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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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福音はエンターテイメントではない〜『集会で恵まれた』の意味〜
 
クマ郎さんのブログより


アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。(使徒17:21)

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。(競謄皀藤粥В押腺粥

私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。(汽謄汽蹈縫隠押В粥


以下の文は、映画雑誌「プレミア」の編集者として来日し、かつてサッカー日本代表トルシエ監督の通訳、パーソナル・アシスタントを務めたフランス人、フローラン・ダバディー氏の著書「『タンポポの国』の中の私」からの引用である。ここではダバディー氏の映画についての考えが書かれている。

私にとって映画とは、エンターテイメントではありません。先日、ブルーノ・デュモンという映画監督のインタビューの中に、「最近は、日々の苦しい生活を忘れるために、みんなが映画に行っている。それはおかしい」という発言がありましたが、私もまったく同感です。映画=エンターテイメント、気分転換という考えを否定する彼の考えに、私は大賛成です。

映画は芸術であり、アートです。だから、本来映画を見に行ったら、無傷のままで、言うならば、心に何らかの重い衝撃を受けることなしに映画館を出ることなど、あり得ないはずなのです。必ず、大きなショックがあって、それによって見た人の内面が変化する。それが、本来の映画というものだと思います。

それが、映画を見終わったら、お茶を飲んでショッピングをして、というのは、本当は、おかしい。映画館を出たら、もうショックで口を利く元気もなくて、そのまま今日は、家に帰ろうかな、というのが普通です。もちろんコメディーに関しては、その限りではありませんけど。

ですからハリウッドの、気楽な娯楽映画を見て現実を忘れましょうというコンセプトには反対です。もし現実から脱出するのが真の目的ならば、これはほとんど自殺と同じことです。たとえ口当たりは苦くても、それによって暗く辛い人生が癒されたり改善されたりする、それが本来の映画のあり方だと思います。

・・・・映画館を出るときは傷ついていなければならないし、鑑賞後にショッピングや食事に楽しく出かけるようでは、その映画は失敗だったということです。「今日は一人で帰る」と言わせ、翌朝にそのテーマや哲学が生きている、大げさに言えば映画という芸術を通して自分自身が少し成長している、という映画こそが本来の姿であるはずです。

フローラン・ダバディー著「『タンポポの国』の中の私」より

クリスチャンの間でよく聞かれる「恵まれた」という言葉がある。
「今日のメッセージで恵まれました」「大変恵まれた集会になりました」という使い方がされることが多い。

私はこの「恵まれた」の言葉に違和感を感じることがある。なぜなら「恵まれました〜」と言う人の多くが、平気な顔をしているからである。本当の意味で恵まれてしまった人は、もはや楽しそうな顔で「恵まれました〜」などと言うことができなくなるはずである。

これらの浅薄な「恵まれました〜」の声を聞くと、現在は「人々が、自分のつごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行く時代」(競謄皀藤粥В魁腺粥砲覆里世隼廚錣困砲い蕕譴覆ぁ

ダバディー氏の映画についての考えは、クリスチャン生活にもあてはめることができる。文章中の“映画”を福音、集会、メッセージに置き換えれば、本当の意味で「福音を聞いて恵まれる」とはどういうことなのかを説明することができる。ダバディー氏の文書をベースにして、ここにそれを記します。

福音とは、エンターテイメントではありません。日々の苦しい生活を忘れるために、集会に行くというのはおかしいのです。福音=エンターテイメント、集会=気分転換という考えを否定する汽謄汽蹈縫隠押В粥↓競謄皀藤粥В押腺瓦法∋笋和膸神です。

福音とは十字架のキリストであり、神の言葉は剣です。それは私たちを死と復活へと導くものです。だから、本来集会にメッセージを聞き行ったら、無傷のままで、言うならば、心に何らかの重い衝撃を受けることなしに集会場を出ることなど、あり得ないはずなのです。必ず、大きなショックがあって、それによって聞いた人の内面が変化する。それが、本来の福音というものだと思います。

それが、集会でメッセージを聞き終えたら、お茶を飲んでショッピングをして、というのは、本当は、おかしい。集会場を出たら、もうショックで口を利く元気もなくて、そのまま今日は、家に帰ろうかな、というのが本当の意味で「集会で恵まれた」ということなのです。もちろん、弱っている人に励ましを与える場合は、その限りではありませんけど。

ですから、感情に訴えかけ、良い気分にさせてくれるメッセージを聞いて現実を忘れましょうというコンセプトには反対です。もし現実から脱出するのが真の目的ならば、これはほとんど自殺と同じことです。たとえメッセージが耳障りで口に苦くても、それによって心の中の暗やみが暴露されて、清められ癒されること、それが本来の「恵まれたメッセージ」の意味なのです。

集会場を出るときは傷ついていなければならないし、集会後にショッピングや食事に楽しく出かけるようでは、その集会でのメッセージは失敗だったということです。「今日は一人で帰る」と言わせ、聞いた御言葉が心の中で生きて働いている、気がつけば自分が終わらされて、内なるキリストのいのちが成長している、これが本来の「恵まれた」姿であるはずです。

多くの「恵まれました〜」は、じつは恵まれてはいない。その真相は神が「富む者を何も持たせないで追い返された」(ルカ1:53)ということである。

したがって、本来「恵まれました〜」と表現すべきではなく、アテネの人々のように「耳新しいことを話したり、聞いたりして過ごせてよかった〜」(使徒17:21)と表現すべきであろう。

福音はエンターテイメントではない。自己満足を求めて集会に行っても無駄である。本当の意味で恵まれるためには神の言葉によって傷つけられることがどうしても必要となる。神から受けた傷から復活のいのちが流れ出すのである。

私たちは聞き方に注意しなければならない。持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるのである。(ルカ8:18)

「トルシエの横で日本語で怒鳴っている外人は誰だ?」
そう思った人は、是非この本を読んで欲しい。(帯の記載より)


| 兄弟姉妹のブログより | 23:13 | comments(5) | trackbacks(0) |
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コメント
全くアーメンです。でも娯楽としての映画もあって良いのでは…とも個人的には思いますね。

しかしcandy さんの透析を考えると、「恵まれた〜」とか本来はなかなか言えませんよね。
私自身この恵まれた環境と健康、そしてメンテナンスをしっかりしていかなくては…と思わされました。鶏にならない様にしないと、ですネ!!
有り難うございましたm(__)m
| エシュコル | 2010/01/20 2:44 PM |

初めまして。ともしびと申します。
旧ブログのブラザー・ローレンスに関する記事を読んで御邪魔しました。
仰る事、全く同感です。
”神様の言葉は、剣である。”私は、かつて刀剣愛好家の方から、日本刀の真剣を拝見する機会に出会いましたが、目の前で見る切っ先の鋭さと刃の光に言葉がありませんでした。
美術館などで、ガラス越しに見る姿とは似ても似つかない迫力、そして何とも言いようのない怖れが今でも忘れられません。
神様の言葉におののく者という聖書の記述がありますが、私もそのようでなければ、そして、それを超えてブラザー・ローレンスのような信仰に達するように。そう願うばかりです。
| ともしび | 2010/01/20 10:26 PM |

エシュコルさんへ

人は天から与えられるのでければ、何も受けることはできません。

とお言葉のとおりです^^
病も主のご計画のうち。それによって知り得たイエスの憐れみはとても深いものです^^本当に恵まれていますよ^^
これからもきっと^^




 ともしびさんへ^^

 はじめまして。ご訪問、そして書き込みを心から歓迎いたします。

>日本刀の真剣を拝見する機会に出会いましたが、目の前で見る切っ先の鋭さと刃の光に言葉がありませんでした

目の前で見る(知る)神の言葉の切り分ける鋭さを知る者とされることはなんと幸いでしょう。

御言葉によって抉られる経験、神から受けた傷口から復活のいのちの芽が芽吹くのを見るのです。


「私はまもなく神のみもとにいかなければなりません。たった一瞬たりとも神を見ることができたら、どんな激しい苦しみも、それが世の終りまで続くとしても、私にとっては喜びであることを、神のみ前に申し上げるつもりでいます。私の生涯で何が私を慰めるかといえば、それは信仰の目で神を見ることです。もはや信じるということより、神を見ているとさえいえるような思いで神を仰ぎ見るのです。信仰が教えることと信仰の実践と確証を、私は実感として学び取り、神と共に生き、神と共に死ぬ者となるのです。 」
 ブラザーローレンス

信仰が教えることと信仰の実践と確証を、私は実感として学び取り、神とともに生き、神と共に死ぬものとな・・・なりますように、主を仰ぎます
| candy | 2010/01/21 7:54 AM |

はじめまして
お気に入りに登録して、時々読ませていただいいます

私たちの教会では毎週礼拝の後、手作りのお昼ご飯をみんなでいただきます。
1時間以上のメッセージと色々に活動しているグループからの幾人かの報告がありますので、すべて終わった時は、30人程の子供たちも含めて、みんな、もうお腹がぺこぺこ!!! ほとんどの人が9時前から教会に来ていますから。
おお急ぎで、机や椅子を食事用に並べなおして、やっと、お昼ご飯です。
ご想像の通り、すっごく賑やかで楽しく食事をいただいています。


しかし、私はそんな「恵まれた」中にいても、何か寂しさを感じることがしばしぱありました。私は、遠隔地から教会に通っているので、日曜午後に開かれる行事や、平日の伝道集会や祈祷会、学び会等に出ることができないので寂しいのかなあ・・・と思っていたのですが、・・・今日、本当の理由が、このブログから明らかにされました。

実は、私は、礼拝を、一週間に一度のイベント、エンターテイメントのように受け取っていたからだったのでした。

賛美や説教の中で、個人的に神様から語られたメッセージ、最も大切なものが、食事や慌しい打ち合わせの間に、私の頭の中からすっかり抜け落ちていたからでした。

重要な気づきを与えてくださったことを感謝します。

| keiko | 2010/05/20 8:28 AM |

>私はそんな「恵まれた」中にいても、何か寂しさを感じることがしばしぱありました

言わんとしていらっしゃることがとても伝わってきます。
私もかつては同じでした。

私自身が十字架の死と復活の実際へと導かれ、いのちへと移されることなくして、兄弟姉妹との真の交わりはありえないことを深く思わされます。

キリストとの深い十字架の交わり、ただ主が導いて至らせてくださいますように。



| candy | 2010/05/21 12:08 AM |

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