に丸めてから、つぶし、
麺棒で丸くのばしていきます
ず埜紊鰐を引かないで焼きます
温めたフライパンか お鍋を弱火にしてパンをのせます
ゾ討い討い襪肇僖鵑反ったりするので、菜ばしでパンを
押さえながら時々返しながら、両面を焼いていきます
少し焦げ目がついてもいいと思います

以上ですが、おわかり頂けたでしょうか?
パンさきが行われるのは、本当にすばらしいです。


種が無い、
と言うのは 完全に純粋なと言うことですから、
パンを 膨張させたり、人の口ざわりをよくしたり
する物質は一切混入しません。
この事実は パンの味を舌で味わう私たちに 
主とこの道の純粋さと素朴さを感知させることでしょう。

私Sugar の好みかも知れませんが、
薄くて(主の弱さ)焦げ目のあるパンが慕わしいです。
何故なら 
それを兄弟姉妹が一人一人 自分の手で
パリッと裂く(割る)とき、
「ああ、主イエスもこのように裂かれたんだ」と
十字架上のイエスを 自分の指と目と耳で ある程度 
感じることが出来るからです。

私達、テーブルの下の汚れた子犬達は 
今日 テーブル(宗教)から落下した 
「パンくずの実体」を
日々 いただくことによって生きているのです。
| 兄弟姉妹のブログより | 06:48 | comments(2) | trackbacks(0) |