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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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彼の死に同形化される
 

「兄弟たちよ、アジアで私たちにふりかかった艱難について、あなたがたに知らずにいてもらいたくありません。私たちは極度に、耐えられないほどに圧迫されて、生きる望みさえ失ったほどでした。実に、私たちは自ら、自分自身のうちに死という答えを持ちました。それは、私たちが自分自身に信頼するのではなく、死人をよみがえらせる神に信頼するためでした」      
     
    2コリント1:8,9


使徒パウロは、耐えられないほど
極度に圧迫」され、
生きる望みさえ失った
ほどだった、と言っています。
これは土の器に対する重圧です。
どこに私たちは天のいのちの現れを見るでしょう?

「私たちの慰めもまた、キリストを通してあふれています」。
苦しみや圧迫と共に天の慰めが与えられました。
その慰めにより、
彼は艱難の中で勝利することができました。


それが天の慰めであることは、
どのように現されたのでしょう?
もう一度読みましょう。


私たちを慰めて下さる方(中略)それは、私たち自身が、神によって慰められているその慰めを通して、あらゆる艱難の中にいる人たちを慰めることができるためです」。



この言葉は、パウロの私心のなさを
なんと表していることでしょう!
極度の困難の時に、
彼は自分自身を忘れ、自分の苦しみを通して、
人々を慰めるのにいっそうふさわしい者に
なれることを喜びました。

「私たちが艱難に遭うなら、それはあなたがたの慰めのためです。(中略)私たちが慰められるなら、それはあなたがたの慰めのためです。その慰めは、私たちが受けているのと同じ苦難を耐え忍ぶことの中で働くのです」

と彼はコリント人に書いています。

私たちは、あらゆる面で砕かれている心に対して
天の油の流れの経路となることよりも、
キリストのために働くことを考えているのでしょうか?


私たちはキリストの復活の力を知ることを願っています。
その実際生活における現れを、
私たちはこの一つの器にかいま見ます。
この器は慰めを注ぎ出し、
自分に臨むあらゆる苦難の中で喜びます。
苦難は人々を理解し、助けることができるようにします。
なぜなら、もし自分自身で苦しんだことがないなら、
どうして私たちは人々を理解し、助けることができるでしょう?


主は、たとえ外側のすべてが繁栄しているように見える時でも、
私たちを彼の苦難の交わりの中に導く
素晴らしい方法を持っておられます。
もっとも繁栄しているように見える生活でも、
その背後にはもっとも深い苦難が潜んでいる場合があります。
主はどうにかして、
私たちに苦難の交わりを教えなければなりません。
さもないと、私たちはたいして役に立つことができません。
私たちはあまりにも、
喜びで満たされる側にとどまっています。
しかし、私たちの回りには心の砕かれた人がいること、
もし彼らに対する神の慰めの経路になりたいのなら、
経験的に苦難について学ばなければならないことを、
忘れないようにしましょう。


パウロは9節で、
なぜ神がこのすべての圧迫を許されたのか、
私たちに告げます。

「私は、それは私自身の中の死である、
という答えを持ちました」。
彼はまるでこう言っているようです、

「主は私を、
何をする力も持たない所に
連れて行かなければなりませんでした。
私は、この完全な弱さと無力さの中から、
死人をよみがえらせる神に
頼らなければなりませんでした」

私たちは完全な弱さの場所、
私たち自身の能力、
「忍耐力」さえも尽きる場所に、
連れて行かれたことがあるでしょうか?

主は時々、
私たちの幾人かが持っている
途方もない忍耐力を取り去ることにより、
以前ならまったく不可能だったような方法で、
私たちを通して他の人々を砕くことができます。


神が私たちを通して他の人々を砕くことができるよう、
神に私たちを砕いていただくことは、
大いなることです。

砕かれていない殻の下に
自分のもっとも深い感情を隠す力を失ってしまったことを
悲しんでいる人が、私たちの間にいるでしょうか?
私たちは自分の部屋に一人でいる時、
主の御前で泣き崩れることを気にしないかもしれません。
そして、微笑みとともに出てきて、
「すべて大丈夫です!」と言うことを、
栄えある勝利だと思うかもしれません。

しかし土の器は、中心にあるいのちが破れ目から流れ出て、
人々を主の足もとで砕くことができるよう、
砕かれなければなりません


最も麗しい生活を送っているのに、
決してあなたの心に触れたことのない人々を、
あなたは思い浮かべることができるのではないでしょうか?
彼らの経験はあなたをはるかに上回っているようですが、
彼らに会う時、あなたの目に涙は浮かばず、
あなたの心は溶かされません。
なぜでしょう?
それは、内側にあるいのちが
本当に自然に人々に流れることができる前に、
なおも砕かれる必要があるからです。


神はどうして私たちを砕く出来事が
私たちに臨むのをお許しになるのだろう、
と私たちは不思議に思います。
そして、「元気を取り戻す」力を失います。

私たちはパウロの生涯に、
彼がいかに成熟し、深く、
他人に対して見事なまでに優しかったか
見ることができるのではないでしょうか。

これは彼の祈りがかなえられて、
彼がキリストの苦難の交わりを知ることを授かり、
彼の死に同形化されたからです。

| ジェシー・ペン-ルイス | 06:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
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