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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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天の国はこのような者たちのものである
 「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」

 

エス様は、わたしたちが幼子のようにならなければ、天国に入ることができない、と言われたのでした。

 当時の大人たちも、今日の大人たちも、子どもは邪魔者だ、とついつい考えてしまいがちです。そのようなわたしたちの常識的なものの感じ方に対して、イエス様のお言葉は天から、突き刺すような言葉として、響きわたって来るのです。

 「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」

 

人が天国に入れないのは、分別が在り過ぎるからです。分別とは、物事を分析し、理解し、相手の立場と、自分の立場をわきまえて、常識的に行動する知恵であり、配慮です。この分別があるからこそ、大人は大人なのです。

 分別のある大人は、感情や気持だけで行動したりなどしません。分別のある大人は、自分の感情や気持を抑制しコントロールします。まずすべき大切なことは、その場所やその場の人間関係やその場の状況を分析し、自分の立場をわきまえることです。自分の立場をわきまえないまま、何か言ったり、何かやったりすることは、いけないことであり、大人のすることではないのです。

人は神様との関係においても、分別を働かせてしまいます。礼拝に出席していても、自分で祈っていても、大人は頭で神を分析しようとします。神は霊であって、崇高な、神聖な、きよい、おそるべきお方である。これに対して、わたしは罪深い、愚かな、汚れた、不信仰な、小さい、だめな人間である。だから、自分は神にふさわしくない。自分は神に近づけない。神に向かって何か言ったり、何かやったりすることは、おそれおおいことである。だから、礼拝をするにしても、定められたやり方を守らなければならない。祈るにしても、きちんと定められたお祈りの言葉を唱えなければならない。神の立場を尊重し、自分の立場をわきまえ、その関係を飛び越えるようなことは、決してしてはならない。

 これが、分別ある大人の信仰の姿です。

 

れに対してイエス様は言われました。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」

い子どもは、分別というものが弱いのです。いけないことをして叱られた幼子は、お母さんに叱られると、わあわあ泣きながら「お母さん、だっこしてえ」とお母さんにすがりついて来ます。叱る者が、叱られる者を叱りつけたら、叱る者と、叱られた者との間には、緊張が生じ、距離が生じ、立場の相違が生じます。大人はその立場の違いを乗り越えて、近づくことが出来ません。分別があるからです。

 しかし、幼子は分別が弱いので、立場の違いを認識しません。その状況も認識しません。叱られているのに、「お母さん、抱っこして」とお母さんの胸の中に飛び込んで行くのです。

 幼子には、自分とお母さんとの間の距離、というものが、まだ十分に確立されていません。あまりにも心理的にお母さんと一体であるために、お母さんに向かって行く自分の気持を、抑制したり、コントロールしたりすることが出来ません。自分とお母さんとの間に、心理的距離がないからです。だから、幼い子どもは、お母さんに向かうときに、その態度を躊躇したり、遠慮したり、配慮したりすることが出来ません。自分の気持のままに、感情と思いのままに、お母さんの胸に飛び込んで行ってしまうのです。

 

たしたち大人は、神様に向かうときに、冷静な分析者であってはなりません。心を動かさない観察者であってはなりません。定められた儀式と定められたお祈りの言葉を唱えさえすれば神への義務はすべて果たした、と思い込むような、分別ある大人であってはなりません。イエス様が言われたように、わたしたちも、神様と自分との関係においては、幼子のようにならなければなりません。

 わたしたちも、幼子の心を取り戻しましょう。ここにわたしがおり、ここに神様がおられます。神様はわたしたちを限りない愛で愛しています。わたしたちも、神様を心から愛しています。愛されている喜びの感情を、幼子として、そのまま喜びとして、単純に喜びましょう。わたしたちは決して大人になって、愛されている喜びの感情を冷静に分析などしてはならないのです。自分が愛されるに値する人間かどうか、心をうつむいて、内省的になって、自分という人間を分析などしてはならないのです。

 幼い子どものようになって、無限に注がれている神様の愛の中に、そのまま立ち、心いっぱい、体いっぱいに、神の愛を受けましょう。そして、神の愛を感じ、神の愛を喜び、神ご自身を喜びましょう。

を礼拝するときに大切なことは、主の祈りを間違えないように言うことではありません。あるいは、主の祈りをみんなに遅れないように唱えることでもありません。

 神を礼拝するときに大切なことは、讃美歌を間違えないように歌うことではありません。立派な言葉で流暢にお祈りすることでもありません。そうしたことは、本当は枝葉のことです。

んとうに大切なことはただ一つしかありません。それは、自分を神の愛の中に置くことです。神に愛されている自分を見ることです。神に愛されているありのままの自分として、神の愛の中に身をゆだねることです。そして、その愛を喜ぶことです。その喜びの感情を、抑えたりしないで、素直に表現することです。何の配慮も、躊躇も、遠慮もしないで、神様の広い大きな胸の中に飛び込んで行くことです。それがほんとうの礼拝であり、ほんとうの祈りであり、ほんとうの神の国です。

別ある大人であるわたしたちは、自分が愛されるに値しない者であることを、自分を冷静に分析した結果、逃れられない現実として深く認識させられているので、どうしても、自分と神様との間に、途方もない距離を設定してしまうのです。

 しかし、神を礼拝するときは、もう自分を分析することは止めなければなりません。神を分析することも止めなければなりません。神を礼拝するときには、わたしたちは十字架につけられたイエス様を見なければなりません。主はわたしたちの身代わりとなって十字架にかかり、わたしたちの罪をすべて担って死んでくださいました。今主イエスは復活して、わたしたちのすべての罪が赦されたことを、全宇宙に向かって宣言しておられます。

たしたちは、自分が赦されたことを信じなければなりません。十字架の恵みによって、神様と自分との間に横たわる途方もない距離は縮められ、その距離はゼロにされたことを信じなければなりません。わたしと神様との間の距離はもはやゼロなのですから、わたしたちは大人としての分別を捨てなければなりません。そうして、幼子のようになって、神様の広い大きな胸の中に走って飛び込んで行かなければなりません。

 幼子は、自分が受け入れられるだろうか、などと心配したりしません。

 幼子は、自分は拒絶されないだろうか、などと恐れたりしません。

 幼子は、自分はその資格があるのだろうか、などと躊躇したりしません。

 幼子は、今それをしてよいのだろうか、などと配慮したりしません。

 幼子は、喜びの感情のまま、その喜びのままに飛び込んでいきます。

 幼子は、自分の全存在を、そのまま全部ぶつけて飛び込んでいきます。

 幼子は、自分の全存在がそのまま愛され受け止められていることを微塵も疑わ
 ずに飛び込んでいきます。

 

 子になることは、なんと難しいことでしょう。わたしたちは、なんと分別ある大人となってしまったことでしょう。しかし、イエス様は今日もわたしたち大人に、「幼子のようになりなさい」と招いておられるのです。

 「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」

| 書きとめておきたい言葉 | 23:03 | comments(4) | trackbacks(0) |
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コメント
今日も深いです。幼子でいたいなぁ・・・と思いなおしました。
ありがとうございますm(__)m
こちらの「5並べ」についつい夢中になってしまいます(^^;)
プロといい勝負してます(=^^=)/
ゆるいプロなのかなぁ・・・?(笑)
| りぼん | 2010/04/28 9:48 AM |

幼子のように・・いっぱい握っているものを放棄して幼子のように主の御もとに駆け寄る者とされたいと思わされます。


五並べ、はまるでしょ〜笑

プロといい勝負なんて、すご〜い!!
私はアマがいいところです・・汗
| candy | 2010/04/29 12:13 AM |

>神に愛されているありのままの自分として、神の愛の中に身をゆだねることです。そして、その愛を喜ぶことです。その喜びの感情を、抑えたりしないで、素直に表現することです。

その通りですね。アーメンです。子育てしていると子供の真っ直ぐな目線にふと我を正されたりする事が良くあります。体は朽ちても(笑)心はいつまでも子供のままでいたいですね。息子さんもそろそろ学校、慣れてきた頃でしょうか?
| 詩音 | 2010/04/30 2:30 AM |

詩音さん、こんにちわ

体は朽ちても・・うんうん、笑

余計なものがそぎ落とされてシンプルにされてゆくって、結局幼子のようにされてゆくということなんですね。

 
 お祈り感謝いたします。部活動が少しずつ始まってきますので、体的にはしばらく筋肉痛との闘いになりそうです。休まず行くぞ~と張り切っていますけどね^^
| candy | 2010/04/30 10:41 PM |

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