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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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あなたは私の受ける分です。ということの深さ

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。

主のあわれみは尽きないからだ。


それは朝ごとに新しい。

『あなたの真実は力強い。


主こそ、私の受ける分です。』と

私の魂は言う。

それゆえ、私は主を待ち望む。」

哀歌3:22〜24



  かつて罪のゆえに父ヤコブから呪いを受けた種族がいました。 

レビ族です。

レビはヤコブの三番目の子どもで 創世記34章のヤコブの娘ディナが汚された事件を通して、ディナの兄シメオンと共に卑劣なやり方で異邦人を殺害、略奪するという事件を起こしてしまいます。

その結果、父ヤコブの臨終のとき父から祝福の言葉ではなく、呪いの言葉を受けたのです。

「シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。

わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。彼らは怒りのままに人を殺し、思うがままに雄牛の足の筋を切った。

呪われよ、彼らの怒りは激しく、憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間に分け、イスラエルの間に散らす」

 創世記49:5〜


 最も祝福してほしい存在だった父から呪いの言葉を受けた事を思うとき、

 その罪が与える結果の大きさは計り知れない痛みが伴うことを思います。

  
 ところが、呪われた種族となったレビ族が、やがて、
 
 神の祭司と変えられる時がやってくるのです。

 それが出エジプト記32章の出来事です。

シナイ山でモーセが神からの律法を授かって山から降りて来た時、

「 モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、

アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」

 民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。

 彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。

 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。

 彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。」

(同32:1〜)

その光景を見たモーセは宿営の入口に立ち

「だれでも主につく者は私のところに。」と語りかけたその声に真っ先に応答し、

神に立ち返ったのが、レビ族だったのです。

なぜ、彼らは真っ先に立ち返ることが出来たのでしょうか。

父ヤコブから与えられた呪いの言葉が闇のように覆っていたに違いありません。その期間はどれほどであったでしょう。

呪いの最中に有る痛み、それは死の期間であったに違いありません。

長いスパンを経て

その痛みは、彼らの心を砕き、主へと向かせ、飢え渇きを起こさせ主を求める土壌を耕していったのではないでしょうか。

罪から来る痛みと苦味、悲しみ、呪いを経験的に知っていたレビ族

 罪のゆえに、呪われた部族が神の祝福を人々に分かつ部族に、

割り当てられた土地ではなく、

神ご自身を相続の地として分け与えられる民として変えられた事を思うとき、

神のいつくしみと憐れみの大きさに、涙するのです。



 罪を経験的に知ることは、痛みもあり、悲しみもあり、自分のような者は神から祝福を受けることすらも値しない者であることを 経験を通して知ることはとても辛いことです。

しかし、 それを知る、それは神の恵みです。

 神に立ち返ることによって与えられる神ご自身の憐れみの大きさと、恵みの深さがいかに大きく

いかに深いのかを・・・ 罪を知って身を持って知った痛みから、

この身をもって神の恵みを知る者へと変えられるのです。

なんという神の憐れみの深さ

恵みの奥深さでしょう!! あぁ、主よ!!

あなたは私の受ける分です、と、告白させてくださる恵みを知るにに至るまで

どれほど己の愚かさに涙することでしょう。

しかし、神は十字架を通し、死からいのちへと移してくださる

最も役立たずの呪われた罪人であった者が

あなたをゆずりの地として受け継ぐ

それは日々、あなたを受け継ぐのです。

死の痛みと悲しみという入口を通って、

あなたが来てくださる

あぁ、主よ・・・

受けるに値しない者に恵みを与えられる神

心から仰ぎ、礼拝いたします。 


「 罪の増し加わる所に恵みも満ち溢れました。」  

     ローマ5:20

 

 
 

 
 

| 御言葉の分かち合い | 06:51 | comments(1) | trackbacks(0) |
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コメント
罪の自覚とその苦しみが深ければ深いほど主の十字架の赦しがありがたいと思いました。ありがとうございました。
| 大竹信義 | 2012/04/27 7:29 AM |

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