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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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「証することと」 と 「自分を表すこと」
 
クマ郎さんのブログより



 「証しすること」と「自分を表すこと」
先日、集会でウォッチマン・ニーの「淵が淵を呼び起こす」というメッセージを交わったのですが、以下はそのポイントをまとめたものです。おもに「証しすること」と「自分を表すこと」の違いを扱っています。天国に行って帰って来た体験が書かれた“証し本”が出版されるこの時代、耳を傾けるべきメッセージなのではないでしょうか。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。(マルコ4:5〜6)

<実を結ぶことのできない理由>

・岩地の特徴 ⇒ 根がないために枯れてしまう

・根とは「人の目に触れない命の部分」

・根がない生活とは浅薄な生活

・浅薄な生活を送るならば、他の人の深みに触れることはできない

<浅薄な生活とは>

/佑量椶某┐譴詆分が多くの割合を占める信仰生活 
⊃佑量椶鳳されている部分がないor少ない信仰生活


<クリスチャン生活の二面性>

/佑量椶ら隠された生活の面(根)→ 下に向って成長(死)
⊃佑料阿暴个鴇擇靴鬚垢襦語る面(葉)→ 上に向かって成長(復活)

                ↓
,良分(根)によって△亮造決まる(浅薄な根⇒浅薄な実 深い根⇒深みのある実)

<根をなくす原因>

・根をなくす大きな原因は、根の部分をあらわにしてしまうこと=自分の霊的経験を話したい欲求に打ち勝つことができないこと(今日のクリスチャンの問題)
           ↓
私たちは証しを用いてでも、自己を表わしたい生き物である
           ↓           
私たちには自分の動機はわからない(汽灰螢鵐硲押В隠院法8羝斥佞侶によって、無意識の領域に潜んでいる動機が明らかにされなければならない(ヘブル4:12)。

・「証しすること」と「自分を表すこと」は異なる

・十字架の死を通過することだけが、「自分を表すこと」から私たちを守る

<パウロとヒゼキヤ>

・クリスチャンとしての外面的な力=内側に秘蔵されている経験がどれだけあるか

良い例:パウロ(競灰螢鵐硲隠押В院腺粥
悪い例:ヒゼキヤ(イザヤ39:1〜6)


・ヒゼキヤは自分の経験をあらわにしてしまったことによって大きな損失を被った
          ↓
ヒゼキヤが見せてしまった分=ヒゼキヤが失った分
          ↓
クリスチャンが「根をあらわにする時」、敵の攻撃にさらされることになる
            例:植物の根っこの部分をあらわにするなら、植物は枯れる

<注意点>

・証しをするためは、「話さないこと」を学ぶ必要がある(逆説的な真理)

・クリスチャンは「根を覆うこと」を学んで行くべきである

・自分の内側にある話したい肉の欲求に気づくこと

・集会や交わりにおける「証し」が「根の見せ合い」になっていないか注意すること



  

             


私自身、 どーよ!見たいな思いで証していた過去があったなぁ〜汗

肉丸出しの熱心党員のかつての自分があったことがあります。

でも、そんな汚れた動機すら、自分で全然気づいてないんですよね。

主が「彼らをお許しください。彼らは自分で何をしているのかわからないからです」

 と祈られた、その祈りは私のための祈りでした。

主のために用いられたいという願いすら、十字架という死を通されること

それが人にとってすべてです

むしろ、用いられるということは、

主の苦しみを負うことを通してであり、

できることなら、この苦しみを私から遠ざけてください、去らせて下さい

という悲しみを避けることができません。

それが、根の部分でもあるように思います。

根は闇に埋もれた部分であり、暗闇の中ではぐぐまれるいのちの部分

闇=死の象徴です。


人は美しく咲く花の栄光を見て、そうなりたいと願います。

しかし、美しい花のいのちを支えているのは、闇に閉ざされた根にあるのです

そのどちらも切り離せず、その両方はひとつなのです


パウロはその根の部分において、、キリストと苦難を共にしました。

「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。 」

第二 コリント 11:23〜



しかし、パウロは、

「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。 」
といえるほど、満ち足りていたのです。



美しい球根の花は、とても厳しい冬の寒さがなければ、

春に美しい花を咲かせることはできません。

自然の中には隠れた主の御言葉があふれています


十字架はすべてのことの鍵です

この鍵を通してのみ

私たちはキリストのいのちの祝福の深みに漕ぎ出す(主の栄光に与る)ことの中へと実際に入ってゆくのです












 
| 兄弟姉妹のブログより | 23:06 | comments(2) | trackbacks(0) |
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コメント
トラックバックが何故か出来ないので、コメントしておきます。
| エシュコル | 2011/04/13 12:17 PM |

エシュコルさんへ

はぁ〜い!!(o^∇^o)
| candy | 2011/04/14 12:50 PM |

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