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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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敵が敵でなくなるとき
    本当の愛かどうかを試すもの

   それは敵を赦せるかどうかです。


   まさにイエスがそうであったように(ルカ23:34)、私たちも試されます。キリスト者の最初の殉教者ステファノがそうです。彼は石打ちの刑を受けた時、主イエスに倣ってこう祈りました

 「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)

 もちろんこれは容易ではありません

 私たちはもっぱら、注目、情愛、影響力や権利を渇望し続けます。神に愛されているという御言葉を聞いたあとでさえそうなのです。

 これらの欲求は、心の傷から生じたものであり、決して満たされることがないかのようです

 それらの傷が生じた理由を探ってみると、それが他者から、しかも同じ欲求を抱えた人たちからのものであることに気づきます。

まるである世代から次の世代へと心の傷と欲求による鎖で繋がっているかのようです。

 傷と欲求との長く連なった鎖が、遠い過去から未来に向かって伸びているかのように見えます。

 こうしたイメージは、

 「私を愛してくれるなら、あなたを愛します。あなたがくれるなら、私も上げます。同じ量をくれるなら、同じだけ上げます。」というように、愛というものをまるで機械的な取引のように思わせます。

 自分は何者かということに、もっとも深い納得を与えてくれるものを他人の中に捜し求め続ける限り、結局はこの世界を2つに分断してしまいます。

 自分のためになる人たちか反対する人たちか、自分を受け入れてくれる人たちか、拒否する人たちか〜つまり、友か敵かというように。


 福音こそは神の憐れみを明らかにすることによって、心の傷と欲求からなる鎖から私たちを解き放ってくれるものです。

 その憐れみは、私たちの負った傷によって膨れ上がる欲求からでる反応より、大きな影響を与えます。

 それは、あらゆる人間的な受容や拒絶にまさる、神による受容というつながりを提供してくれるからです。その根源的な愛は、全てを包み込んでいます。

 そこには友と同様に敵を愛する力があり、それを私たちに可能にさせる力があります。

 この愛こそ、わたしたちを「いと高き方」の息子、娘にする愛です。

そして、その「いと高き方」は恩を知らない者にも、悪人にも情け深」く、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせて」下さるお方なのです。
 
 わたしたちの愛が、神の愛によって増し加わる時、もはや人々を、愛するに値する人々とそうでない人々に分けなくなります。

 そのような愛は、自分たちに向けられている同じ愛で、敵対者もまた愛されていることを見させてくれるからです。

 そこではもはや自分は他者より優れているとか、他者と対決すべきだと決め付ける必要がなくなります。

 キリストが愛したように愛するとは、友と敵とを区別しない神聖な愛に加わることを意味するのです。


 ある意味で、敵が敵であるのは、心の中で彼らを神の愛から締め出すときに成立するのでしょう。

  
 「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深いものとなりなさい。人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることはない。人を罪びとだと決めるな。そうすれば、あなた方も罪びとだと決められることはない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」

   ルカ6:36〜


 
| ヘンリーJ.M.ナウエン | 09:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
第二の幼児期へ

    


 
    私たちは恐れに満ちた人々です。対立、戦争、不確かな未来、病気、そして何よりも死を恐れます。

この恐れは私たちの自由を奪い、
脅迫や約束によって社会が
私たちを巧みに操る力を与えてしまいます。

私たちを愛してくださるお方に信頼し、恐れを乗り越える時、
抑圧や迫害、そして死さえも
私たちの自由を奪うことはできません。

一旦この深い内的な知識
〜それは頭よりも心の知識〜
に到達したとき、すなわち私たちは愛によって生まれ、
愛のうちに死に、
私たちの存在そのものが愛に深く根ざしている
ということを認識したとき、

すべての悪、病気、死は究極的に力を失うと同時に、
痛みは伴うが希望に満ちた
真実の※聖なる幼児期を思い出させてくれるのです。

 使徒パウロは、神の子の完全な自由の経験を
次のように表現しています。

 「わたしは確信しています。死も、いのちも、天使も、
支配するものも、現在のものも、未来のものも、
力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、
他のどんな被造物も
わたしたちの主キリスト・イエスによって示された
神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

          ローマ8:38,39

  
 ※聖なる幼児期   新しい依存性 完全なる神への依存

  「人生最初の20数年間、わたしたちは両親や先生や友達に依存しています。さらに40年後には、前にもまして人に頼るようになります。若ければ若いほど、生きるために多くの人を必要とします。年を取れば年を取るほど、やはり生きるためにもっと多くの人を必要とします。人生というのは、依存から依存へと生きるものです。
それは、かいばおけから十字架に至るたびをすごしたイエスを通して神が示された神秘です。周りのすべての人に完全に依存する状況に生まれたイエスは、他人の行為や、決定の犠牲者として死んでいきました。彼の旅路は、第一から第二の幼児期へと移行するものでした。幼児として生まれ、幼児として死んだイエスは、私たちが自分の幼児期を何度も取りもどし、イエスと同じように、私たちも死を新しい生命に変えられるようにと生きてくださったのです。・・・・」

| ヘンリーJ.M.ナウエン | 22:42 | comments(0) | trackbacks(0) |