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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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深いうめきと悲しみ 
( 追記、訂正あり)

心に深い悲しみと、うめきを内に感じる。

神の素晴らしさを思うこと、それに浸ることは甘い。
しかし、なぜだろうか。

今感じるハガイ書の言葉。

「この宮が廃墟となっているのに、あなた方だけが板張りの家に住むべきときであろうか

今、万軍の主はこう仰せられる。あなた方の現状をよく考えよ。」

という言葉だ。

私だけが神の素晴らしさ、甘さを感じていればそれでいい、それだけでいいとは思えないのである。

心の奥底にあった思いを閉じ込めておくことはできない。

東北を襲った大きな災害と、福島原発事故

三重、和歌山奈良の台風被害

それぞれの災害は決して無関係ではないことを思う。

災害に遭ったのは、東北や三重、和歌山 奈良の人々が、何か私たちよりも罪深かったからとかでは決してない。

少し前からずっと思い巡らしている旧約のウザの記事。

イスラエルの罪、ダビデの罪が、ウザ一人の上に現された神の義

重ね合わせるように思うことは、行き過ぎだろうか

東北の災害も三重和歌山奈良の災害も

支援とか、復興とかのために祈ることだけが御心とは思えない。

それは 神に背を向ける日本の罪を私自身の罪として神の前で悔い改め、神をあがめること、すなわち、神を神とすることに立ち返ることではないかと思うのである。

これらの災害を支配する権威を持つお方の前で、私のこととして心から御前に出ることである。


災害を通して、私たち人間の罪深さが明らかにされたのが、原発事故である。



イスラエルの罪とダビデの罪がウザの一人の上に神の義が現されたように、

日本の国民の罪、そして、私自身の罪の上に

今各地で起きている災害という形で起こることを許されたのではないかと、恐れを感じながら書いている。


同胞の罪、すなわち、私の罪である

黙示録の中に、「
これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった。」

神の御名に対して、汚しごとを言うとは、穢れた言葉を使うことだけに限られるわけじゃない。

神を神としない罪そのものではないか。

このような日本の罪、このような現状の中で、どうして私一人だけが神の甘さに浸っていることができよう。

パウロは言わなかったであろうか。

同胞のために自分がのろわれたものとなることさえも願ったことを。


「私はキリストにあって真理を語っている。聖霊において私の良心も私と共に証しをしているが、私は偽りは言わない。

すなわち、私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えることのない痛みがある。

なぜならば私は、私の兄弟たち、すなわち肉による私の同胞のために、私自身キリストから〔引き離されて〕呪いとなることを〔くり返し〕願った〔ほどだ〕からである。」
ローマ9:1〜


キリストはわたしたちの罪のために、のろわれたものとして十字架に掛かられた。

父なる神から一度も引き離されたことのないお方が、罪をその身に負って十字架にかかられたその瞬間、全くのろわれたものとして御父から引き離されたのである。

なぜか。

それが罪ある人間の真実だからだ。

十字架の上に表されたのは、愛だけではない。同時に神の義もそこに表されたのである。


この地上で生きていくとき、病気にもなる、苦しみにも遭う。死別することも避けることはできない。

正直、どうしてそういうことがあるのか、分からないことの方がずっと多い。

しかし、そのような試練を痛む心を持って許される神がおられる。





これから日本は放射能の汚染という、もはや人間の力では処理することのできないものによって影響を受け続け、多くの人のいのちがさらに失われていくだろう。

福島原発事故が示す、同じレベル7とされる1986年の発生のチェルノブイリ原発事故から、2004年までの放射線による死者の実際の数は推定96万5000人に上るという衝撃的な報告がなされている。(IAEAの報告は被害を最小限に見積もろうとし、事故直後の急性放射線障害の死者以外は長く認めようとせず、小児甲状腺がんの多発さえ、1994年まで認めようとはしなかった。)

チェルノブイリで起こったことが、どうして日本には起こらないと断言できよう。

日本は決して避けることができない放射能の影響の下に苦しまなければならない時代に入ってしまったのだ


どうして、・・・うめかずにおられよう・・・・。


それでもなお、残されている希望は、生ける神に心底から悔い改めて、神に立ち返ることであり、

神を神とすることである。

それはもはやノンクリスチャン、クリスチャンという線引きの話ではない。

主は「あなたは、わたしに従ってきなさい」、といわれる神


目を覚まし、一人一人が神の御心に真に応答し、神に立ち返ることである。


私たちの罪を自らのものとして負われた方の足跡に従って、

祭司として立つことである。


「これらの災害を支配する権威をもつ神」のみ前に一人一人が出、十字架の死を通してしっかりと立つことである。


| - | 06:25 | comments(2) | trackbacks(0) |
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| - | 06:25 | - | - |
コメント
「一日も早い復興を祈る」クリスチャンと日本人は大勢居る。それが純粋に心から出た気持ちであろうが、私はその気持ちの中に「見えてしまった悲惨な現状 自分に起こった大きすぎる苦難」 そこに在る自分の苦しさを和らげるための目的が その祈りの中の1パーセントなりを占めていると思う。それを良いか悪いかと言いたいのではない。それが罪ある人であるということだ。神は 私たちを喜ばせる目的で試練を与えるのではない。神ご自身の愛を完成させるためなのだ。
ウザ一人だけが死んだ。契約の箱を運んだ手順は、既にモーセの律法に忠実では無かった。その責任は ダビデだけにあるのかその時の祭司全員にあるのか それとも民すべてなのか ウザが死んだのは 只 代表として選ばれただけだと思う。大地震も原発事故も一目でその悲惨な状態が解る出来事だ。しかし、外国では なお内紛している国家もあれば、もう何日も食べ物を口にしてない子供もいる。日本国内でも 今 虐待されてる子 薬で自殺をしようとしてる子 人の罪は山積みに山積みを重ねてる。そういうことを見聞きして 何を祈るのか。この世での状態の改善だけを祈るのであれば それは愛ではない。上から目線の祈りは 神の御心にかなっていない。パウロのように「自分が呪いとなっても」という覚悟を決める つまり すべて神に捧げるという神への応答があるかどうか。実際には 人それぞれ置かれた立場 賜物 状況に即して 神に聴きつつ その時出来る最大限を 神の求めた最大限を実行すべきだ。ウザは旧約の人 私たちは新約によって 聖霊という直接に神と交わるものを得ているのだから。私は「清貧」という言葉が好きだ。例え金持ちでも 権力者でも この世の楽しみに溺れるのではなく その立ち位置での清貧があるはず。また小市民であっても抗議するべきチャンスは行動にし 我が家は今更節電するべきものなどない。勿論 CO2を減らすために・・というようなマスコミを通しての呼び掛けを一方的に信じてもいない。しかし それでも私は人 日々 立ち返らなければならないものである。立ち返らなくてよい人は 一人も居ない。
人の努力は限りがある。諦めないという言葉をよく聞くが、本当に人が欲しいものは「愛」ではないのか。愛は言動によって感じるもの、傷を覆ってくれる。神は愛である。キリストは教えではない。しかし例え今キリストを告白しなくても 立ち返える道を歩み始めた人が大勢いると思う。そしてなお罪を重ねてる人も多い。私やCANDYが板張りwの家から廃墟に移るのではない。家を保持しつつ お一人づつ迎えに行って招こうではないか。 
| イチゴ | 2011/09/12 11:51 PM |

主の御名があがめられますように

私たちの交わりの間におられるお方に誉めれあれ!

コメントを感謝いたします。

神が愛である。アーメン!


>この世での状態の改善だけを祈るのであれば、それは愛ではない。上から目線の祈りは 神の御心にかなっていない。パウロのように「自分が呪いとなっても」という覚悟


「パウロ自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となる事を願ったほど・・」
キリストの心が心となるのは、真にキリストにとどまっているからこそであり、全ては恵みによる
ご自分をむなしくされたキリストの謙遜をこのお方から直接学ぶことなしに、祈ることはできない。

>家を保持しつつ、お一人づつ迎えに行って招こうではないか。

アーメン!です。








| candy | 2011/09/15 6:52 PM |

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