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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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罪からの解放の願い
「私は、私が行為していることが、わからない。なぜならば、私は自分が欲していることを為すことをせず、むしろ自分が憎んでいることを行なっているからである。

もしも私が自分の欲していないことを行なっているとするならば、〔その判断を私は律法に従ってしているのであるから、〕律法が良いものであると認めていることになる。450717しかし今や、もはや私がそれを行為しているのではなく、むしろ私のうちに住んでいる罪が〔それを行為しているのである〕。

実際、私のうちには ――ということは私の肉のうちにはということだが ――善

いものが住んでいないということを、私は知っている。なぜならば、良いものを欲するということは私のうちにもあるのだが、それを行為するということがないからである。

私は自分が欲する善いことは行なわず、むしろ自分が欲しない悪いことをこそ為している。

もしも私が、[この自分の]欲しないことを行なっているとするならば、もはやこの私がそれを行為しているのではなく、私のうちに住んでいる罪が〔それを行為しているのである〕。

それゆえに、良いことを行なうことを欲している自分に、〔まさに〕その自分に、悪しきことが存するという法則を私は見いだす。

つまり私は、内なる人に従えば、神の律法を〔心のうちで〕喜んでいるが、

しかし私は、自分の肢体のうちに他の法則を見る。〔それは〕私の理性の法則に敵

対して陣営をはり、自分の肢体のうちにある罪の法則の中に私を捕虜にしてしる〔法則である〕。

私はみじめな人間だ。誰がこの死のからだから、私を救ってくれるのだろうか。

しかし、私たちの主イエス・キリストをとおして、神に感謝あれ。かくして私自身は、理性においては神の律法に隷属しているのだが、しかし肉においては罪の法則に隷属しているのである。

それゆえに、キリスト・イエスのうちにある者たちにとっては、今や〔神による〕断罪はない。

なぜならば、キリスト・イエスにおける生命の霊の法則は、あなたを罪と死との法則から自由にしたからである。」

    ローマ7:15〜8:2



  
 主を信じた人は、直ちに罪から解放されることができます。しかしながら、この経験に、初信者のすべてがあずかるというわけではありません。多くの人々は主を信頼した後も、罪から解放されてはいません。

むしろ、彼らはしばしば罪を犯す自分を発見します。彼らが救われていることには、また、主に属し、永遠の生命を持っていることには疑問がありません。しかし、彼らはしばしば罪に悩まされているという大きな困難が残っています。
こうして彼らが願うようには主に仕えることができません。

 次々と罪によって悩まされるほど、救われた人にとっての大きな苦しみはありません。彼は光によって照らされているので、彼の良心は敏感です。彼のうちには、罪を定罪する生命があります。ですから彼には罪意識があります。彼は深く自分の腐敗を感じ、自分自身を嫌悪します。これこそ、極度の苦しい経験です。

 この経験から問題が生じます。多くの信者は、罪が何であるかを本当には知りません。ある信者は、罪はそれに抵抗することによって避けることができるものと考えています。こうして彼らは、罪への誘惑に抵抗するために全力を尽くします。ほかの人々は、罪は打ち負かす必要のあるものと言い張ります。それで彼らは、罪を打破しようと望みつつ、いつも罪と戦います。
また、他の人々は、罪は私たちを縛り、私たちの自由を奪い取っているのだから、私たちがもし本当に奮戦するならば、その誘いから解放されるだろうと主張します。それゆえに、彼らは最善を尽くして奮戦します。

しかし、これら3つの観念は、単なる人の思いです。
それらは、神のみ言葉でもなければ、神の教えでもありません。それらはどれ一つとして人々を勝利へと導く成功をもたらすものではありません。

このことを特に注目するよう、私はあなた方に望みます。私個人として、人々が信じるや否や、彼らには、解放の道が示されるべきであると信じています。
私は、解放される前に多くの曲がり角を経なければならないということには同意しません。キリスト者生活のはじめから、この自由の道を歩むべきです。

神の御言葉は、私たちが罪に打ち勝つべきであるとは告げていません。むしろ、私たちが罪から解放されねばならぬこと、罪から自由にならねばならぬことを告げています。これこそ聖書の言葉です。罪は人を捕らえている力です。私たちはその束縛から解放されるべきであるのであって、その力を破壊するのではありません。私たちはそれを殺すことはできませんが、主が私たちをそこから移してくださいました。



  

  キリスト者の基本的な認識と経験
         「私ではなくキリスト」より抜粋

| ウオッチマン・ニー | 23:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
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