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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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山に登り、木を運んできて
 「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべきときであろうか。

今、万軍の主はこう仰せられる。

あなた方の現状をよく考えよ。

あなたがたは多くを期待したが、少ししか刈り入れず、食べたが飽き足らず、

飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴の空いた袋に入れるだけだ。

 万軍の主はこう仰せられる。

あなた方の現状をよく考えよ。

 山に登り、木を運んできて、宮を建てよ。そうすればわたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう。

 主は仰せられる。

 あなたがたは多くを期待したが、見よ。わずかであった。

あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。

 それはなぜか。〜万軍の主の御告げ。〜

 それは廃墟となったわたしの宮のためだ。

あなたがたはみな、自分の家のために走り回っていたからだ。

それゆえ、天はあなたがたのために露を降らすことをやめ、地は産物を差し止めた。

 わたしはまた、地にも、山々にも、穀物にも、新しいぶどう酒にも、油にも、地が生やす物にも

人にも、家畜にも、手によるすべての勤労の実にも

日照りを呼び寄せた。」

   ハガイ書1:3〜


 

  
 山に登り、木を運んできて・・

わたしは長年の間、この御言葉が意味すること、いったいこれはどういう意味なのだろうかと

思い巡らしてきた。

随分と昔、このハガイ書のお言葉を主がお与えくださった。

もう20年以上も前のことである。

そのときのことは決して忘れもしない。

与えられたお言葉が、どういうことでしょうかと幾日も祈り求めた。

主はその中である光景を思い起こさせてくださった。

「ある人が砂漠を旅をしていた。しかし、飲み水がなく、その人は

水を求めてさ迷い歩いていた。

ようやく井戸を見つけて走り寄るが、その井戸は枯れた井戸だった。

主は、わたしにこうおっしゃった。

「この人は、再びこの井戸に来るだろうか」

「いいえ、来ません。」

その時初めて、穴の空いた袋が水のない井戸そのものであり、

いのちの水を求めてくる人々は、もう二度と枯れた井戸に戻ってこようとは思わないことを知った

それはなぜか。


 「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべきときであろうか。

あなた方の現状をよく考えよ。。

 ・・・あなたがたはみな、自分の家のために走り回っていたからだ。」


 
 「山に登り、木を運んできて、宮を建てよ。

そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう。」

 
  

  今日、透析の最中、このハガイ書の御言葉が再び内側に臨んできた。

 わたしは家に帰り、急いでハガイ書を開いた。

 山に登り、木を運んできて、という箇所を目にしたとき、即座に主は

 アブラハムの礼拝を主は思い起こさせてくださった。

 主はアブラハムにひとつの山をお示しになり、その上で、イサクを全焼のいけにえとして捧げるようにと告げられた。

 全焼のいけにえのために焚き木をイサクに背負わせ、主が示された山に登ったのである。

 山に登り、木を運んできて、アブラハムは、もっとも大切なひとり子なるイサクを犠牲として捧げ

 主を礼拝するために、神に従ったのである。


  主の宮を建てるとは、決して、教会の建物を建てると言う意味ではない。

 豪勢な建物や、教会らしい雰囲気、また立派な礼拝堂の中で礼拝を捧げることではない。

所有物が多ければ、かえって失うものがあることを知らなければならない

 「聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は持っていると思っているものまでも取り上げられるからです」ルカ8:18

 所有物が豊かであることは、いのちが豊かであることとは何も関係がないのである。

 「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」ルカ12:15

主が示された 手放すべきもののすべて、もっとも大切なものをささげるために、すべてをもって主を礼拝することである。

  アブラハムは伴ってきた若い者を途中、ロバと一緒にとどまっているように言った。

 一緒に仲良く行きましょうとは、言わなかったのである。

 わたしたち日本人は群れていることで安心し、錯覚してしまう。。

 自分は、神に喜ばれる礼拝を捧げている、と。

 果たしてそうであろうか。

神があなたに示される礼拝は、

 ただ一人、アブラハムのように神に示され、一切を捧げるために山に登るものであり、大勢といっしょではない。

 ロバを連れて登れば、楽だったに違いない。

しかし、ロバさえも置いていったのである。

 自分の足でその一歩を踏み出すことを主は望んでおられる。


 
  
  主の宮が廃墟であるなら


 そのことを避けて、いったい何を捧げ、建てようと言うのか。


 
 震災を通して、すべてを失うことの痛みの大きさを見る。

 ただ復興を願うことだけが、御心であろうか。

 暗闇の中で輝く光なる方は、言葉を持って語られる神である。
 
 暗闇の中でしか聞くことができない言葉があり、

 そのお言葉を聞かなければならない。

 それは、一人神の前に出、直接聞こうと御前にでることであり、

誰かのメッセージを聞きに行くことではない。

 聞く耳ある人は聞きなさいと主は語られる。
 


 「この宮が廃墟となっているのに、

あなたがただけが板張りの家に住むべきときであろうか。。」


 

 
  

| 御言葉の分かち合い | 14:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
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