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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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十人の乙女の譬え

そこで、天の国は次のようにたとえられる。
十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出ていく。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていた。

ところが、花婿が来るのが遅れたので、皆眠けがさして眠り込んでしまった。真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がした。
そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。
「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。賢いおとめたちは答えた。
「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買ってきなさい。」
愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿を一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。

その後で、ほかのおとめたちも来て、「御主人様、御主人様、開けてください」と言った。しかし主人は、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。
 


 マタイ25:1〜13

 
 日本とは違うユダヤの婚姻の背景を理解することで、見えてくる多くの事柄があります。ユダヤでは結婚が成立するまで3つの段階がありました。

一つは婚約です。これは単なる約束事ではなく、法律上の夫婦とみなされるのです。
ですから婚約破棄は、離婚と同じ手続きになりました。

婚約した後、花婿は花嫁から身を遠ざけ、父の家に帰り、父の家に妻を受け入れる部屋

離れを建てるのです。畑を耕し作物を作り、・・と花嫁を迎える十分な準備を整えます。

そしてその期間はおおよそ一年間であるといわれています。

花婿も、約一年たったら再び花嫁を迎えに行くことが出来る事、そしてそれは決まって夜になるということだけは知っていましたが、いつであるという正確な日にちは父だけが知っていました。

おおよそ一年の準備期間を経て、花婿が建てた離れのできばえを見て

そしてはじめて父からゴーサインの後、花嫁を迎えに行くことができました。


 花嫁自身も、花婿がおよそ一年後に戻ること、そしてそれが夜になるという事だけは知っていたのです。

 
  ここまでの背景だけでも、あちこちでお語りになられた主のお言葉を思い起こします。



 
 「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。

わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」

   ヨハネ14:2〜

  

「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。 」

 マルコ13:28〜

 
 「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。

 天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。 」 

  マルコ13:32


「腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。

主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。

帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。

まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。

主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。

 このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。」

 ルカ12:35〜


 このルカの12章35節の前には、神の国を求めること、天に宝を積むこと、

 そして、

「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。 」

 と話されたすぐ後に 腰に帯を締め、あかりを灯していなさい。と続くのです。


 10人の乙女らの心がどこに有るのか、このたとえはそのような視点から読み解くことが大切ではないかなと思わされます。

賢い、すなわち、宝なる花婿にいつも心がある乙女5人は 再び迎えに来られる日が近づいた事を、イチジクの木のから学ぶようにして見分け、決まって夜に来る花婿のために、

ともし火を灯して出迎えるために、肝心な油を整えておくことは自然なことではないでしょうか。

 同じ花嫁でありながら、まだ迎えに来ないだろうと、

 花婿以外のものに心を奪われていたために油断=文字通り油を絶やしてしまった愚かな乙女5人

 は、この油断する姿から、

 マタイ24:48に書かれてある悪い僕のたとえと重なります。

 「それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、
その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、・・・思いがけない日の思わぬ時間にその僕の主人が帰ってくる・・というお話しです。


よくよく考えてください。逆に言えば

 花婿が再び来られる時まで、花嫁には十分に油を整えておく時間が与えられていた、

 ユダヤ式でいうなら、一年という準備期間が花嫁の側にも与えられていたと言うことになります。

 花嫁の心が、その十分な準備期間の間、心、花婿にあらず、主人はまだまだ帰るまい、

 ということが

 油を整えていなかったことに表されているのではないでしょうか。
 
 
 
 そして、油は聖霊の象徴とされています。

 だとするなら、なおのこと、足らなかったら、あわてて買いにでかけたり、人からもらったりするようなものではありません。

 日々、宝なるイエスの内にとどまり、御霊に満たされ、御霊によって歩む生活が、油を用意している賢い乙女だとするなら、

 愚かな5人の乙女らは、そうした日々主とともにある歩みそのものが、欠如していたことになるのです。


 
 この続きはまた.+:。☆(-∀・*)
   
  
 





 
| 御言葉の分かち合い | 08:12 | comments(12) | trackbacks(0) |
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コメント
深いですね ハレルヤ!
 _欺は5人と5人 この数字は何を示すのか?
◆,箸發群个六ってる、でも油は切らしている→一度キリストを受け入れたのに、始めのころのように聖霊を保ち続ける道を選ばなかった ということ クリスチャンで在り続けることは簡単ではない 神の知恵によって賢くなければならない ということ かな?
 花嫁なら 結婚のその日を待ちごがれるもの その気持ちがあれば油はいつでも用意してしまう、それほど花婿は素晴らしい方 それとも1年という期間が花嫁の気持ちを油断させるのだろうか、なぜユダヤでは婚約から1年と決められてたのだろうか・・ぁ_嵬擦来るのは夜 なぜ夜?
続きを期待しております 
| イチゴ | 2012/05/09 5:00 PM |

管理者の承認待ちコメントです。
| - | 2012/05/10 6:47 AM |

管理者の承認待ちコメントです。
| - | 2012/05/10 6:58 AM |

イチゴ姉ちゃんへ

なぜ5人づつなのかは分かりませんが
このような事をおっしゃる方も見えました。

「賢い人と愚かな人」の比較には、ある共通したメッセージがあるように思います。それは「実は最初から違っていた」ということではないでしょうか。5人の賢いおとめと5人の愚かなおとめは、ある時点までは同じように見えていました。前述のように、花婿を迎えるために美しく着飾っていました。おそらくお化粧にも時間をかけてしてきたことでしょう。手にはともし火も持っていました。花婿の到着が遅れたため眠り込んでしまったことまでも同じです。つまりぎりぎりまで両者は同じように見えていましたが、結末はとんでもない違いです。でも実は結末だけが違っているのではありません。途中から違ってきたのでもありません。最初から違っていたのです。予備の油を用意をしなかったことでは、最初から違っていました。途中も違っていました。ただそれが見えなかっただけであり、花婿の到着が遅れたという出来事を通して見えるようになったにすぎません。・・岩の上の家と砂の上の家も同様です。洪水が押し寄せるまで2つの家は同じように見えていました。しかし結末には決定的な差が出ました。前者は洪水にもびくともしなかったのですが、後者は家財道具もろとも濁流に飲みこまれてしまいました。一切が無駄になってしまったのです。2つの家の場合も、実は最初から違っていたのです。途中も違っていました。そうです土台が違っていました。土台という普段は目に見えない部分が最初から終わりまで違っていました。

 」と。 

なるほど、と思わされました。

うわべは同じようでも、実は全く違う。
終わりの時代、患難の中へとますます入って行くにつれ、この土台の違いがはっきりとしてくるのかもしれません。
『わたしに向かって「主よ。主よ。」という者がみな天の御国にはいるのではなく・・と、ここでも主は
愚かな5人のおとめらに言われたように、
「わたしはあなた方を全然知らない」と主はおっしゃられていますね。

| candy | 2012/05/10 9:56 PM |

夜は、昼の反対ですね。あたりは暗い。しかし、夜には花婿自身も光を携えてやって来るでしょう。あたりを照らす為に。家を間違わない為に。その花婿の灯火を持ちながら(花婿自身が灯火、光とも言えます。)私たちに近づいて来られる姿は闇に輝いてなんと美しい事でしょう。花嫁には待ち望んだ心踊る灯りです。
詩篇第119篇は私の愛読箇所の一つです。そこから夜、真夜中についての御聖霊の導きを得られます。そこには、何故夜か、というよりも、夜に神を待ち望む昼の人が描かれています。私たちはこの様な人でありたいと私は思いました。
詩篇第119篇55節,56節
「主よ。私は、夜には、あなたの御名を思い出し、また、あなたの御教えを守っています。これこそ、私のものです。私があなたの戒めを守っているからです。」
「これこそ、私のものです。」とありますが、続く57節にもあるとおりに、主自身が、私たちの受ける分、私のものです。主は花婿だからです。私達はその主イエス基督の名を夜に思い出し、彼の教えを守ります。どのようにしてでしょうか。御聖霊の力、導きによってです。私達は元来自分のしたい事をし、考える。
だから、夜に「主」という御名前を思い出し、つまり父、子、聖霊の御名前を思います。
そしてこの神の戒めを守るには恵みによって基督イエスの内に在るしかありません。主イエス基督に繋がらない人は何も出来ないからです。この繋がる、の単語は中に在るという意味だそうです。しかし既に私達は主イエス基督の身体とされており、また、主の内に在ります。主の内に在る人は必ず善い実を豊かに結んでいくようにされます。それは約束だからです。善い実を豊かに結ぶとは、私達自身に御聖霊が主の戒めを守らせ実現してくださる事です。主の戒めは愛だからです。
詩篇第119篇62節。眠ってしまったことについて。
「真夜中に、私は起きて、あなたの正しい裁きについて感謝します。」
誰が起きるのだろう。それは花嫁です。この花嫁は自分が寝た事を知っているが、主に感謝します。何故でしょう?この花嫁は主の正しい裁きを知っているからです。主は信仰によって生きる者を義しいと言われます。これは正しい裁きです。御子を信じる者は裁かれない。
詩篇第119篇105節。灯火について。
「あなたのみことばは、私の足の灯火、私の道の光です。」
神のことば、が灯火であり、光だと御聖霊は教えておられます。「あなたののみことば」とは一体何だろうか。それは究極的には主イエス基督をさしているのだと思います。主イエス基督が、私たちの灯火であり、光。誰が灯火を持つのだろうか。神に愛されて恵みによって召され、主イエスの内に在る私たちでしょう。

詩篇第119篇122節。油について。エペソ1章14節。
「あなたの僕の幸いの保証人となってください。…」 「聖霊は私たちが御国を受け継ぐ事の保証であられます。これは神の民の贖いの為であり、神の栄光がほめたたえられる為です。」
私たちが御国に入れるのは、御聖霊により保証されています。御聖霊自身が幸いな保証と成られたからです。ハレルヤ。神に栄光が帰されますように。
灯火の油が在れば、慌てる事も恐れる事も無いわけです。それが保証だからです。
灯火の油を持って眼を覚ましているとは、実は基督イエスの身体とされた人に油なる御方が宿っておられる事をさし、御子と御聖霊と共に歩み、父に向かう、あるいは礼拝し、仕えることをさすと思われます。
では愚かな娘とは一体何者なのだろうか。基督イエスを待っている。これは同じです。しかし愚かな娘達は初めから用意していなかった。油が無かったのではなく、少なくて消えてしまいそうになる。マタイ25章8節。
聖書には、聖霊の火を消してはいけません。とか、自分の身体がもはや自分自身のものではなく、神の霊の宿る神殿である事を知らないのか、などと書いてあります。
仮に私たちがもし初めから油を少ししか用意していなかったなら、いづれ火は消えると理解出来たはずです。しかし愚かな娘たちは用意しなかった。本当に愚かな娘です。
マタイ25章4節を見ると、「賢い娘達は、自分の灯火と一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。」とあります。
つまり灯火と油は同じ一つの入れ物に一緒に在ったと分かります。
灯火は究極的には、ことばと呼ばれる神の御子であるなら、その方と一緒にいられる油は聖なる存在でしかない。しかし私たちはその聖なる方、保証であられる方の内にも今既に入れられています。
詩篇第119篇に戻ると、幸いの保証人ということばが出て来る。エペソ書によれば、保証とはやはり御聖霊自身だと教えている。
詩篇著者は幸いの保証人に主御自身が成ってくださいと願う。しかし私
| Gaolin Shengshu | 2012/05/15 10:32 PM |


詩篇第119篇に戻ると、幸いの保証人ということばが出て来る。エペソ書によれば、保証とはやはり御聖霊自身だと教えている。
詩篇著者は幸いの保証人に主御自身が成ってくださいと願う。しかし私たちは基督イエスにより保証であられる御聖霊をこの神殿に無償で得ました。だから感謝します。
ただ誤解してはいけないのはルカ12:47に教えられているように、「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかった僕は、酷く鞭打たれます。」とありますから、
私たち昼の子供とされた人々は、神の御心を知って、それを備えて、働く(主に仕える)必要があります。その必要は救いの為の業ではなく、単に花婿がそれを望まれているからです。
しかし恐れる必要はありません。全ての事は主が、成し遂げてくださるからです。たとい私たちが自分自身を悪いと思うにしても、主はとこしえに、決して、私たちを捨てず、離れないからです。だから私たちはただ主に感謝し、立ち返り続け、導き続けられて御国まで連れられて行けば良いと思うのです。
御心は信仰によって生きること、永遠の生命です。そして御聖霊の力によって善い業を成し、主の為に生きる事でしょう。
しかし何をした、しなかったと自身の業を誇る人は知らないと言われます。それは神の御子の死を無意味にする事だからです。この話では愚かな娘達が私たちも油を用意して来ました。と言って自らの業を誇るのと同じです。しかも彼女達が用意したのは遅かった。
だから常に私たちは主に祈るべきだと思う。主により頼む為に。

最後まで読んでくださいました方、ありがとうございました。








| Shengshu Gaolin | 2012/05/15 11:32 PM |

たくさんの知識をありがとうございます。
言葉で書けませんが、なぜ夜なのか分かったような気がします。夜が始まりの時なのです。油は保障、与えられるもの、切らさないためにはどうするか、ではなく、只 主を思って準備をしていたいと思います。
| イチゴ  | 2012/05/16 10:48 PM |

神の言葉である聖書の知識を持つことは、とても大切です。必要に応じて私達の深い井戸からくみ上げてくださるからです。
でも、もっと大切なことは、イエス様をじっと見上げて(霊において)見つめ合い語り合い触れ合うような日々の交わりかと思います。
そうこうしているうちに、その人自身に油が浸透していきます。
主は油を買いに行くようには仰ってはいません。主は「目を覚ましていなさい」と仰いました。
雅歌に「眠っていても私の心は目覚めていました」とあるように主をいつも見つめていたいですね。
| りーちゃん | 2012/05/17 8:01 AM |

Shengshu Gaolin さんへ

とても丁寧にシェアしてくださってありがとうございます。
>この繋がる、の単語は中に在るという意味

キリスト・イエスの内に在るとは、何たる幸いなことでしょう。

>既に私達は主イエス基督の身体とされており、また、主の内に在ります

アーメン

しかし、私は長い間、この事を知識として理解し、また信じてもいましたが、なんといいましょうか、・・
聖所に言い表すなら、全く外庭にいて、肉の目、肉の力、肉の行い、肉の判断によって歩んでおりました。(そのことすら自覚がなかった)ですから御言葉も、ただ知識に頼り、理解すら肉に頼っておりました。ですから、分かったつもり、信じたつもり、見えているつもり・・信じます、信じます、ともがきつつ、必死に祈って委ねようとする、全く苦しいクリスチャン生活
聖所、至聖所を外から眺めているだけの者でした。

しかし、神は憐れみに満ちたお方で、そんな肉によって生きる外庭信者である私の魂を、色々な経験、困難や苦しみを通して聖所へと導いてくださいました。
しかし、神の導きはそこでストップではありませんでした。
まだ、至聖所(霊)の中へと導かれなければなりませんでした。
聖所と至聖所の間には何がかかっていたでしょう。垂れ幕です。
その垂れ幕にはケルビムが刺繍してあります。十字架の贖いが成し遂げられたとき、この垂れ幕は上から下にかけて真っ二つに裂かれました。当然、刺繍してあったケルビムも裂かれました。このケルビムはライオンの顔、牛の顔、鷲の顔、人の顔です。
つまり神の被造物の代表を意味しています。その幕屋がキリストと共に裂かれたのです。
これこそ、キリストと共に十字架につけられた・・ということを表しています。
魂の聖所から、至聖所に導かれるには、このキリストと共に十字架につけられた、ことが、外庭から知っているのではなく、そこに導かれて実際に入って行くこということです。神が備えてくださった恵みの時に。
裂かれることですから、死を意味します。死とはもう己では、何にも出来ない、抵抗すら出来ない
ただ死の中にとどまる状態です。

パウロ自身も次のように述べています。
「兄弟たちよ、私はあなた方が、アジアにおいて起こった私たちの患難について無知でいてほしくない。なぜならば、自分たちの力を超えて極度に圧迫され、その結果、私たちは生きることさえ、断念したからである。実際、私たちは自分自身への死の宣告を受けたのである。それは私たちが、自分自身ではなくて、、むしろ、死者たちを起こされる神のこそ、信頼をおく者となるためであった」コリント僑院В検

この十字架のイエスと共なる死は、私たちをもはや肉によって歩むことから、霊によって、御霊によって歩む道を開きます。死からいのちへと移されるのです。

もはや自分自身にではなく、死者を起こされる神に信頼をおく者とされるのは、全く神に拠ります。

救いに至るまでも全く神の導きだったと同じように、至聖所へと至る道もイエスとともに
この方に導かれて入って行くのです。
苦しみさえも賜った理由が、この至聖所にはいることによって蜜のように甘く変わる事を見るのです。

そこでは 「もはや私がいきているのではなく、キリストがいきておられる」事を知って、
「神の安息にはいった者は、神が自分の業を離れてそうしたように、自らも自分の業を離れて安息」
 (へブル4:10)していることに気がつきます。
「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」
詩篇119:103
と、主ご自身である御言葉の甘さに浸る喜びが
備えられている事を知って、主を仰ぐ

「私ではなく、キリスト」すべてのことにおいて、主がたたえられますように!







| candy | 2012/05/17 9:09 AM |

アーメン。主に在る交わりを感謝します。「生きるとはキリスト」ですね(o^^o)
私達信じる者は初めから終わりまで、文字通り主なる神様により選ばれ、成し遂げてもらい、帰ります。その道は信仰に始まり信仰に進みます。そして今は大牧者のもとに帰り着きました。

既に御認めのように、私達は血と水と霊により、洗われました。型ではない、真の幕屋に入りました。いや、入れられました。そしてさらには聖所から至聖所に入っています。招き入れられました。
しかし普段はそれを忘れているか知らないだけです。
私はでき得る限り心を尽くし、精神を尽くして私が今現在、恵みによって何処に置かれているのかを私自身思い起こしたいと考えています。
あなたの書かれた事柄がよく理解できます。これは日々のことです。常に基督イエスの血により、お父様は私達のことを無条件に受け入れてくださいます。待ち受けておられます。同じ部屋にいてそっぽ向く私達がいる。しかし部屋にいます。神はここにおられます。私達も神の内に在ります。
またローマ8:9には言葉としては神殿とか至聖所という単語は有りませんが、それは認めようとするなら認められます。こうあります。
「けれども、もし神の霊があなた方の内に住んでおられるなら、あなた方は肉の中にではなく、鷆霊鷆の中に居るのです。」
私達は基督イエスの身体であり、神の霊の住まわれている神殿です。と有りますが、ここローマの手紙でパウロは私達の立つ場所がモーセが履物を脱いだ山よりもさらにまさった神の霊の中であると告げています。何という事でしょう!この上無き聖なるところ。
ここは至聖所の中です。主は私達に会見を望まれました。皆が共に主と交わりをもてる場。皆が今はここに呼ばれました。私達はここで、礼拝します。霊と真理に在って、父を礼拝します。
霊がわきおどる。永遠の住まい。主に感謝します。主は偉大。主イエス基督の十字架の輝きを現してください。
| shengshu.gaolin | 2012/05/18 11:11 PM |

聖書からも体験からも様々1人1人が、違う側面を知り得ています。しかし同じ基督イエスの身体です。
同じ父なる神様の子どもとされました。
私も主を待ち、耳を傾け、仰ぎみることが大切であると思うし、満たされることが絶対に必要と感じます。生活中それを願っています。
昔めちゃくちゃ知識が無い、聖書を曲解している群れに居た経験があり、だからこそある人には知識という聖霊の分け与えられるよきものを私は愛はもちろんですが、重要と感じています。私が手なら他の人は足か、腹か、各各違います。
だからそれぞれが主に在る身体の部分として認め合い、共に礼拝出来たらと思います。
| shengshu.gaolin | 2012/05/18 11:44 PM |

shengshu.gaolin さんへ

このようにキリストの内にあって御言葉を味わい
思い巡らし、また御座の前に、愛するあの方を待ち望む時を、shengshu.gaolin さんを通してお与えくださいました主を心から仰ぎます。

平安が今日もshengshu.gaolin さんの上に豊かにありますように。
「そして、私は次のことを祈る。すなわち、あなた方の愛が、知識とすべての感覚においてなおいっそう満ち溢れ、その結果あなたがたが、真に重要な事柄をわきまえて、キリストの日に純真で責められるところのない者となるように、そして、イエス・キリストを通して義の実に満たされて、神の栄光と賞賛へと至るように。。」


>しかし普段はそれを忘れているか知らないだけです。

「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」

さえぎられている目が主によって開かれることは、主の恵み、一方的な憐れみによりますね。
この栄光に富んだお方が 共におられることが
激しい流れのように思いに押し寄せてきます。
その流れの中で、すべてのこと、どんな普段の些細なことの中にも主がおられる事を見つける喜び、それはまるで、「ほら、これも主」と印がつけられているかのように、鈍い私にも分かりやすく御霊は知らせ、思い起こさせてくださいます。ハレルヤ!



>私はでき得る限り心を尽くし、精神を尽くして私が今現在、恵みによって何処に置かれているのかを私自身思い起こしたいと考えています。

霊が神の豊かな緑の牧場に憩わされていることを思うとき、胸がいっぱいになりますね。
そこには豊かな食物があり、私の魂は満ち足ります。敵の存在すら、その事を通して神は食事を備えてくださり、恵みと憐れみが日々追って来る喜びにただ涙するほかない者です。

この神のいのちは、「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。」

すべては神の導きの中に置かれており、いつのまにか、恵みの深み、沖へと導かれていることに気がつきます。その恵みはさらなる深みへ
神の豊かさ、御父と御子の一つさの中に引き寄せられている事を思います。

神の素晴らしさに圧倒され、全く私の肉はおろおろするばかりです。

あぁ、どうぞ、主よ、今日も
このおことばの内に
「それはキリストを、そして彼の甦りの力を知り、そして、彼の死と同じ形にされながら、彼の苦難に参与するすべを知るためである。こうして、何とかして死人たちの中から甦りに私は到達したいのである。」
その実際へと私たちを引き寄せ、導いてくださいますように

| candy | 2012/05/19 8:45 AM |

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