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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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主を仰ぎ見、神を待ち望む
   「 私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む

     私の神は私の願いを聞いてくださる」

        ミカ書 7:7


 主を仰ぎ見る、ということ 正直、初めはどういうことが仰ぎ見ることであるか

 さっぱりとわかっていなかった。

 目を閉じてイエス様を思うこと? 

 言葉上、仰ぎ見る・・だから、上を見上げて主を呼び求めること?

 賛美を捧げ、祈りを捧げることが仰ぎ見ているということ?

 教会に行き、

 礼拝の賛美の雰囲気に浸り、

 お祈りの時に・・主を向かうこと?

 

  これらの「行為」が主を仰ぐことだと思っていた。

 それらの行為をすることで、自分が神を仰ぎ見ていると

 いつの間にか思い込んでいた。

 確かに、それが間違っているということではない。

 しかし、主を仰ぐということは、これらの「行為」をしたこと によらない

 
 神のみ前に、主を仰ぎ見る  それは

 ただ一つの場所においてのみ  
 
 「十字架の上」  である

 
 手に握る多くのもの、自らのいっさいが死に渡される場所
 
 キリストと共に、私自身のものが尽き果てるその場所 

 私自身のもの言うとき、人は私の中の悪いもの、欠点、罪、取り除かれなければならない頑なさ、自己中心さ、傲慢さ・・など、だけを思うかもしれないが

 私の中のよいと思っているもの、忍耐、愛、自分の正しさ、自分の信仰、自らの聖、優しい所・・一生懸命さ、霊的さ、もっといえば

 賜物もすべてである。

 私のすべてが釘付けされる場所 十字架

 その場所に誰が好んで行こうと願うだろう 

 
 でも、主は、愛する者を、愛するがゆえにその場所へと導かれる

 その場所に置かれる事を通して、

 自らのもの(力)に頼って「主を仰ぎ見る」ことから、

いのち=キリストによって主を仰ぎ見ることを真実に学び始める

 パウロもコリント僑院В垢

 死を覚悟した時、それはもはや自分自身にではなく、死者たちを起こされる神にこそ信頼を置く者となるためであったと言っている。


 十字架(死の宣告)の上で 主を仰ぎ見る事がどのようなことであるのかを知り、

 すべてのすべてである

 このお方、キリストの死の力が私の上に働く事を・見・、

 キリストと共によみがえる、 いのちへと移されることの 

 復活の大能を見・る・からです

「死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。 」

       ローマ1:4
 
 復活を通して、大能によって公に神の御子が示されるのです!

 ハレルヤ!

 十字架を通して

 私やあなたの内にはっきりと神の御子が示されるだけにとどまらず、

 生けるキリストを見、また触り、聞いたキリストの証人とされるのだ

 もはや聞いたあのメッセージ、この聖会の話、誰々さんの証

 読んだ本の中からの知識、教理としてのキリストではなく、

  見て触ったキリストを証する者とされるのである

 
  
 キリストと共に十字架につけられ、共によみがえらされ、

 天の所にキリストと共に座らされている、ということを

知識として 知っていても、 それはなんの力にはなりません。 

いのちの法則を語っても、言葉だけの説明なら

いのちが注ぎだされることはありません。

いのちが注ぎだされるのは十字架の上です! 

立派な教会堂や講壇の上から注ぎだされるのではありません


十字架の上で、仰ぎ見ることによって神を待ち望み

 いのちへと移され

 実際に内に働く力そのものであるキリストを見、生きた証人として遣わされるのです。

 

  主を仰ぎ見る その場所へと導かれ、

 神を待ち望むことを 主から学ばされる事は主の深い憐れみ、そして、恵みです
 
 「私の神は 私の願いを聞いてくださる」

 もはや、肉の思いから出るわ・た・し中心の、わ・た・しの願望 からも自由にされ

 願い以上の、キリストご自身 が与えられていることの喜び、真の満足がキリストご自身にあり

 状況は何も変わっていなかろうが、

 平安なる主に満ちたりるのです。
 

 
   
| 御言葉の分かち合い | 07:07 | comments(2) | trackbacks(0) |
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コメント
失礼します。
聖書の十字架-3日後復活 の話は実話ではなく、古代宗教からの複製であったそうで外国では近年割と広まっているそうです。
http://blog.goo.ne.jp/b5550/e/6d03488cc32364e8dfd01749acf913fb

冬至に太陽神が死に、3日後に復活するとされ(12月25日)、この日は盛大にお祝いをされていました。イエスの話は古代にオリジナルが在ったということになります。太陽神の地エジプトで南十字星の天体観測から、何千年も昔に生まれていた神話なのだそうです。
http://www.stellarhousepublishing.com/christinegypt.html

またパウロは初代教会には異端視されており、「異質の宗教を作り上げた男」、論敵でした。
しかし次第に甘い言葉に釣られたパウロ派集団が多数派になり、4世紀“カトリック”として帝国に公認され、現在のキリスト教に成長したのです。それ以前はパウロに反駁するキリスト教集団もおりました。
http://9752.zz.tc/
> パウロは、異邦人改宗者に対して割礼、食物禁忌、律法遵守を免除したため、エルサレム教会から猛反発を受け、
 
彼の唱える『原罪』は元の概念を逸脱していますしユダヤ教徒にとって新約は神の言葉でも何でもありません。
ユダヤ人イエスにとっても恐らくそうでしょう。
|  1000 | 2012/08/04 11:15 PM |

1000さんへ

コメントをありがとうございます。

丁寧に色々と書いてくださり、少しあなた様のブログも読ませていただきました。

初めにお断りさせていただきますが、「人類が救いどころか余計に苦しんだ現実は救い主がでっち上げだった」・・とおっしゃられるあなた様の主張となにか論争をしようなどということは思っていません。

イエスというお方が、あなたにとってただのユダヤ人イエスであり、あなた様の人生にとって、何の関係もない方とされるのは、あなた様の自由です。それもある意味あなた様がそう信じていらっしゃるのですから、あなたさまの信仰ですね。

イエスはお弟子さんに問われている所がありますね。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」

シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

 マタイ16:15〜17

 生ける神の御子キリストであると、知ることができるのはは
天の父によるとかかれてあります。人間の知恵や知識によって知ることはできません。


 あなた様は歴史書などから、「イエスは自宅で老衰して死んだ」そのように学ばれたのかもしれません。

逆に言えば、その本に書かれてあったことも、本当かどうかを知る術はどこにもないのではないでしょうか。聖書をお疑いになられているなら、ほかの歴史書に書いてあることもまずおなじように、疑い
神がおられるなら、答えてくださいと
神の前に、直接あなた様ご自身の口から求められる事をお勧めいたします。


 ただ、私にとって、最大の関心事は先ほどの聖書のみ言葉の問、あなたは私を誰だというのか。これを知り続けることこそ、最大の願いであり、また求めです。それはあなた様にとっても同じなのです。


キリストは罪の赦しを与えるために十字架にかかられ、罪の贖いとなってくださいました。

私にとって、イエス・キリストというお方は、罪が与える苦しみから完全に解放してくださった、生けるまことの救い主であられるという事を、私の人生の中で体験してしまいました。

イエスキリストを信じるなら、罪の赦しが与えられる
と聞いて、真っ先に信じます、と告白したほど、当時の私は、自分の愚かさや罪に悩んでおりました。どこの宗教に行こうが、私のこの心のうちの闇、苦しみ、罪責感から私を自由にしてくれるものは何一つありませんでした。

ところがイエスキリストを信じますと 一人、本当に一人(誰かに言わせられたのではなく)神の前に注ぎだすように告白したとき、内側から、「あなたの罪は赦された」というイエス様のみ声を聞いたのです。

空耳?かと思われるかもしれません。
しかし、その声を聞いたとたん、私はそれまで苦しみ続けた罪の呵責から、まるで縄目からとかれて自由になった鳥のように、解放された事を確かに感じたのです。

罪を赦されるのは、ただ神お一人のほか誰ができるのでしょう。

その思いは一時的ではなく、今に至るまでその心の自由は消えたことはありません。

十字架がなければ、また復活がなければ、私の信仰はむなしく、私は全く絶望的な状態のままだったでしょう。私はイエス様が私の救いとなってくださっていなかったら、この人生をユダのように自分で終わらせていた者です。


イエスが神の御子キリスト、救い主でなければ、こんな素晴らしい罪の赦しを与えられるでしょうか。

私の内側に与えられ続けている赦しの喜び、イエスが私の内に生きておられる事を通して、味わい知るよろこびが
狂人扱いとされるなら、こんな幸せな狂人でいられることのほうを喜びます。

それはあなたにもぜひ、知っていただきたいと思う喜びなのです。

答えになっていないと思われるでしょうが、これが私にお答えできる精一杯のことです。どうぞ言葉足らずをお許しください。

神の祝福が1000さんの上にとどまりますように・・・。





| candy | 2012/08/06 12:51 PM |

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