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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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霊的盲目
 

今日の病根

今日の世界情勢を熟考する時、
私たちは霊的盲目という広く行き渡った病に
深く印象づけられて圧倒されてしまいます。

それは今日の病根です。
「世界を苦しめている問題の、
すべてではないにしても大部分のものは、
盲目というこの源まで辿ることができる」
と言ったとしても、大きな間違いではないでしょう。

大衆は盲目です。これに疑いはありません。
比類ない啓蒙の時代のはずなのに、大衆は盲目です。
指導者たちも盲目です。
盲人たちの盲目の指導者です。
しかし、主の民にもほぼ同じことが言えます。
ごく一般的に言って、

クリスチャンたちは今日あまりにも盲目です。


タルソのサウロ

彼が盲目だったことに疑問の余地はありません。
しかし彼が盲目だったのは、
まさに宗教的熱心さから出ていたことであり、
神に対する熱心さ、伝統に対する熱心さ、
歴史的宗教に対する熱心さ、
宗教界で確立・受容されていた事柄に対する
熱心さから出ていました。

それは盲目的熱心さであり、後に彼はそれに関して、
「私はかつては、ナザレのイエスの名に逆らって、
多くのことを行わなければならないと思っていました」
(使徒26:9)
と言わなければなりませんでした。

「行わなければならないと思っていました」。
「神を喜ばせるために、
また自分の良心を満足させるために、
行わなければならない」
と熱烈に思っていたことが、
神に対して、また正義と真理の道に対して、
真っ向から対立していたことがわかった時、
それは何という一大転機だったことでしょう。

何という盲目でしょう!

熱心さは必ずしも正しさの証拠ではありませんし、
正しい道にある証拠でもありません。
彼の事例はまさにこの点に警鐘を鳴らすものです。

熱心さという事それ自体は、
人を盲目にするものかもしれません。
伝統への愛着は、盲目であるかもしれません。

パウロの生涯で目は重要な地位を占めていたと思います。
彼の霊の目が開かれた時、
彼の天然の目は見えなくされました。
これを比喩として用いることができます。

天然の目で宗教的に見すぎることは、
自分がどれほど盲目かを示しているのかもしれません。

ことによると、天然の目が宗教的に見えなくされる時、
私たちは見えるようになるのかもしれませんし、
そうなるまでは何も見えていないのかもしれません。

多くの人々は、たくさんのものを見ているせいで、
また間違った方向を見ているせいで、真に見えていません。

彼らは天然の感覚、
理性や知性や教養といった天然の器官で見ており、
そうしたものがことごとく邪魔しています。

パウロの事例からわかるように、
真に見えるようになるには、
見えなくされることも時には必要です。

主の指がヤコブの上にしるしを残したように、
それは明らかに彼のその後の人生の間、
彼の上にしるしを残しました。彼はガラテヤへ行き、
ガラテヤ人への手紙を書きました。
「私はあなたたちのために証ししますが、
あなたたちはもしできることなら、
自分の目をえぐり出して私に与えたい
とさえ思ったのです」(ガラテヤ4:15)
と彼が言ったことは覚えておられるでしょう。

これは彼らが彼の苦しみに気づいたこと、
ダマスコへの道以来続いてきたこのしるしに気づいたこと、
それで、「もしできることなら、
彼のために自分の目をえぐり出したい」
と彼に同情したことを意味します。

しかし、ダマスコへの路上で
彼の天然の目が見えなくされた時に臨んだ使命は、

まったく目に関するものでした。
これは素晴らしいことです。彼は盲目になり、
人々が彼の手を引いてダマスコへ連れて行きましたが、

主はその時、
「私は彼らの目を開くためにあなたを遣わす。
それは彼らが暗闇から光へ、
サタンの力から神へ立ち返るためである」
と言われました。




| T. オースチン-スパークス | 07:33 | comments(0) | trackbacks(0) |