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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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真理に触れる喜び
 
みことばざんまい  MKさんのブログより


 2007/04/07のエントリーで以下のような考察をしました。内容自体に大きな変更はありませんが、この記事を一部修正しながら(一部に間違いがあります)検討を進めたいと思います。


ガラテア2章20節
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きている
のではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、
この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった
神の御子を信じる信仰によっているのです。
(新改訳)


「この文章の最初の一行目は、口語訳、新共同訳には存在しません。異本が存在するためです」と書きましたが、これは間違いで、

ガラテア2:19に、

わたしはキリストと共に十字架につけられた
(口語訳)

わたしは、キリストと共に十字架につけられています
(新共同)

とあります。そして、新改訳は上にあるように

ガラテア2:20a
私はキリストとともに十字架につけられました
(新改訳)

以上ご指摘の通りです。英語訳のほとんどは、この文章をガラテア2:20の文頭に入れています。実はその方が文法的により適切なのです。

原典をみると、この文章は

χριστω συνεσταυρωμαι(クリストー スーネスタウローマイ」という短い文章から成っていて、直訳すると「私はキリストと共に十字架に付けられてしまっている」。動詞の時制は完了形です。英語でもそうですが、「完了形」を日本語に訳出すると、多くの場合その本来の意味合いが落ちてしまうようです。的確な日本語表現が存在しないためです。

よって、

私はキリストと共に十字架に付けられてしまった

というややくどい訳出になってしまいます。

古典ギリシャ語の完了形というのは、「〜した結果、現在は〜である」という用法です。「現在は〜である」という文章が次に来ることが期待されます。

この原則をこの聖句に当てはめてみると、

私はキリストと共に十字架に付けられて「しまった結果」
(私は死んで)「現在」キリストが私の中で生き「ている」

となるわけです。

・・・(以下は参考までに)

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」に誤訳はありません。

問題は、次の文章です。

他の原典も確認してみましたが、この文章は関係代名詞(主格または対格)中性単数であるho(ホ)から始まります。この文章、そして前聖句にも中性単数名詞は存在しません。つまり訳出不能な文章なのです。この単語がなければ全く問題はないのですが。そこで、強引に以下のように解釈したいと思います。英語では前文全体を受ける関係代名詞whichがありますが、この用法を当てはめて直訳を試みます。

というのは、今私は肉の中で生きており、私を愛しそして私のために
ご自身を引き渡された神の子の信仰の中で、私は生きている。

となります。

「神の御子を信じる信仰」ではありません。これは極めて重大な誤訳です。「神の子の信仰」が正訳です。この大きな違いがお分かりでしょうか。「神の御子を信じる信仰」と訳出した場合の主格は誰でしょうか。「私」です。「私が神の子を信じる信仰」となりますが、原典にはそのようには書いていません。「神の子の信仰」です。つまり「人の子イエスが持っていた信仰」です。

主イエスがあくまでも神に従順であったが故に、私パウロは今永遠の命に与っている、という意味なのです


全文直訳します。

私はキリストと共に十字架に付けられてしまった結果、今私は死んでいる。
だから、もはや私が生きているのではなく、キリストが私の中で生きている。
というのは、今私は肉の中で生きており、私を愛しそして私のために
ご自身を引き渡された神の子の信仰の中で、私は生きている。

となります。「私は死んでいる」ので信仰を持ちたくても持てないのです。死んだ私に代わって、主イエスの信仰(神への従順)が私を生かしているのだ、とパウロは言っているのです。

主イエスの信仰が私(たち)を生かしているのです。言い換えると、主イエスの信仰によって私(たち)は生きているのです。
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