SELECTED ENTRIES
RECENT COMMENTS
RECENT TRACKBACK
CATEGORIES
ARCHIVES
LINKS
PROFILE
MOBILE
qrcode
フラワー

動物をクリックしてみてね^^
SPONSORED LINKS

09
--
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
--
>>
<<
--

十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
<< 交わり | main | 真の柔和さ >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - |
出て行くことと戻ってくること
 
 ある兄弟が主を信じてから二年後に、ブラザー・ローレンスの『神の臨在=敬虔の生涯』という本を読みました。それを読み終わった彼は、自分がブラザーローレンスのように絶えず神の臨在の中にとどまることができなかったことを、とても苦痛に感じました。そのころ、彼はもう一人の兄弟と一時間後とに一緒に祈ることに取り決めていました。なぜかと言いますと、聖書に『絶えず祈りなさい』とあるからでした。彼らはそれを変えて、「一時間ごとに祈りなさい」にしたのでした。
それで柱時計が時報を告げるのを聞くと、そのたびに彼らは祈るのでした。彼らは神の臨在の中に絶えず自分自身を維持することはできないと感じていたので、神の中に戻ることに最大の努力を尽くしました。それはあたかも彼らが仕事をしている間は神から離れてしまっているので、急いで神の御前に戻ってくる必要があるかのようでありました。あるいはまた彼らが勉強している間は神から飛び出してしまっているので、すばやく神のみ前に引き返さなければならないかのようでした。
そうしなければ一日中神から離れていることになるのでした。彼らはよく祈りました。日曜日は一日中、土曜日は半日、祈りに費やしました。こうしたことが2,3年続きました。
それでもなお、困難がなくなりませんでした。戻ってきたときは神の臨在を覚えましたが、出て行ったときには、それがなくなりました。もちろん、これは彼らだけの問題ではありません。

多くのキリスト者の経験もこれと同じです。これからわかることは、私たちは自分の記憶によって神の臨在を維持しようとしているということです。私たちの記憶にしたがって神の臨在があったりなかったりするのです。これは全く愚かなことです。

なぜならば、神の臨在は霊の中にあるのであって、記憶の中にはないものなのです。

この問題を解決するために、わたしたちはまず、外なる人が砕かれるという問題を解決しなければなりません。私たちの感情も思いも神と同じ性質のものでないために、神と結び合わされることはできないのです。ヨハネの福音書4章は、私たちに神の性質とはどのようなものかを示しています。神は霊です。私たちの霊だけが神と同じ性質のものであって、永遠に神と結び合わされることができるものなのです。ですから、もし私たちが自分の思いを働かせて、神の臨在を得ようとすれば、思いが集中していないときは、あたかも、神の臨在がないかのように思われます。また感情を働かせて神の臨在を呼び起こそうとすれば、感情の緊張がゆるむと、神の臨在はなくなるように思われます。とてもうれしいとき、私たちは神が臨在しておられるからだと思っているので、うれしさがなくなると臨在もなくなってしまうのです。あるいは、私たちが悲しんで涙を流しているとき、神の臨在を覚えると思うかもしれません。しかし、私たちは一生涙を流し続けることはできないのです。すぐに私たちの涙はかわき、同時に神の臨在もなくなってしまうのです。私たちの思いも感情も人の力に過ぎません。すべての行為に終止符が打たれなければなりません。行為によって神の臨在を維持しようとすれば行為を止めるときに神の臨在もなくなってしまうのです。

臨在には性質が同じであることが必要なのです。ただ、内なる人だけが神と同じ性質なのです。それによってのみ、神の臨在がはっきりしてくるのです。外なる人が行為の中に生きているとき、内なる人を妨げます。ですから外なる人は内なる人の助けとはならないばかりか、妨げとなります。外なる人が砕かれるとき、内なる人は神の御前で平安を得ます。

私たちの霊とは、神が私たちに与えて神に応じることができるようにされたものです。しかし、外なる人はいつでも外側のものに反応を示しています。このために私たちは神の臨在を楽しむことができないのです。私たちは外側のものをすべてなくすことはできませんが、外なる人を砕くことはできます。外側のものを停止することはできません。この世の何兆何億のものは依然として働いているのです。何事が起こっても、ただちにわたしたちの外なる人は反応を示すのです。このように私たちは安らかに神の臨在を楽しみ続けることができません。ですから、神の臨在を経験するためには、私たちの外なる人が砕かれていることがその条件なのです。
| ウオッチマン・ニー | 21:52 | comments(8) | trackbacks(0) |
スポンサーサイト
| - | 21:52 | - | - |
コメント
あぁぁぁ,,,ビックリ、この箇所は、私が今日、午前3時頃目ざめて...読んでたところです...。「霊の解放」
| miyuki | 2009/09/29 11:45 AM |

管理者の承認待ちコメントです。
| - | 2009/09/29 3:33 PM |

miyuki さんへ^^


同じ本に触れ、同じところをともに味わっている、なんだかとってもうれしいですね+.(´∀`*).+゚.

素晴らしい本ですよね、読んだだけにとどまらず、その実際の中へと導かれてゆきたいですね^^
| candy | 2009/09/29 8:33 PM |

そのとおり、なるほどと気づかされます。

「私たちは外側のものをすべてなくすことはできませんが、外なる人を砕くことはできます。」

環境に気持ちが揺さぶられ、自分を出します。
しかし神の平安もあります。

十字架の恵みであり、

「いま私が、この世に生きているのは、
私を愛し私のためにご自身をお捨てになった
神の御子を信じる信仰によっているのです。」
の信仰だと思いました。

| | 2009/09/29 9:15 PM |

外なる人が砕かれる、これは本当に主の深い取り扱いの中で、最善の時に御手によってなされるもの 私たちはただ静まって主を待ち望むだけ。
まさに十字架の恵みですね。ガラテヤ書の御言葉、アーメンです。
| candy | 2009/09/29 10:54 PM |

>私たちの思いも感情も人の力に過ぎません。すべての行為に終止符が打たれなければなりません。

主に集中する努力やめ、そのこともすべて主に頼って手放しの状態になれたのは、やはり十字架、そして死に留まることを実際に理解してからだった、と、納得ですね。

そして、主は私たちをもニーが経験した同じ原則、同じ道の上を導いてくださっていることを見るとき、深い安堵と喜びを感じます。

新たなことを学ぶというより、主から直接学んでいることの確認や交わりとして読めるという…これは極上の楽しみ^^

(やはり持っているのはこの本でした。パラパラめくってみています。)
| emi | 2009/09/30 7:38 AM |

自分では気づかずに、主の最善のときに外なる人は砕かれるのでしょう。
静かに主を待つ。何と幸いなことでしょう。
(昨日はコメントに名前を入れたのですが、修正した時に再入力を忘れました。)

| ik-hoshino | 2009/09/30 7:54 AM |

emiさんへ+.(´∀`*).+゚.

>新たなことを学ぶというより、主から直接学んでいることの確認や交わりとして読めるという…これは極上の楽しみ^^

アーメンです。本当にそうですね!極上の醍醐味♪さらに御言葉の実際へ、その深みへ主は連れて行ってくださいますね♪


ik-hoshino さんへ

 アーメン。静まって主を知る、まさに死と復活ですね!

私たちはますます十字架にとどまりましょう
| candy | 2009/09/30 9:15 PM |

コメントする









この記事のトラックバックURL
http://toku-sati.jugem.jp/trackback/74
トラックバック