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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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神の恵みと人間の恵み
 

 
イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
        ヨハネ18:11



18:1 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた」とある。「園」とはオリーブ山のことであり、エルサレムの町の端から、4,50m離れた近くのところで、「ゲツセマネの園」と呼ばれていた。「ゲツセマネ」とは「アブラしぼり」という意味で、名の通りたくさんのオリーブが取れたのであろう。主イエスは度々この静かな園に来て、祈りの時を持っていた。ここで主は汗が血となって滴り落ちるほどに祈っておられた。

 

ところが静かな祈りの場が騒々しい軍隊で埋まり、主は弟子からの裏切りに出会う、

18:3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた」

と同時に、ここに苦難にあえて立ち向かってゆく主の御姿を見る、
18:8 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか」。わたしたちはきょうここで、「神の恵み」「人間の恵み」の違いについて知らされるのである。

 

「神の恵み」「人間の恵み」とは異なる。
天と地の差がある。人間の恵みの基本は、まず「わたしの幸福」のなることであって、「神の栄光」のなることではない。
「人間の栄光」ばかりか「人間の恵み」のならない宗教や信仰はいらない、と普通は思う。人間の当然の心理。「わたしの幸福」の本質は、家内安全、無病息災、商売繁盛であって、そこでキリストを信じるとは、わたしの幸福がなることを、キリストがわたしの幸福のために働いてくれることを願うということになってしまう。

 

神の栄光、御心がなることは二の次になる。そこでは、わたしの幸福が適わない信仰に、恵みというものを感じない。これは人間の感情として当たり前である。
わたしたちは、いつもわたしの幸福が適う恵みを必要とし、願う。そこでキリストを信じるとは、人間の恵みが「わたしの幸福」としてなるという間違ったものになる。「神の恵み」がまず「神の栄光」を現す、という宗教はいらなくなる。

 

ここでは、恵みは、わたしの幸福を可能にする限りにおいて恵みであり、わたしを、或はわたしの家族を不幸にするような出来事が起きる信仰は、もはや恵みではない。当然。しかし、聖書を読む限り、神の恵みは必ずしも人間にとって、いつも「わたしの幸福」ではない。神の恵みは、人間の恵みと一致することもあるが、神の恵みとはそれだけではない。人間に対して、病気や災害を止めることをしない。その不条理を人間はわからない。

 

そればかりか、神が背後から人間に襲いかかることさえもある。そのことがモーセの出来事にもあるが、それを受け止めなければ聖書信仰にはならない。

神が神である故に、人間の恵みとは常に一致しない、そのような神の恵みを体験し、そのような神の恵みを語ることのできないような信仰者は、真実のキリスト教信仰が分からない。

神から来る災いを語ることの出来ぬ腰抜け牧師、人数を増やしたいだけの牧師はやめたほうが良い。

 

イスラエルは紀元前1,300年ごろ、出エジプトをした。旧約聖書宗教は厳密には、このときから始まる。しかし、紀元前586年にはバビロン帝国によって滅ぼされ、多くの人がバビロン捕囚となった。その時、戦争に負けた神を、即ち自分たちに災いをもたらした主を捨てるべきであった。古代の宗教は皆そうであった。しかし一部の人々は主を捨てないでメシアの誕生を待つ民となった。

 

「神の恵み」「人間の恵み」とは異なるのである。そして、大概、教会でキリスト者の口から出て来る「恵み」とは、御心がなる神の恵みのことではなく、わたしの幸福がなる、自分が喜ぶ人間の恵みのことである。「主の祈り」にあるように、まず「御名があがめられますように」と、何よりも先に神の栄光を求める祈りが出来ているかどうか。礼拝式文で「主の祈り」が先に来ているのはその意味。

 

人間の祈りではない、説教でもない。「御名があがめられる」祈りが先にある。それが真実な礼拝である。

神が御子に与えられた杯は御子にとって恵みではない。罪人でない者が罪人とされて十字架の苦しみと死を招く杯である。しかし、御子はその恵みではない杯を飲まなければならない。イエス・キリストに従う、或は御言葉に従うとは、自分にとって恵みではない苦しみの杯を飲むことである。

 

「飲むべき」苦き杯を飲むことが出来る人こそ、キリストの弟子である。「神の恵み」は必ずしも「人間の恵み」ではないのだ。しかし、それこそが本当の恵みとなる。

そういう恵みを知らずして、わたしの幸福が恵みだとしか知らない信仰者は、真のキリスト者にあらず。

神を「わたしの幸福」の道具に使ってはならない。

わたしたちも苦き杯を飲まなければならないときがある。
主は苦き杯を既に飲まれた。主はわたしたちの苦き杯を共に飲んでくださる。

 

          ★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜★

   
  
まったくもってアーメンです。


 「また自分の十字架を取ってわたしのあとに従わない者は、わたし(の弟子たる)に適しない。
  塚本虎二訳  ルカ10:38
  
 
 「
アーメン、アーメン、あなたに言う。あなたは若かった頃は、〔自分で〕あなた自身の帯を締めていたし、自分の望むところを歩いていた。だが、年をとれば、あなたは両手を拡げ〔るだけで〕、ほかの人があなたの帯を締め、あなたの望まないところへ連れて行くことになるだろう」。

        ヨハネ21:18

 
 ほかの人があなたの帯を締め、あなたの望まないところへ連れて行くことになるだろう

 これが、引き渡された人生、十字架を負って歩む人生である。

  十字架を負ってついてゆく、それがイエスが負われた十字架のように、自分のものであって自分のものではない、即ち、他者が負うべき十字架を自分の十字架として背負うことにある。

しかし、主は決してわたしたちを孤児とはなさらない。

主はわたしたちの苦き杯を共に飲んでくださる・・このことゆえに、苦き杯さえも飲み干すことができる者とされる。十字架の向こうに輝く、復活のゆえに、主と共に飲むことができるのである。


| 兄弟姉妹のブログより | 10:40 | comments(5) | trackbacks(0) |
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コメント
引用されたこのメッセージのアウトラインはほぼ理解出来ます。

しかし、「私」を不幸にして、果たして神は幸福でしょうか。神の幸福が人にとっての幸福と対立するような表現はむしろ宗教的であると私は思います。

自分が苦しみの杯を飲むことや、災いを喜んで引き受けることが、神の幸福を追求することであるかのような言い回しは、神の祝福の根幹から明らかにずれています。

それこそ自己憐憫をおびき寄せるのではないですか。

ただし、そのような苦き杯への導きがないということではありません。

しかし、その苦さはさらに甘いキリスト御自身を学ぶためですよね。

ことばのあら探しをして重箱の隅をつついた気はありません。

これからの時代、けっこう大事なトピックだと思います。


| Salt | 2010/09/25 12:25 PM |

saltさんへ

率直なコメントを心から歓迎いたします。


>自分が苦しみの杯を飲むことや、災いを喜んで引き受けることが、神の幸福を追求することであるかのような言い回しは、神の祝福の根幹から明らかにずれています。

おっしゃるとおりですね。
単にそのことを追求するのだとしたら、
まったくおかしなことです。

もしそのような極端な誤解を与えてしまったとしたら、ここにあげるべきは間違っていたのかもしれません。

苦しみだけを望むとしたら、それは大きな間違いだと思います。

しかし、それだけではけっして説明のつかないことがおこってくる
思っても見ない、望んでもいなかったことが現実に起こってくる。祈ってもそのとおりにならないような

そのなぜだかわからないことが、自分の人生に起こってくることのほうが、実際ずっと多いように思います。

問題の只中で、私たちの願いを聞き、憐れみを持って解決を与えてくださる。
その時の喜びはことばに尽くせません。
ただ憐れんでくださった・・その一言に尽きます。

主と共にあるあゆみが
最近よく思わされることがあるのです。

結婚式でよく交わされる誓いの言葉です。

健やかなる時も病める時も共に愛することを誓うか・・という約束です。

主の花嫁として、主を信じるということが、祈りが聞かれる時だけではない、思ったように聞かれなかったときも、変らず主を愛することへの召しのように思うことです。

そして信仰生活というものが、
決して自己の願いをを追求するのものではなく、むしろ自己を降ろしたところに本当の自由があるように思います。

十字架を負って歩むことは、むしろ痛みが伴うことのほうがはるかに多いと感じさせられています。しかしその痛みの中ですら、深い安息を感じ、主の愛を深く感じさせられる恵みが隠されているのです。

主が痛むほどに愛してくださったことを知ることができるのは、(その痛みをほんの少し知らされるに過ぎませんが、)その痛みの中で神の愛の深さを知らされるに至るのです。

試みにあわせないで悪よりお救いください・・と祈るように主は言われました
ですからあえて求めることは間違っています。でも願わずして置かれることの中で、そこでしか知りえない主の恵みがあり、知り得ない主の深い憐れみがある。共に涙してくださる方が私の神だと深く知る・・のは、暗闇の中においてしか知りえない

全てはこのお方を知るためという一語に尽きるかもしれません

キリスト教界という中に身を置く者として、あまりにも、自己実現、自己追及という極端な姿を見ることが多くあります。
誰もが自分自身のことを求めるだけで、キリストイエスのことを求めていない現実です。

戸の外に追いやられた主のお姿を思います。

なんだか答えになっていないかしら・・すみません。

>ことばのあら探しをして重箱の隅をつついた気はありません

はい^^感謝です。このような交わりを心から感謝します。



| candy | 2010/09/25 4:32 PM |

今日は我孫子に行って、丁度その様な交わりをしてきました。お二人のコメントを感謝しますm(__)m
| エシュコル | 2010/09/26 12:31 AM |

一部、転載させて下さいネ。
| エシュコル | 2010/09/26 2:16 AM |

エシュコルさんへ

こちらこそ感謝します。

(*´∀`*)ゞ
| candy | 2010/09/26 9:40 PM |

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