SELECTED ENTRIES
RECENT COMMENTS
RECENT TRACKBACK
CATEGORIES
ARCHIVES
LINKS
PROFILE
MOBILE
qrcode
フラワー

動物をクリックしてみてね^^
SPONSORED LINKS

11
--
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
--
>>
<<
--

十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
<< 拡散希望  放射能の大切なお話 | main | キリストの愛が、しっかりと捕らえているのは、 >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - |
私が弱いときにこそ ?
 「私の恵みはあなたにとって十分である。なぜならば、力は弱さにおいて完全になるのだからである。

そこで私は、むしろ大いに喜んで自分のもろもろの弱さを誇ることにしよう。

それはキリストの力が私の上に宿るためである。

それだから私は、もろもろの弱さと、侮辱と

危機と、迫害と、そして、行き詰まりとを、キリストのために喜ぶ。

なぜなら、私が弱い時、その時にこそ私はちからある者なのだからである。」

 コリント第二 12:9〜


  
 ・・・・もろもろの弱さと、、侮辱と、危機と、迫害と、そして、行き詰まりとを

 キリストのために喜ぶ。


  少し前のこと、随分と侮辱にも近い言葉を言われたことがあった。

 もちろん、ひどいことを言われて、平気でいられるはずもなかった。

 心はざわつき、深い傷を負ったような痛みを感じた。

 「どのように受け取ればいいのでしょうか・・・ もしそのようなことが私のうちにあるとしたなら、

どうぞお示しください。」

・・・と主の前に祈り、心の耳を主に向けつつ、

 主を待ち望んだ。

  そうこうしていると、ひとつの御言葉が心の中に思い起こされた。

「ありもしないことで、悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです

 喜びなさい。喜び踊りなさい。」  マタイ5:11〜

 
 主の語られるお言葉は、本当に不思議だ。


 まるで心に光が灯されたかのように、パ〜っと明るくなることを感じた。

なんだか嬉しくなってきて、心が軽やかになることを感じたのである。


 普通は、この御言葉だけを読むとき、

 それを自らの力でしなければならないように錯覚してしまう。

 誰がそんなこと出来よう。

暗闇に座っているような心の状態で、そんなことが自分でできるぐらいなら、初めから落ち込んだりはしない


主は、「わたしは世の光です」と言われた。そして、さらに御言葉では、

「その光は、闇の中にあって輝」く光であり、「闇はこの光を阻止できな」いのである。

そして、この光は、私にとっての光、あなたにとっての光であり、

 暗闇の中に座っている者の心の中に、入ってこられる光である。


 光が入れば、闇は自然と消える。

 主がお言葉を語られる、それは、光としての力が、

 私やあなたの心のうちに現されるということなのだ。

 例えれば、空の湯のみの中に、急須の口からお茶が注がれ、お茶が湯呑の中に入ってしまった

みたいな感じだ。湯呑はただの湯呑なのだから、自分からお茶を湧き出させることなどありえない。

でもひとたび急須からお茶が注がれたら、湯呑の中はお茶で溢れるのである。


主が私の中に、お茶、いえ、喜びでいっぱいにしてくださったのである。

誰も注がれたお茶をみて、湯のみが頑張ったからとか、素晴らしい立派な湯のみだったから、お茶が自然と溢れてきたなんてことはだれも思うことはない。

ところが人はそう感じて人を見てしまう弱さを持っている。

あの人は何か、素晴らしい信仰を持っているからだとか・・・。

あの人のようになりたいだとか・・・

器はただの器にすぎない。器自身からは、お茶は湧いて出ないのだ。




私の中には困難なときに、また、人から侮辱されて、喜ぶ力など全くない 


主がご自身の無尽蔵のいのちの深みから、喜びを注ぎ出してくださり、私の中にお言葉が語られ(注がれる)ことによって

私は一杯になっただけである。注がれた命によって、私は大いに喜びに満たされたのだ!



なので、 自らが何か頑張って、喜ばなきゃいけないということは、ありえないのだ。


 私やあなたに必要なのは、空の器でいることだけである。

 

 さらに主は、侮辱のことばかりではなく、行き詰まりに対しても同じように、喜ぶことを御言葉を通して、

示してくださった。 実は、大いに行き詰まりを感じていたのだ。


 行き詰まりそのものを、誰が喜ぶことができるだろう。

 
 しかし、主が私の喜びとなられるのである。

 そうなると、もはや私にとって行き詰まりは、私を空の器へと誘う役割へと変わっていることを知る。

 行き詰まることがなければ、空になって(全くの無力さの中に)主を待ち望むことはなかったのかもしれない自分をいつでも発見する。

 
  行き詰まりという弱さのゆえに、主は私のうちで喜びとなってその裾を広げられる。

 
 なぜだかわからないが、沸ふつと喜びが感じられるよ、

 
   「私が弱いときにこそ私は力ある者なのだからである。」

      
  主の口から語られる御言葉は、本当に素晴らしい。 

 主は我が喜びである!!ハレルヤ!!

 



   

 

 
  
| - | 22:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
スポンサーサイト
| - | 22:52 | - | - |
コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://toku-sati.jugem.jp/trackback/592
トラックバック