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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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素晴らしいメッセージによって生きる?
 いのちについてのメッセージを、

教会で、またネットを通して、また本などを通して、幾度、素晴らしいと思えるメッセージに触れてきたことでしょう。


どの教会よりも、自分が通っている教会のメッセージが一番素晴らしい、聖書が言おうとしていることについて、はっきりと語っていると、

感動すらして帰るかも知れません。また逆に、教会に通っていない人たちが

ネットのメッセージを聞いて(あるいは、読んで)、どんな教会が語っているよりも真理に近いと、喜んで聞いているのかもしれません。

あるいは、ブログなどを通して、この人の言っている事は的を得ていると思い必死に読むかもしれません。


しかし、それらのすべては影に過ぎず、本体ではありません。

素晴らしいキリストにつ・い・て・のメッセージは、道を指し示すだけのものであって、

それら自体は真理そのものではありません。

しかし、多くの人はそれらの影だけ、道しるべだけを見、満足してしまっているのです。

 
 旅の途中、道の途中で立っている道しるべはありがたいものです。

しかし、道しるべそのものに満足し、そこにとどまっているとしたら、なんと滑稽な話でしょうか。

ところが、ほとんどの人は、この道しるべだけに満足し、そこにとどまっているのです。

「いやぁ〜、この道しるべはすばらしいじゃないか。もっとこの道しるべを見て(聞いて)いようじゃないか。」

 と言っているとしたら、なんとむなしいことでしょう。

 
真理につ・い・ての言葉が、あなた方を自由にすると聖書には書いていません。

 真理は、あなたがたを自由にすると

書いてあるのです。

 影は道しるべにはなっても、それ以上ではありません。人を真に解放するものは

キリストについてのメッセージではなく、キリストご自身なのです。


   「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」

と語られたイエスご自身(御言葉)に自ら応答し、あなたに語られるいのちのことば従って行くことが、

 真にあなたを自由にし、主のいのちによって生きる鍵です。

 
  このお方以外の一切は、影であり、過ぎ行くもの



 それを忘れるとき、人間的な必要に忙殺され、焼かれてなくなるものに希望を置いてしまうのです。

 さもそれがないと困るかのように・・・。
 
 神をあがめるいのちの道は、イエスご自身そのもの


  あなたは、影のために走り回っていませんか?
 
 焼かれてなくなるものに、希望を置いていませんか?

 

 
 


 








| - | 06:59 | comments(4) | trackbacks(0) |
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コメント

おっしゃることが分かるように思います。
私は信仰に入って間もなく、みことばを沢山知っておられる方にお出会いしました。

尊敬していたのですが・・
でも彼女の考え方とみことばとに乖離があり、
彼女を知るにつけ、みことばを覚えることの意味を考えるようになりました。

みことばがアクセサリーみたいでした。
彼女は、イエスさまを経験したことがないだろうと思えて、とても残念でした。
読んでいてそんなことを思い出しました。

みことばもイエスさまも、ひとりで経験すること。
飢えて渇いて、食べてみないと甘いか、苦いかわからないだろうと思います。

そんなことなら、まだ知らない方が望みがあるでしょうと・・そんなことを思いました。

| ムベ | 2011/06/13 11:37 PM |

私たちの救い主はあまりに素晴らしいので、その影だけでも十分、ときめけ、神々しくも感じてしまいがちです。
手紙を書いたり読んだり、写真を見たり、過去や未来を想像したりする、その人の逸話を聞く事も楽しいもの。

しかし、実際に、その方にお会いして声を聞き、語りかけたり、手を繋いだり、一つ屋根の下に共に暮らし始めるなら、交換日記や文通は、多分必要がありません。
素晴らしきは主の啓示だと感じています。
婚約時期の今も素晴らしいのですが、聖書が必要なくなる天での結婚生活というその方との永遠が何よりの楽しみです。
(自分の花嫁修業が意外と進んでいないのですが、、、汗)
| ワッフル旦那 | 2011/06/14 7:00 AM |

ムベ姉妹へ

>御言葉もイエス様も一人で経験すること

全くもってアーメンです。

「力を捨てて、私こそ神であることを知れ」というお言葉を思い起こしております。

力を捨てることと、神を知ること
は一つなのだと。

御言葉の真の力を自分のものをして知る(見る、経験する)のは、この力を捨てることにありますね



| candy | 2011/06/14 9:34 AM |

ワッフル姉妹の旦那様へ

聖書が必要なくなる、本当にそうですね^^

直接、顔と顔をあわせてお会いしたら、手紙も必要ではなくなりますね!

しかし、この地上で生きている間に

パウロは「自分の信じている人を知っている」といいました。
なんという言葉だろうかと思わされるのです。

キリストにつ・い・て知っていたときのパウロは、信者を追い回すような迫害者でした。でもキリスト・を・知ってからは迫害される側になった。この差はなんと大きいのでしょう。
 キリストがどのようなお方であるのか、自分の目で見、体験する、
「私は自分の信じている方を知っている」と
喜びに溢れて告白させてくださるのも、ただ主の一方的な、身に余る恵みなのだと思わされます。



| candy | 2011/06/14 10:09 AM |

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