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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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放蕩息子の奥義 その一
 イエスご自身が私たちのために放蕩息子になられたという奥義に触れた。

イエスは天の父の家を去り、外国に行き、持っていた全てを与えつくし、十字架につけられて御父のいる家に帰られた。

この全てを反抗的な息子としてではなく、従順な息子として行われた。神の失われた子供たちの全てを家に連れ戻すために遣わされた。

罪人たちとの交際を批判する人々に放蕩息子の話をされたのは、イエスであった。

そして、自分の描いた、長く、辛い帰郷の旅路をご自分で生きられた。

 父の前で跪く、心砕かれた若者は、「夜の罪を取り除く神の子羊」ヨハネ1:29
 ではないだろうか?

 罪は犯されなかったのに、私たちのために罪を負わされた純真無垢な方ではないだろうか?

 「神と等しい者であることに固執しよう」とせず、「人間と同じようになられた」方ではないだろうか?

 十字架の上で、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか?」と叫ばれた、罪なき神の息子ではないだろうか?

 イエスは、御父から託されたすべてを手放した息子、つまり、惜しみなく与える御父(prodigal Father)の、惜しみなく与える息子(Prodigal son)であり、そのおかげで、私はイエスに似た者となって、イエスと共に御父の家に帰ることができるのだ。
  (注:prodigalには、「浪費」、「放蕩」、「惜しみなく与える」などの意味がある)

 イエスご自身を放蕩息子とみなすことは、このたとえ話の伝統的な解釈からかけ離れている。

にもかかわらず、この洞察には偉大な奥義が秘められている。

 私が神の息子であることとイエスが神の息子であること、私が家に帰ることとイエスが家に帰ること、私の帰るべき家とイエスの帰るべき家は、そのどれもが同じであることの意味を、徐々に発見し始めている。

 イエスのたどられた旅をする以外、神へと向かう旅はない。放蕩息子の話をした方は、神の言葉であり、「万物は言(ことば)によって成った」。そして、「肉となってわたしたちの間に宿られ」、イエスの満ち溢れる豊かさの一部に、私たちを加えてくださった。(ヨハネ1:1〜14)

 放蕩息子の話を信仰の目によって見るなら、放蕩息子の帰郷とは、全ての人間をご自身のもとに引き寄せ、天の父に連れ帰るお方、すなわち、神の息子の帰郷になる。(ヨハネ12:32)

 それはパウロが言うように、「(神は)満ち溢れるものを余すところなく御子の内にやどらせられ」たことを示す。

     ヘンリ・ナウエン
| 書きとめておきたい言葉 | 06:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
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