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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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神の目的はその途中の中に
イエスについていった後、どうなる?


『それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸…に行かせ…。』マルコ6:45−52


 もしイエス・キリストが私たちに何かを強いてさせて、私たちがキリストに従うなら、すばらしい成功を収めるだろうと私たちは考える傾向があります。

私たちに対する神の目的は、私たちの夢の実現にあると考えてはいけません。神の目的は正反対であるかもしれません。

神が私たちをある目的に、私たちの望む目標に向かって導いておられるという考えを私たちは抱いています。しかし、そうではありません。

ある目的に至るかどうかという問題は単に付随的なことにすぎません。私たちが過程と呼んでいることを、神は目的と呼ばれます。
 

神の目的をどんなものだと思い描いているでしょうか。神の目的は私が今神とその力に信頼することです。

もし私が混乱のただ中で冷静に落ち着いていられるなら、それが神の最終目的です。

神は何かある具体的な結末へと導いておられるのではありません。神の目的は過程です。

つまり、主が波の上を歩いておられるのを私が見るということ、岸は見えず、成功も目標も見えず、ただ、主が海の上を歩いておられるのを見ているから、大丈夫なのだという絶対的確信を持つことが神の目的です。

神に栄光をお返しするものは結末ではなく過程なのです。

 神の訓練は将来のためにではなく、今なのです。

神の目的は将来の何かのためではなく、今この瞬間のためなのです。

神に従って行った後どうなるかは、私たちに関係のないことです。

将来どうなるかを考えると間違えてしまいます。

人々が訓練とか準備とか言っていることを、神は目的と呼んでいます。
 
神の目的とは、今この時、私の人生の混乱の上を主が歩かれるのを見させてくださるということです。

もし私たちがさらに遠い将来のことを見ようとしているなら、すぐ目の前にあることに十分注意を払わなくなります。

主について行くことが目的なのだということに気がつくなら、瞬間、瞬間が宝になってきます。


  オズワルド・チェンバース

                    


 ある目的に至るかどうかという問題は単に付随的なことに過ぎない。。

 全くもってアーメンです。

 息子が先日家の鍵が入ったポーチ後と落としてしまった記事を書いたが、
 
 ポーチが見つかった時は本当に嬉しかった。

 しかし、見つかるまでのその途中こそ、神が息子や私たちに見せたかったことだという事を深く知る。

 息子がポーチを落としたその日、実は、教会のある一人の姉妹が
昏睡状態で、まもなく天に召されようとしている最中の出来事だった。もう80歳を過ぎた姉妹は、若いときに病が癒されてから、ずっとイエス様と共に歩まれた姉妹だった。

その姉妹はいつも無くし物をするたびに、イエス様に祈っておられ、見つかるととても喜んで感謝を捧げられていたことなどが強く思い出された。その姉妹の信仰に促されるかのように、息子のポーチも見つかるようにと祈った。その晩に戻ってきた夢を見、その次の日には警察へ届けられている事を知ったのだ。 

今回の事を通して、息子の担任の先生の優しさにも触れることができた。

ポーチを落としたことで、担任の先生は、落としたポーチはもちろん、何よりも、息子が落ち込んでいないか??と深く心配してくださった。
その後、ポーチが見つかったという報告を、学校へ電話を入れた時、担任の先生は授業中だった。しばらくして放課になり折り返しお電話くださった。ここまでで普通用件は終りのはずだった。

ところがお昼頃、もう一度担任の先生から電話が入り、いったいなんだろう?と思っていると、息子に替わる、とおっしゃった。

何とこの担任の先生、母親である私から直接ポーチが見つかった事を聞かせてあげたいと、わざわざ電話くださったのだ!

私は電話の向こうの息子に

「大ちゃん?ポーチ見つかったよ。イエス様がお祈りを聞いてくれたよ、よかったねぇ~!一緒に取りに行こうね。」

と伝えた。

なんという担任の先生だろうと、深く驚いた。

夕方息子を学校まで迎えに行き、警察署に向かった。聞く所によると、落ちていた所からは、派出所は随分と離れていた。拾ってくださった方は、わざわざ届けてくださったのだ。
その方に何かお礼を、と警察の方にお聞きしたら、善意として届けてくださったので断られたそうです。

心から主とその方に感謝しました。


 その次の日、愛する姉妹は天に召されました。

いつもいつも、愛する方々のために祈りを通して愛し、支えてくださった姉妹でした。息子や娘が生まれるときも、我がことのように祈ってくださった。

入院中の私をいつも見舞い、励まし続けてくださった姉妹でした。

 その姉妹の前夜式で、姉妹の思い出の証がなされた。

 姉妹のお孫さんの自転車が無くなって、必死に祈って自転車が見つかったときにとても喜んでおられたこと
 
 どんなときにも、(買い物をするときも)主に頼って歩まれた姉妹の証が心に響いた。共に参列した息子や娘もじっと聞いていた。
 
ポーチを落としたことは息子にとって、忘れられない出来事となっただけではない。もはやポーチを落としたことは一つのきっかけに過ぎなくなった。

 その途中の一つ一つ出来事の中に確かに働かれる神ご自身を見る。(知る) 

 神を頼り、仰ぐ事を通して、神が本当にお見せしたかったことなのである。

 私にとっても、息子のポーチの事を通して、

上に転記した、チェンバースの言葉、

 
 「主が波の上を歩いておられるのを私が見るということ、岸は見えず、成功も目標も見えず、ただ、主が海の上を歩いておられるのを見ているから、大丈夫なのだという絶対的確信を持つことが神の目的です。」

 という言葉の意味を噛み締めていた。

 あらゆることが、この過程の中に神の目的がある。

 ハレルヤ!!

 なんという素晴らしい主!

 

 ポーチの件とは別に、ある問題を抱えて途方に暮れ、主を待ち望み、祈っているとき、このように御ことばが与えられた。

 「 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた」

 創世記1:2

 神の霊が水の上を動いている!!!

 ハレルヤ!

 足場もないような、地は形がなく、何もないように思えるとき、
 
 闇が、おおいなる水の上にあるとき、

 神がその上を動いておられる! 神がおられる!

 私は、深い平安に包まれた。

 主の御名はほむべきかな! そして確かに、主は

 本当に、その途中を、今までに見たことも思い描いたこともないような神の深い慈しみ、贖いの隠された恵みを、受けるに値しないような者に見せ続けてくださっている

 はじめのきっかけに勝る、神の真実を。

 栄光が主にありますように!

 






 
| | 15:30 | comments(2) | trackbacks(0) |
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コメント
御名を心からあがめます!

すべてはイエスさまを知るために備えられているのだと思います。イエスさまを経験することこそ素晴らしい事で、これ以上の事はありません。

イエスさまを知ることによって私たちは世に制限されることのない、祝福を受けることが出来るからです。

私も自分の弱さからすべてのことを祈ります。
以前息子が家族で帰郷してくるときに、全財産の入っているポーチをドライブインのトイレに忘れて来たことがありました。

息子達はすぐに引き返したのですが、1時間以上かかる距離にありました。もう何時間も経っていたのですが、私と主人は静かに祈ることが出来ました。

ポーチは何一つ失われずに、無事に保管されていました。
私たちが祈った時間よりもずっと前に保管されたのですが、祈りは時間に囚われないということをその時経験しました。

時間が遅れようと、人の出入りがどれほど激しい場所であろうと、祈りはそんなことによって制限されることはないのだと、心から主の御名を崇めました。

息子達に、イエスさまを経験させてあげられたことがとても嬉しかったのです。主の憐れみです。私たちの交わりを祝福してくださったのだと感謝しています。
| ムベ | 2012/02/28 6:13 PM |

ムベ姉妹へ

お証、分かち合ってくださってありがとうございます!

>イエスさまを知ることによって私たちは世に制限されることのない、祝福を受けることが出来るからです。

アーメン!イエスこそ世の制限を打ち破られた方!その究極の制限である「死」を打ち破られたのですから!ハレルヤ!

>時間が遅れようと、人の出入りがどれほど激しい場所であろうと、祈りはそんなことによって制限されることはないのだと、心から主の御名を崇めました。

ハレルヤ!すべてをご存知なお方!

イエスを知ることこそ、永遠のいのち!いのちを知ることに勝るものは他にはありませんね!
| candy | 2012/02/28 8:52 PM |

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