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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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法則であって祈りではない

「霊の解放」より


神が私たちを対処し、わたしたちそのものを砕き、霊を解放して、わたしたちが自分の霊を使用することができるようにされるのは、神の法則によるのであって、私たちの祈りによるのではありません。
これはどういう意味でしょうか。

それは、わたしたちの内なる人は、私たちの、砕かれた外なる人を経過して出てくると言うことです。

これは一つの法則であって、私たちの祈りはこの法則を左右することは出来ないのです。法則は祈りによって変えられることはありません。

あなたが祈りながら手を火の中に入れたとしても、あなたの手はやはり火傷をまぬがれないでしょう。(奇蹟のことではなく自然のことを言っています)

あなたの祈りはその法則を変えることは出来ません。ですから、私たちは神の法則に服従する人になるように学ばなければならないのです。

 祈りさえすればそれでよいと考えてはなりません。

もし、手を火傷したくなかったら、火の中に入れないことです。

祈りながら、手を火の中に入れるものではありません。神が私たちを対処されるのは法則によってです。

内なる人は必ず外なる人を経過して出てこなければならないからです。これは一つの法則です。

もしあなたの外なる人が砕かれ、ひかれて粉になっていないなら、あなたの内なる人は出てくることができません。

とにかくこれは主の道であって、主は必ずあなたそのものを打ち破らなければならないのです。

そのとき始めて主が出てこられる道が出来るのです。私たちがこの法則に服従しないで、多くの祈りをもってあれもこれもと祝福を求め続けてはなりません。

このような祈りは無駄であり、神の法則を変えることは出来ないのです。


 霊的働きの道では、神が私たちから出てこられるのでなければなりません。

ただ、この道だけが神の用いられる道であります。

砕かれていない人からは、福音も、神も解き放たれる方法もないのです。またその人自身にとっても歩むすべがないのです。

私たちは神のみ前にひれ伏さなければなりません。どんなに多く祈るよりも、神の法則に服従する方がさらにまさっています。

無知のために神の祝福を求め

 「神よ、私たちのためにこのようにしてください。あのように働いてください」 と求めることは、神の道はこのように歩むものだということを知った一分間の祈りにも遠く及ばないのです。

このような祈りは無益ですから、それをやめて、神に向かって

 「神よ、わたしはあなたのみ前にひれ伏します」と言う方が、さらにまさっています。

多くの場合、わたしたちの祝福を求める祈りはみな妨げとなっています。

多くのとき、私たちは祝福を切望しますが、かえって神のあわれみを見ることができないようです。

神が光で照らしてくださるように求め、み手の下に服従すること、この法則に服従することを学ばなければなりません。この服従の結果が、私たちの切望する祝福そのものであります。


.。.:*・☆彡.。.:*・☆彡.。.:*・☆彡.。.:*・☆彡.。.:*


  「私は心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って
 わたしから学びなさい。
  そうすればたましいに安らぎがきます。」マタイ11:29

 

   
  心優しく、へりくだっている=柔和さと謙遜

旧約聖書レビ記2章には、

 「人が主に穀物のささげ物をささげるときは、ささげ物は小麦粉でなければならない。その上に油をそそぎ、その上に乳香を添え・・」

 と出てくる。

 小麦粉は粉々に砕かれた「謙遜」を表し、そして小麦粉が象徴する第二のことは「なめらかさ」=「柔和」ということです。

 十字架の対処をうけることは、この小麦粉にあらわされた
御子のご性質でそものもである謙遜と柔和さがその人のうちに形造られることである。

 
  このことを、神から学んだ人は幸いです。


  あぁ、時間です。透析に行ってきます!

| ウオッチマン・ニー | 07:09 | comments(2) | trackbacks(0) |
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| - | 07:09 | - | - |
コメント
初穂であるイエスと一粒の麦の話は興味深いですね。

地の中で死んで新しい命の実をつけるか、
砕かれ、すりつぶされて 命のパンになるか。

どちらにせよ個の形が無くなってからが
主に用いられる事であるように思わされます。

どちらにせよそれが自分ならと考えると
怖ろしくもありますが、
主のくびきはおいやすいとあることもまた、事実。

「美しさはむなしい」ともありますが、
若さはいつか失われるもの、年を重ねてこそ表の輝きでないものが、あらわれる。
日々の生活の中にも様々な不安もありますが、
主を恐れること。
その中にこそ平安を得ています。

ブログを通じた交わりに感謝しております。
| 電気屋です | 2010/06/15 6:21 AM |

電気屋さん、こんにちわ(*´∀`*)ゞ

>どちらにせよ個の形が無くなってからが
主に用いられる事であるように思わされます

本当にそうですね^^どちらの場合であっても、十字架が真に私たちの堅い殻である外なる人を死に至らしめるのですね。外側が破られるそれは、麦の話にしてもそうですし、ナルドの壷が割られ、純粋な香油が部屋いっぱいに香ることも・・。
割られ、砕かれるために徐々に与えられる痛み、そして頂点にくる一撃にも似た痛みはある意味、内なる人が出てくるための陣痛にも似た痛みですが、それによって得られる平安と歓びはそれに勝るもの(陣痛の痛みを知る女性の特権です^^)
ニーは言っています。
 「私たちの唯一の望みは、主が外なる人を砕いて中からの道を広げてくださり、見られるくらいに内なる人が出てくることなのです。」
 
「 もはや私が生きているのではなく、
 キリストが私の中で生きている。」

 の御言葉が見えてきますね。

>どちらにせよそれが自分ならと考えると
怖ろしくもありますが、
主のくびきはおいやすいとあることもまた、事実

アーメンです!

主が私たちを十字架のもとで、さらに対処してくださいますように!

キリストにある幸いな交わりを心から感謝いたします。
| | 2010/06/15 7:32 AM |

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