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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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十字架を負うということ
「 キリストの十字架 」 A・マーレー   オリーブ園より


死から出た命

最初、キリストと共に十字架につけられて彼の死を身に負うという真理の中に魂が入る時、魂はその主な目的は個人的な聖別であると思います。

罪に対する死、この世に対する死、自己に対する死を、命の道、魂に対する祝福と見なします。しかし、こうした願いは魂をキリストに信頼するよう真に導くことはできません


キリストにおいてのみ、死と死から出た命とを知ることができ、見いだすことができます。彼と接触することなしに、彼の御父に対する従順と罪に対する勝利はすべて、個人的な栄光のためではなく彼の周りにいる人々の救いのためであった、という秘訣は開かれることはありません

他の人々のために喜んで働き、自分の命を与えようとする人でなければ、十字架の道を歩むことはできないことを信者は学びます。他方、他の人々を祝福する唯一の真の力は、この世と自己に対する死である十字架が私たちの日々の生活の法則となる時、与えられます。


  


              

          
   十字架を負って歩むことが、罪に対する死、この世に対する死、自己に対する死、自己を否み、・・・それだけを問い続けることは、

 実は、とても巧妙に自己を追求することではないだろうか

 こうした願いをマーレーは、魂を真にキリストへと導くことはできないとはっきり書いている。

 自己に対する死、自己を否むことの深い動機は、自らのためではなく、愛するゆえに自己をおろすことであり、愛するゆえに自己を否むことだからである。

 自分自身がいのちの道を歩むために自己を降ろし、自己を否んでも何の意味があろう。

 究極的な自己追求ではないだろうか

そこから生まれるものは、己を義とし、他者への激しいほどの裁きと切り捨てでしかない。


 十字架の本質は 「愛」 そのもの 

  イエス様が十字架を負ってくださったのも、十字架上でそのいのちをささげられたのも

  父なる神への深い愛と、この世の人々への一方的な深い愛ゆえであられた

 御父の愛を受け、その愛によって応答し、

 十字架を負う  

 他の人々のために喜んで働き、他の人々のために自らのいのちを与えることによって十字架を負うことを、主から直接学んだ人は幸いです。
 
 十字架に隠された甘さは、愛です。

 その甘さは本当にスィートです


 「もしも私が、人間の、そして御使いたちの言葉によって語りはしても、しかし愛をもってはいないなら、私は鳴り響く銅鑼(どら)か、あるいは甲高く鳴るシンバルと化してしまっている。

またもしも私が預言をなし、さらにすべての奥義とあらゆる知識とをもってはいても、またもしも私が山々を移すほどのあらゆる信仰をもってはいても、しかし私が愛をもってはいないなら、私は無である。」

  コリント第一13:1〜




 

    以下は、キリストの十字架」 より抜粋
 

           十字架

主よ!私は日々、あなたの素晴らしい十字架、
カルバリの十字架を見つめます。
日々、私はその上に両手を伸ばし、
あなたと共に死にます。(2コリント4:10, 11)
最愛の主よ、私は「十字架を誇ります」。(ガラテヤ4:14)
なぜなら、私は知っているからです、
私がどこへ行こうとも、
十字架こそ救いの力、満足であることを。
日々の十字架は深遠な喜びとなります。
なぜなら、十字架のすぐ向こう側で、
十字架と冠は呼応するのを見るからです。(ヘブル12:2)
ああ!恵み深い主よ、あなたから日々十字架を受け取ることは、
何と甘いことか!
十字架の益と損失は決して分け得ないことを
私は知っています。
日々の十字架は、
私をあなたから遠ざけるすべてのものを日々失うことです。
日々の十字架は、日々すべてを得ることです。(ピリピ3:7, 8)
あなたこそ私の分です。―― B. P. H.

| 恵み | 22:54 | comments(2) | trackbacks(0) |
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コメント
>自分自身がいのちの道を歩むために自己を降ろし、自己を否んでも何の意味があろう。
>究極的な自己追求ではないだろうか

↑よくわかります。自己を否む実行をしているうちに、どんどん独りよがりになっていくというか・・・。

>そこから生まれるものは、己を義とし、他者への激しいほどの裁きと切り捨てでしかない。

その結果、自己を否んでいるつもりになっている自分自身に酔ってしまい、↑この“切り捨て御免”状態に行き着くのです・・・「自己を否むこと」さえ用いて、自己を高く上げようとする「自己」!・・・恐るべし)))))))(゚o゚;)/

| クマ郎 | 2010/12/01 10:27 PM |

クマ郎さんへ

こんにちわ^^

自己というのは本当にどこまでも恐ろしいですね

そして、だんだん巧妙化しているように思います
とりこになるものはとりこにされていく・・ということを感じます。

見えない者はより見えなくさせられてゆくのでしょうか。

膨らんだ知識によって、自己を膨らませる結果に繋がります

主のへりくだりと柔和さを主から学ぶことなしに、人の高慢さは真に癒されないのかも知れませんね。
| candy | 2010/12/02 12:15 AM |

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