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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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力あるとりなし
 
   すべての祈りと願いを用いて、

どんなときにも御霊によって祈りなさい。エペソ6:18

 

私たちがとりなしの祈りをする時に、神への私たちの従順が、考えていた以上に、他の人たちをそこなっているのに気づくことがある。

神が、全く違った方法でその人を引き上げようとしておられる時に、私たちは安っぽい同情をもってとりなしの祈りをする。ここに問題の原因となるものがある。私たちが、人々に対する神の関心と一つになることをひかえ、人間的な同情心でとりなす時、神との生きた関係は失われていく。そして私たちの同情心や人々に対する評価が前面に押し出る。これは、神への不当な干渉にほかならないのではないだろうか。

神に対する完全な確信がなければ、力あるとりなしをすることはできない。私たちと神との関係をそこなう最大のものは、個人的な同情や偏見である。

神との一致、これがとりなしの鍵である。私たちが同情心を起した時に、私たちの神との一致はなくなる。自分自身と他人への同情心が、私たちに「そのようなことは起ってはならない」と言わせるからである。その時にすぐさま、私たちの神との生きた関係はだめになる。

とりなしの祈りが、あわれな自分自身に対する祈りに取って代る時がある。とりなしをする時、自分自身のことを、締め出さなければならない。そして、人々に対する神の関心と全く一つになるのである。

オズワルド・チェンバース
| オズワルド・チャンバース | 08:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
facebookより 降誕の意義
 

見よ。処女がみごもっている。

そして男の子を産み、

その名を『インマヌエル』と名づける。イザヤ7:14

...

「生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」(ルカ1:35)。イエス・キリストは、この世へと降誕された。この世から生まれたのではない。彼は、歴史の中から出て来たのではなく、外側から歴史の中へ入られた。彼は、神になった人ではなく、受肉された神、外側から来られた方である。彼はもっとも高く、もっともきよい方であられる。この方が、もっとも低い門を通って、歴史の中に入って来られた。これが、私たちの主のご降誕である。

「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」(ガラテヤ4:19)私たちの主が、外側から人間の歴史の中に入ってこられたように、彼は私たちのうちに入ってこられる。この私が、神の御子にとっての「ベツレヘム」になることを、快く認めたか。上から生れるのでなければ、神の国の領土に会入ることはできない。「あなたがたは新しく生れなければならない。」このみことばは、命令ではない。しかし、土台となるべき事実である。新しく生れるとは、キリストが私のうちに形造られるために、自分自身を完全に神に明け渡すことである。この明け渡しがなされた瞬間に、私のうちにキリストが形造られる。そして、私を通して彼の性質が徐々に働き始める。

神は肉において現れた。イエス・キリストの贖いによって、この奥義が、あなたや私に可能になったのである。

オズワルド・チェンバース

| オズワルド・チャンバース | 01:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
キリスト者の完全 facebookより
私は、すでに得たのでもなく、

すでに完全にされているのでもありません。ピリピ3:12

神は、完璧になることを私たちに望んでおられるという考えは、落し穴である。これは、ホーリネスを主張する考えの陥りやすい点である。個人のホーリネスについて、このように考えるなら、あなたの生活における熱心な試みは、もう神のためのものではない。「病気になることは、神のみこころではない」とあなたは言う。御子に傷を負わせることが、神のみこころであったのなら、どうして神はあなたにも傷を負わせないことがあるだろうか。大切なことは、聖徒はいかにあるべきかではない。あなたのイエス・キリストに対する真実で生きた関係、すなわち、病の中にあろうとなかろうと、あなたはすべてを彼にゆだねていることである。

...

キリスト者の完全とは、人間的な完全ではない。それは、矛盾に満ちた人生のただ中にあって示される、神との関係の完全性を意味する。キリストの召しに従う時、まず驚くことは、矛盾した世の中において召命に応じることは、困難であるということである。第二の驚きは、他の人たちが完全な生活を送っているかのように思えることである。実際、このような生き方は、神を不要とし、人間の努力と専心によって、神の求める標準に達しようとする。しかし堕落した世界にあっては、実現できるはずがない。

私は、神との完全ありがとうございます。関係のうちに生きるよう、召されている。そして私の生涯は、私自身への賞賛ではなく、神ご自身への渇きを他の人々に起させるためにある。神は私を、陳列棚の標本にするために、完全にされるのではない。神は私を、ご自分が用いることのできる場へ導かれる。神に、望みどおりのことをしていただこう。

オズワルド・チェンバース

| オズワルド・チャンバース | 16:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
ぶどう酒の出来るまで facebookより
 

私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。

そして、キリストのからだのために、私の身をもって、

キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。
   コロサイ1:24

私たちは、自分勝手な献身をもって召命を作りだす。
しかし、私たちが神と正しい関係を持った時、神はそれらのものをすべて払いのけ、驚くほどの痛みをもって私たちを締めつけられる。
そして光がさすように、この痛みの意味が私たちに明らかにされ、私たちは次のように言う。「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と。

この召命は聖化とは関係がない。
しかしそれは、裂かれたパンとぶどう酒と関係がある。
私たちを押しつぶそうとする神の指をしりぞけるとしたら、神は私たちをぶどう酒に変えることはできない。
神は自らの指をもって、私たちを裂かれたパンとし、注がれたぶどう酒とされることを望む。
しかし、神が私たちの嫌いな人物や状況を用いて私たちを押しつぶそうとされる時、私たちは抵抗するが、私たちには、自分の殉教の舞台を勝手に選ぶことはできない。
私たちがぶどう酒となるためには、まず押しつぶされなければならない。ぶどうの実をそのまま飲むことはできないからである。

あなたを押しつぶすために神はどの指を用いられるだろうか。
あなたは、大理石のように硬いだろうか。
それとも押しつぶされるのが辛くて逃げ出したいと思っているだろうか。あるいは、まだ熟していないため、押しつぶされて苦い液を出しているだろうか。
また、御手によってパンが裂かれる前に、私たちは神に合されなければならない。まず神との正しい関係を保ち、みこころのままをなしていただこう。
そうすればあなたは、他の神の子供たちを祝福するパンとなり、ぶどう酒となる。

オズワルド・チェンバース

| オズワルド・チャンバース | 13:08 | comments(4) | trackbacks(0) |
服従させるべきもの facebook より
 

すべてのはかりごとを

とりこにしてキリストに

服従させなさい。競灰螢鵐10:5

...

何と多くのキリスト教の働きが、十分な吟味もされず、単なる思いつきによって進められていることだろうか。

私たちの主は、すべて
の計画を御父のみこころにそって立てられた。御父のみこころを離れた、自分勝手な思いつきによる行動といったものは、ただのひとつもなかった。
「子は、父がしておられることを見て行う以外には
、自分から何事も行うことができません。」
 それにひきかえ、私た
ちの場合はどうか。私たちは、いきいきとした霊的な経験があっても、思いつきのままに生れた多くの計画を、キリストに服従させないで、ただちに実行に移している。

実際的な働きが過度に強調されている今日、すべての計画を「とりこ」にしている聖徒たちは、非難され、逆に神や魂に対して熱心ではないと言われる。
 真の熱心は、神に従うことの中に見出されるの
であって、神への奉仕の中に見出されるのではない。

 信じられない
ことだが、聖徒たちはすべての計画を「とりこ」にすることなく、訓練によって霊的にされていない生れながらの性質の命じるままに、神のための働きに携わっている。
 人は救いにおいてイエス・キリ
ストに従うだけではなく、神、世、罪、悪魔についてもイエス・キリストの考えに従うべきである。
 このことは、心の一新によって、
自分自身を変える責任が私たちにあることを意味しているのではないだろうか。

オズワルド・チェンバース

| オズワルド・チャンバース | 08:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
十字架と祈り  facebookより
 

その日には、あなたがたは

わたしの名によって

求めるのです。ヨハネ16:26

...

私たちは十字架というものを、私たちが見上げていくべき目標と考えやすい。十字架とは、私たちにとってただ一つのことを意味する。それは、私たちを主イエス・キリストに完全に結び付ける。そしてこの一致は、祈りのうちにもっとも効果的に実現される。

「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる。」それなのになぜ求めるのか。祈りとは、神からの答えを受け取るためのものではない。それは、神との完全な一致の場である。答が欲しいために祈るとしたら、私たちはいつしか神に向かって小言を言うようになるだろう。

祈りの答えはつねに与えられる。しかし、わたしの期待どおりに与えられるとは限らない。私たちが霊的にやきもきするのは、祈りにおいて主と完全に一致することを拒んでいるからである。私たちは神が祈りに答えられるということをあかしするために、この地上に置かれているのではない。神の恵みの生きた証人になるためである

「わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。・・・父ご自身があなたがたを愛しておられるからです」とある。私たちは、この主の祈りの生涯に見られるような神との親密さに到達したことがあるだろうか。私たちの主の犠牲的な生涯が私たちのうちに生きているだろうか。

祈りが答えられていないと思う時、人のせいにしてはならない。それはサタンのわなである。しかし、心を静めて待つなら、あなたは祈りが答えられないことの理由を見出すだろう。

オズワルド・チェンバース


あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。

あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
ヨハネ16:23、24

| オズワルド・チャンバース | 23:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
この世で最も繊細な働き 
 

『花婿の友人。』ヨハネ3:29


 性質の良さとか心の聖さが人の注目を得るようであってはいけない。それらは単に人々の目をイエス・キリストに向けさせる磁石である。

もし私の聖さが人々の目を主に向かわせていないなら、それは正しい意味でのホーリネスではない。過度な愛着を持たせて、たましいをわき道にそらせてしまう結果となる。

もしイエス・キリストを現わさず、キリストがしてくださったことだけを人に示すなら、すばらしい聖徒も信仰の妨げとなる。「あの人はなんというすばらしい性質の持ち主だろう」という印象だけを残す。

花婿の友人になるとはこういうことを意味していない。キリストではなく自分が盛んになっているのである。
 
花婿との友情と誠実を保つためには、イエスとの生きた心の交わりを他のなによりも大切にすることにさらなる注意を払わねばならない。

キリストに従うことよりも。時にはなにも従う必要のない時もある。交わりをさまたげるものが何もないことを確認するために、イエス・キリストとの生きた交わりを保つことだけが必要だという時がある。

私たちが従わなければならないのは時たまである。

危機が生じると神のみ意志を見出さねばならない。しかし、人生のほとんどは意識的な従順ではなく、花婿の友人としての関係を保つということにある。

キリスト者としての奉仕がイエス・キリストに集中するのを妨げている場合がある。花婿の友人になる代わりに、神のみ意志をかってに考えだして、神の武器を用いて神のみ意志と反対のことをしている場合さえもある。

  オズワルド・チャンバース   みどりのまきばより

    

| オズワルド・チャンバース | 23:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
再生の力 
『 神が・・・御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、』
ガラテヤ1:15,16

 

イエス・キリストが私を再生しようとされるとき、キリストはいかなる問題に直面されるのだろうか。

私は自分でどうすることもできなかった罪の遺産を受け継いでいる。

つまり、私は聖くないし、将来聖くなる見通しもない。

しかも、もしイエス・キリストのできることが、
「聖くなりなさい」と私に告げることだけであるなら、
その教えはただ絶望を植え付けるだけである。

しかし、もしキリストが「再生させるお方」、
つまりご自身の聖なる性質を私の中に入れることのできるお方であるなら、「聖くあらねばならない」と言われる意図を理解できるようになる。

「贖い」とはイエス・キリストがご自身の中にある性質をいかなる人にも入れることができることを意味するのであり、
イエスが与えるすべての基準はその性質に根ざしている。

キリストの教えは私たちの中に入れてくださるご自身のいのちのためにある。

私の側でなすべき道徳的行為とは、神がイエス・キリストの十字架でなされた罪に対する審判に同意することである。


 人が霊的渇きに打たれるとき、神がその人のたましいの中に聖霊を注ぎ、「キリストがあなたがたの中に形造られるまで」その人のたましいを神の御子のみ霊によって奮い立たす、というのが再生に関する新約聖書の教えである。

私が全く新しいいのちを生きることができるために神が私の中に新しい性質を入れることができるということが、「贖い」という心の奇跡である。

私が飢え渇きでどうしょうもなくなり、自分の限界を知るようになると、「あなたは幸いです」とイエスが言われる。

しかし、私はそこに行きつかねばならない。

私がその必要性を意識しなくては、神が道徳的に責任ある人としての私の中にイエス・キリストのご性質を入れることはできない。

 
 ちょうど一人の人を通して人間に罪の性質が入ったように、
別な「人」(キリスト)を通して聖霊が人間の中に入られた。

そういう訳で、「贖い」とは私が罪の遺産から救い出され、イエス・キリストを通して汚れなき遺産、つまり聖霊を受けることができるという意味である。


  http://www.midorinomakiba.com/?p=265 

 チェンバース霊想集より

| オズワルド・チャンバース | 07:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
気ままに対する警告
 

『悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。』ルカ10:20

 
キリストの働き人にとって罠とは
この世や罪というものではなくて、霊的軽率さである。


つまり、私たちの
生きている宗教的時代の時流に乗って、
霊的な成功を収めたいという思いである。


神の承認以外決して何物をも求めてはいけない。
行って「門の外で苦しみを受けなさい。」


イエスは弟子たちに
奉仕において成功を収める事を喜ぶのではないと言われた。
にもかかわらず、
それこそほとんどの者が喜ぶ一事であるように見える。


私たちは商業主義的な考えを抱いている。
「こんなに沢山の人が救われ、きよめられたのだから、
やれやれこれで大丈夫だ」と言う。


私たちの仕事は神の恵みが
土台を据えられた所から始まる。


私たちの仕事はたましいを救う事ではなくて、
たましいをキリストの弟子とすることである。


救いと聖めとは神の一方的な恵みによって成就される。
神の弟子としての私たちの仕事は
人々が完全に神にささげられた者となるまで、
人々を訓練することである。


神に完全にささげられた一人のたましいは、
聖霊によって目覚めさせられただけの
百人のたましいよりも神にとっては価値がある。


神の働き人として、
私たちは自分たちに霊的に似た人を生み出さねばならない。


神が私たちを働き人として承認してくださるのは
まさにその点である。


神は私たちを恵みによって
人生の高みに引き上げてくださる。
だから私たちには他の人々を
そのレベルにまで育て上げる責任がある。

 

働き人が神の中でキリストと
隠れたところで交わりの生活をもって生きていなければ、
神の霊がその内に宿る人ではなくて、
気短いさしずがましい人になる。


大抵の人はさしずがましい人である。
他の人々にさしずしたり、会合でさしずしたりする。


イエスは決してそのように人々にさしずしない。
主がご自分の弟子になるように言われた時、
いつも「もし」という前置きを付けられた。
決して「しなければならない」という強い主張はされなかった。


弟子になるということは
いつも選択が与えられているということである。

| オズワルド・チャンバース | 21:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
直接の交わり


  イエスから私は何を隠そうとしているのか。
隠すのではなくそれが確かに
そこにあることを自分に認め、
またイエスの顧みを
必要としていることを認めるならば、
私の人生はどのように変わるだろうか。
今日私はそれを告白しようとしているのか。
それともためらい続けるのか。




 疑問に襲われたときの解決は、

新しくとりなしの祈りを捧げることです。

人生のさまざまな現実の問題にぶつかって、

どうしたらいいのかわからなくなるのはなぜかというと、

それは、十字架の主イエス・キリストと

顔と顔を合わせてお会いするという

直接の交わりを失っているからです。



 私たち自身のたましいの奥深い所で

イエス・キリストと出会うことだけを考える、

その場所に私たちは戻らなければなりません。

キリストは私たちのたましいの

一番深いところを探る方だからです。

 
 何かを祈り求めるときは、

ただちに3つのことがテストされます。

祈りの単純さと、愚直さと、そして神の確かさです。


「祈りの時」を変える黙想 より

| オズワルド・チャンバース | 20:54 | comments(0) | trackbacks(0) |