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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
<< 炭酸水はいいよ〜d(ゝ∀・*) | main | ハレルヤ〜〜〜〜!!! >>
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いのちとなられるために
 御言葉を学び、それについての意味を学び、さらにその奥深くを知り喜ぶことは、とても甘いひと時です。

しかし、聖書の意味するところを正しく理解し、真理について学ぶことが、御言葉の本当の力を知ることとは決して同じではありません。

熱心に聖書について調べ、あるいは、解き明かされた御言葉の意味に触れるかもしれません。

確かに、それらは必要なことであるにはちがいありませんが、

しかし、いのちとしてそれを知ることとはまったく別です。

真理はあなた方を自由にします と御言葉にありますが、真理につ・い・て知ることは、とは書かれていません。

御言葉の知識を得ることは、喜びですが、いのちによってそれを知ることとは一つではありません。

でも、知識を得たことが、まるでいのちを得たかのように錯覚してしまっていることがなんと多いのでしょう。

聖書の御言葉を語っているけれども、あるいは、それについての解きあかしを語っているけれども
しかし、

いのちにはなんら流れてこないということがある 

聖書のみ言葉を、神の光と力によらず、人間の肉的な知識によって解釈し、それをどんなに説得力に満ちた言葉に変換したとしても、いのちをもたらすことは出来ない。

真の知識、もっと言うならいのちから出たことばだけが、いのちに触れることが出来るのです。



「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。 」

   ヨハネ5:39〜


「わたしがあなたがたに話した言葉は、霊であり、またいのちです」

  ヨハネ6:63
 

  御言葉は理解するためのものではなく、いのちの中心で受け入れるもの


 小さな子どもは、親が差し出した料理を、その具材がなんであり、栄養素が何であるかなど

少しも知ることはなくとも、それを食べ、すくすくと育って行きます。

おなかが空けばいのちを得るために親の元へと駆け寄り、差し出されることを待つのです。

 食べ物を食し、実際に口に運んで、それによって成長するいのちを、神はわたしたちの体にお与えになりました。

 それについての知識を知ることによって成長するいのちではないのです。知識を得ることは一つのこと。しかし、

 小さな子どもが、食べ物について何も知らなくても、それを口にし食べることによって成長するように

 いのちによって受け取ることがわたしたちをすくすくと成長させるのです。

 
 植物のいのちや動物のいのちを、この体のいのちによってのみ頂くこと

 いのちだけがいのちを養い育てるように、

 神のいのちのことばを いのちによって受け取る、すなわち、 霊によって受け取る、それは、信じることによってです。

 そして信仰とは、信じよう、信じようと努力することではありません。

 また、念じようとすることでもありません。

 信じるとは、あなた自身のすべてを

 「明け渡す」ことによってなのです。

 一切を自分の手から離し、ただ主だけを一心に見つめ、待ち望むことです。


「あなたの口を大きくあけよ、

わたしがそれを満たそう」

 神のいのちだけが、私の命を養い育ててくださることを

 大きく口を開け、待ち望む

  主はご自身を お与えくださり、神がともにおられる事の喜びで溢れさせてくださるでしょう。

  主はわたしたちのいのちとなられるために来てくださったのですから^^

 
  知識となられるためにではなく、いのちとなられるために・・・ハレルヤ!

神はあなたのいのちと成られることをどれほどに喜ばれることでしょう。

神を神としてあがめるというまことの礼拝がここに隠されています!

 まことの礼拝とは、神があなたのいのちとなられることを通して

 神の前に捧げられることです。
 
  主の祝福が豊かにありますように!

 





 

 

 

 

| - | 06:33 | comments(8) | trackbacks(0) |
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コメント
いのちをいただくから、「いただきます」と感謝を込めて、食するのですよね。改めて、いのちをいただくとはどういう事か、「信仰とは、明け渡すとは」どういう事かを考えさせられました。主とcandyサンにありがとうございます。
| エシュコル | 2011/08/05 8:44 AM |

エシュコルさん、こんにちわヾ(・∀・。)

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」コリント機。隠亜В隠

という御言葉を思い起こしますね^^
明け渡すことも、すべては恵みによってです^^
| candy | 2011/08/06 7:56 AM |

>明け渡す事も全ては恵みによって

アーメンです。なんと明け渡す事がこんなに難しい事なのか、本当に自分では出来ませんよね。ただただ、主に拠り頼むだけですね。そんな思いも与えて下さる神に感謝です。
| エシュコル | 2011/08/06 8:28 AM |

エシュコルさん(*´ω`)o

交わりを感謝いたします。

>なんと明け渡す事がこんなに難しい事なのか

神様は本当によくわたしたちの内側のことをご存知です。

神は一人一人を真実に導いてくださいます。
そして、この明け渡しの場所へと連れて行ってくださるのです。

いかに自分がすべてのことに対して無力であるかそのことを知らされることと、明け渡すことは繋がっています。
自分の何かに頼り、そこに立っている限り、明け渡すことはとても難しい。

ゆえに、立っていると思っている足場が揺るがされることは、恵みの時なのです。この恵みの時に

「わたしはあなたの名を呼んだ」

とおっしゃってくださる主に応答することが出来る人は幸いです。
| candy | 2011/08/06 8:59 AM |

「立っていると思っている足場が揺るがされることは、恵みの時」

アーメンです。
スズメやツバメなどは小さくて軽いので巣立ちはそれほどでもないようですが、ワシなどは練習も長いし、それでも怖がってかなかなかヒナも飛ぼうとしません。数日餌を与えない事で近くで見守りヒナを誘導します。そのおかげで体重も軽くなり飛びやすくなると言われています。
それでも親鳥は枝を揺すって広い空を自由に飛べるチャンスを作り出すと言われています。

年齢からすればすでに飛べるのに、いつまでもミルクを飲んでいるなら、この広い空を自分に与えられた翼で飛ぶ喜びは味わえないでしょうね。

主に呼ばれれば参ります。
参りましょう。
| ワッフル旦那 | 2011/08/08 6:48 PM |

数日間餌を与えないという事は、親も食べないという事なのだろうか。たぶんそうなのだろう。ここでも目には見えないが、主の促し、寄り添う事があるのかもしれない。
一緒に「飛びます、翔びます」ですね。
| エシュコル | 2011/08/09 7:40 AM |

ワッフル姉妹の旦那様

 枝をゆすって、羽ばたいて上るのを待つ
その本能を鷲に与えた主を褒め称えます。

誰もが巣立ちのときを通り、大空を舞いかける
そしてやがて、その鷲も親鳥となる

大空を舞いかけるだけで、終りではない。
やがて親鳥になることが必要なように

神の子、成長したSon として 恵みによりパウロのように

「今私はあなたがたのための苦難にあって〔それを〕喜びとし、キリストの〔受けた〕抑圧の欠如分をわが肉〔体〕をもつて、キリストの体、すなわち教会のために、〔彼に〕代わって満たしている」
コロサイ1:24 岩波訳

、お言葉に倣う者となることができますように・・。

 
 自然のいのちの営みの中には、実に多くの神の御心が書き込まれていますね。

>主に呼ばれれば参ります。
参りましょう

アーメンです。

| candy | 2011/08/10 8:06 AM |

エシュコルさんへ

飛ぶ練習をしている雛に 

餌を見せるだけ見せて、

「ここまで飛んどいで〜」と、

離れた枝で、待つそうです。

そして、その距離を徐々に延ばしていき、

やがて、雛は自立していくそうです

飢え渇きや行き詰まりは、それを通して求める思いが起こされる、新しい歩みへの踏み台のようですね。

あらゆることを通して、踏み出すことを促してくださる主を褒め称えます。


| candy | 2011/08/10 8:20 AM |

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