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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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ありのままに
      

イエスの愛 それだけが

私を変えた 唯一の愛

まよい子の 私をも

尊く思ってくれた


イエスの愛 それだけが

私を変えた 唯一の愛

まよい子の 私をも

尊く思ってくれた


  偽りの世の中で

  ごまかして 生きる私に

  あなたは手を差し伸べて

  真実の道 教えてくれた


  変えられた 変えられた

  あなたの愛を両手に受けて

  ありのままに 生きてゆく

     
   こんな自分を愛することを
   
   気づかせてくれた


 
             



   ありのままで生きてゆく  

  以前、何かこの言葉に対する拒絶反応のようなものがあった

 ありのままでいけないから十字架が必要だったのに、

 ありのままで愛されているという言葉だけが一人歩きをしている
 
 そんな印象があったからだ。

 
  でも、最近、このありのままという言葉が、まったく違う意味をもって感じるようになった

 放蕩息子のことをよく思う。

 彼が、父の財産を持って家をでていったときでさえ、息子が全財産を使い果たしてしまうだろうことも、父はわかっていたに違いない。

 それでも、あえて手放し、無力さの中で信じてひたすら息子の帰りを待ち望むことの中に留まられた

 なぜか

 真に息子を得るためであるからだ。

 息子自身が、自らの真の姿に気づき、罪を知ること
そして父の下にただ、立ち返ることを通して

一方的な愛と慈しみの中で、思いを超えるほどの大きな罪の赦しが備えられていることを、息子自身が知るために・・・

そして何より、父の息子として、死んでいたのに生き返る
そのことのために。


 その時初めて、ありのままで受け入れられることの尊さを知る

 父に立ち返る、その真実な意味で、ありのまま受け入れられているという意味が、真の喜びを持って 迫ってくるのである。

 何でもかんでもありのままで愛されているということの意味を履き違える時、何でもかんでも受け入れるという勘違いや、

またその逆,

そのままのあなたで・・ありのままのあなたで・・という言葉そのものの全てを否定してしまうという2つの勘違いに及ぶということを気づかなければならない。

 
 
 
    

| 賛美 | 07:55 | comments(2) | trackbacks(0) |
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コメント
candyさん、
まさにそういうことですね。

勘違いだらけ、
でも、
自信たっぷり?

なぜ?


イェスキリストの名を信じてるから。

都合よく勘違してますでしょう。。

でも、大丈夫。
主が共にいますから、

罪をおかしても私は罪人、

犯さなくでも私は罪人です。

たから、今日も、
イェスの御名を呼んで救いを得ます。

勘違いしても、
勘違い、

しなくでも勘違いだらけ。

なすべき一番のは?たったひとりの主、イェス御名を呼び続ける事。

感謝、感謝、感謝。



| かわい。 | 2010/11/29 9:05 PM |

お久しぶりです、かわいさん。お元気ですか?

もちろん聖書の中には、ありのままのあなたでとか、そのままで・・なんていう言葉は出てきませんが、
主の御前に自らの姿が照らし出され、そのどうしようもない、救いようのないような罪深さに気づく時、胸を打ち叩いて罪人の私を憐れんでください・・としか祈れない者である事をいやというほど知らされます

放蕩息子がすべてを失って、息子と呼ばれる資格すらないと気がついた時、父を思い出し帰郷しました。すべて失いぼろをまとっているような息子に対して、ありったけの憐れみを注いだのは父。駆け寄ってかき抱き、死んでいたのが生き返ったと喜んでくださいました。

私たちはクリスチャンであっても、父との関係が本当の意味で回復されていなければ、たとえ、家にいても兄息子のように、父の心も知らず、父の愛も知らないということがありうるわけです。
兄息子も弟息子も、息子であるにもかかわらず、父との関係において死んでいるも同然ですね。

自分自身が、いかに父から離れているのか、どのような者なのかを真に知り、父との関係の中に真に生きることなくして、死んでいるも同然であることに気づかされるとき、はじめてありのままで、そのままで父の懐に帰ってゆくことによって義とされる恵みの深さを知るのですね。

クリスチャンであっても、そうです、父の家にいながら、随分と父の思いから離れ、自らの義によって父に詰め寄る兄もいます。

その両方を兼ね備えた愚かさが私の中にあります。

それに気づかされること、それは主の一方的な恵みです。

こんな私をも捨てずに御腕の中に引き寄せてくださる、その愛をただ感謝するほかありません。ハレルヤです!


| candy | 2010/11/30 1:37 PM |

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