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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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人々に識別させる力
 

 「彼らは私の民を教えて、汚れたものと、
清いものとを識別させなければならない」

           エゼキエル44:23



ある人がかつてこのように言いました。

「あなたの内におられる(神の)霊は、
キリストをあなたに対して実際とされる。

また、あなたの上におられる(神の)霊は、
キリストを他の人々に対して実際とされる」。

これがまさに、内庭での生活の効果です。

(神の)霊について知っている人々の中には、
「自分が見ているものを他の人々にも見せよう」として、
空しく努力している人が大勢います。

彼らには、神の御旨のさらに深い啓示が必要です。

神は彼らの中におられ、
彼らは「キリストと共に神の中に隠されて」います。

このことを聖霊によって実際に経験する時、
彼らは「人々に識別させる」ことのできる者になります。


| ジェシー・ペン-ルイス | 06:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
彼の死に同形化される
 

「兄弟たちよ、アジアで私たちにふりかかった艱難について、あなたがたに知らずにいてもらいたくありません。私たちは極度に、耐えられないほどに圧迫されて、生きる望みさえ失ったほどでした。実に、私たちは自ら、自分自身のうちに死という答えを持ちました。それは、私たちが自分自身に信頼するのではなく、死人をよみがえらせる神に信頼するためでした」      
     
    2コリント1:8,9


使徒パウロは、耐えられないほど
極度に圧迫」され、
生きる望みさえ失った
ほどだった、と言っています。
これは土の器に対する重圧です。
どこに私たちは天のいのちの現れを見るでしょう?

「私たちの慰めもまた、キリストを通してあふれています」。
苦しみや圧迫と共に天の慰めが与えられました。
その慰めにより、
彼は艱難の中で勝利することができました。


それが天の慰めであることは、
どのように現されたのでしょう?
もう一度読みましょう。


私たちを慰めて下さる方(中略)それは、私たち自身が、神によって慰められているその慰めを通して、あらゆる艱難の中にいる人たちを慰めることができるためです」。



この言葉は、パウロの私心のなさを
なんと表していることでしょう!
極度の困難の時に、
彼は自分自身を忘れ、自分の苦しみを通して、
人々を慰めるのにいっそうふさわしい者に
なれることを喜びました。

「私たちが艱難に遭うなら、それはあなたがたの慰めのためです。(中略)私たちが慰められるなら、それはあなたがたの慰めのためです。その慰めは、私たちが受けているのと同じ苦難を耐え忍ぶことの中で働くのです」

と彼はコリント人に書いています。

私たちは、あらゆる面で砕かれている心に対して
天の油の流れの経路となることよりも、
キリストのために働くことを考えているのでしょうか?


私たちはキリストの復活の力を知ることを願っています。
その実際生活における現れを、
私たちはこの一つの器にかいま見ます。
この器は慰めを注ぎ出し、
自分に臨むあらゆる苦難の中で喜びます。
苦難は人々を理解し、助けることができるようにします。
なぜなら、もし自分自身で苦しんだことがないなら、
どうして私たちは人々を理解し、助けることができるでしょう?


主は、たとえ外側のすべてが繁栄しているように見える時でも、
私たちを彼の苦難の交わりの中に導く
素晴らしい方法を持っておられます。
もっとも繁栄しているように見える生活でも、
その背後にはもっとも深い苦難が潜んでいる場合があります。
主はどうにかして、
私たちに苦難の交わりを教えなければなりません。
さもないと、私たちはたいして役に立つことができません。
私たちはあまりにも、
喜びで満たされる側にとどまっています。
しかし、私たちの回りには心の砕かれた人がいること、
もし彼らに対する神の慰めの経路になりたいのなら、
経験的に苦難について学ばなければならないことを、
忘れないようにしましょう。


パウロは9節で、
なぜ神がこのすべての圧迫を許されたのか、
私たちに告げます。

「私は、それは私自身の中の死である、
という答えを持ちました」。
彼はまるでこう言っているようです、

「主は私を、
何をする力も持たない所に
連れて行かなければなりませんでした。
私は、この完全な弱さと無力さの中から、
死人をよみがえらせる神に
頼らなければなりませんでした」

私たちは完全な弱さの場所、
私たち自身の能力、
「忍耐力」さえも尽きる場所に、
連れて行かれたことがあるでしょうか?

主は時々、
私たちの幾人かが持っている
途方もない忍耐力を取り去ることにより、
以前ならまったく不可能だったような方法で、
私たちを通して他の人々を砕くことができます。


神が私たちを通して他の人々を砕くことができるよう、
神に私たちを砕いていただくことは、
大いなることです。

砕かれていない殻の下に
自分のもっとも深い感情を隠す力を失ってしまったことを
悲しんでいる人が、私たちの間にいるでしょうか?
私たちは自分の部屋に一人でいる時、
主の御前で泣き崩れることを気にしないかもしれません。
そして、微笑みとともに出てきて、
「すべて大丈夫です!」と言うことを、
栄えある勝利だと思うかもしれません。

しかし土の器は、中心にあるいのちが破れ目から流れ出て、
人々を主の足もとで砕くことができるよう、
砕かれなければなりません


最も麗しい生活を送っているのに、
決してあなたの心に触れたことのない人々を、
あなたは思い浮かべることができるのではないでしょうか?
彼らの経験はあなたをはるかに上回っているようですが、
彼らに会う時、あなたの目に涙は浮かばず、
あなたの心は溶かされません。
なぜでしょう?
それは、内側にあるいのちが
本当に自然に人々に流れることができる前に、
なおも砕かれる必要があるからです。


神はどうして私たちを砕く出来事が
私たちに臨むのをお許しになるのだろう、
と私たちは不思議に思います。
そして、「元気を取り戻す」力を失います。

私たちはパウロの生涯に、
彼がいかに成熟し、深く、
他人に対して見事なまでに優しかったか
見ることができるのではないでしょうか。

これは彼の祈りがかなえられて、
彼がキリストの苦難の交わりを知ることを授かり、
彼の死に同形化されたからです。

| ジェシー・ペン-ルイス | 06:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
「十字架と解放」より
 

十字架を負うことについて話すとき、私たちは何を言わんとしているでしょう?「だれでも私について来たいなら、自分を否み、自分の十字架を負って、私に従ってきなさい」と話した時、主イエスは十字架への途上にありました。

弟子たちに話す時、主は至極身近な例を使われました。弟子たちは、エルサレムの犯罪者たちが十字架を担い、城壁の外で十字架にかけられて死ぬのを当時見ていました。主イエスが「自分の十字架を負いなさい」と言われた時、彼は弟子たちにこう言っているようでした、「時が来て、私が十字架を担い、それにかけられて死ぬのをあなたがたが見る時、あなたがたの道も同じでなければならないことを思い出しなさい。あなたがたも十字架を負い、私のように、そして私と共に、自分のいのちを捨て、十字架上で死ななければなりません」


私たちはささやかな困難をすべて「十字架」と呼んできましたが、真に十字架を負うことはもっとそれ以上のことを意味します。それは、キリストの十字架を負うことに同意して、彼がそれに対して死なれたすべてのものに対して彼と共に死ぬことを意味します。それは、彼の死を私たちの死として受け取ること、彼に対して死が持っていた意義のすべてに同意すること、十字架上で死が彼から分離したすべてのものから、彼の死は私たちを分離するであろうことを意味します。そうです、真に十字架を負うことはあまりにも多くを意味するため、私たちは一生の間その深さを見いだし続けるでしょう。

さらに、私たちは彼の十字架を負い、彼が死なれた時に彼と一つにされたことを信じるだけでなく、彼の死の力に明け渡します。それは、彼の死の力が日ごとにますます深く私たちの中に働いて、ついには私たちの存在のすべての部分が真に彼に同形化されるためです。


キリストの愛が私たちに押し迫っています。なぜなら、私たちはこう考えているからです。ひとりの方がすべての人のために死なれたからには、すべての人が死んだのです


彼の死の恩恵の対象である人はみな、彼と共に死にました。これはなんとはっきり書かれているのでしょう。これは私たちのうちにある神のいのちの土台です。この基礎をはっきりした確かなものにしないなら、私たちは屋根から建てることになるでしょう。古いいのちの上に新しいいのちを加えようとしている神の子供たちが何人いるでしょう?新しいいのちのための場所を設けるために、古いいのちは十字架に行かなければならないことを、彼らは見ていません。悲しいことですが、飾られて新しいいのちのように装われた、大量の古いいのちによって生きることは可能です。これは、「新しいいのち」という表現を実際に利用している古いいのちです


古い生活方法に属すると神から示されたものはなんでも、私たちは喜んで十字架に明け渡すでしょうか?ただちに彼を受け入れましょう。生きているという名を持っているにもかかわらず、死んだ働きを産み出してしまうことほど、重大なことがあるでしょうか?ああ、これは聖潔という名の下で可能です。キリストと共に自分から進んで十字架上に身を置きさえするなら、そして十字架が私たちの間で真に実際のものとなるよう、自分から進んでキリストに働いてもらいさえするなら、神のいのちと愛の奔流が内側に流れ込み、私たちの存在すべてを満たすでしょう。


しかし、もう一度読みましょう、「すべての人が死んだのです。そして、彼がすべての人のために死なれたのは、生きている者が……!」。神に感謝します。聖書中、死と復活は決して分けられていません。「彼がすべての人のために死なれたのは、生きている者が、もはや自分自身にではなく、彼に生きるためです」。これはさいわいな結果です!今から後、自分自身に生きるかわりに、神に生きます。今から後、朝も昼も夜も、神に生きます。こうして私たちは日々、信仰の足でこの二つを踏みしめて歩みます。「主よ、私は古いいのちを十字架に渡します。そして、自分のいのちのかわりに、あなたのいのちを取ります」


私たちの多くは、かつてこの立場を取りました。しかし、毎瞬このように行動しなかったため、それを失ってしまいました。一度だけでは不十分なことを私たちは忘れています。「イエスのいのちが現されるために、いつもイエスの死を身に帯びて」いなければなりません。私たちは、十字架の基礎をはっきりとした確かなものに保たなければなりません。最初から、二つの面が一緒でなければなりません。この二つの面とは、死から出たいのちと、全行程を通していのちの土台である死です。


キリストと共に自分の場所に着いた後、私たちは断固として古いいのちを死に渡さなければなりません。この時、悪魔は言うでしょう、「あなたは、自分は十字架につけられた、と言わなかったでしょうか?それでは、あれやこれはどういうことでしょう?それは自己ではないのでしょうか?」その時、私たちは適切かつ率直に言わなければなりません、「私はそれをすべて十字架に渡しました。そして私は常に、『私はキリストと共に死んだ』という神の御言葉の土台の上に立ちます。今、これは私の自由意志であり、選択です。私はこの自己の現れを死に渡し、それからの解放を求めます」


これは一つの理論ではありません。これは証明済みです。毎瞬この土台に基づいて進むなら、私たちは常に彼の死に同形化されるでしょう。なぜならあなたは、彼の死は自分のものであるという信仰の立場を取らなければならないだけでなく、実際に彼の死にまったく同形化されなければならないからです。このように据えられた土台の上に立つ時、イエスの霊は毎日あなたを満たすでしょう。小羊の霊があなたを通してますます現されるでしょう。そしてあなたは、かつて自分自身のために戦った場所で、今やイエスの霊が治められるのを見て驚くでしょう。


これが神の解放の道です。これが、私たちを自己から引き上げて新しい領域にもたらす神の道であり、実際生活においてイエスの霊といのちをさらに知るよう私たちを導く神の道です。


「キリスト・イエスの中にバプテスマされた人はみな、彼の死の中にバプテスマされたことを、あなたがたは知らないのですか?」(ローマ6:3)


彼が御光で内側を照らし、私たちの姿を私たちに見せてカルバリに向かう時、それは大いなる救いではないでしょうか?キリストの死のゆえに、神に感謝します。私は彼の死の中に植えられた、と神は言われます。「それは、キリストが死者の中からよみがえられたように、私たちがいのちの新しさの中を歩むためです」。私たちは、「キリストは私たちのために呪われた者となり、私たち呪われた者たちを十字架に連れて行って下さった」と告げる神の御言葉に専念するよりも、あまりにも見なすことに専念してきました。


どうか主が、彼の十字架を知る更に深い知識の中に私たちを導き、彼のいのちを現すための場所をさらに広げて下さいますように。これを少ししか知らないのに、「自分はこれをすべて知っている!」と思い込む過ちを、私たちは犯していますあなたは確信を持って「私はキリストと共に十字架につけられました」と言うことができます。しかし、その意味の深さをまだ知らないことも確かです。


ただこれだけが、神の光と愛が私たちの中に流れ込むための唯一の土台です。キリストの死が聖霊によって私たちの内に働くことに同意する時だけ、彼のいのちの奔流はその水路に立ちはだかるすべてのものを洗い流すことができます。「あなたがたから生ける水の川々が流れ出るでしょう」


人々はキリストの愛を待ち望んでいます。私たちはそれについて話し、「私はあなたを愛しています!」と言います。しかし、その愛はなんと冷たく、なんと現実からかけ離れているのでしょう。自然に無意識のうちに自分を費やし尽くさせる愛を、私たちは必要としています。世界はそれを欲しています。私たちは中に油が入っている石膏の壺のようです。壺は砕かれる必要があります!

| ジェシー・ペン-ルイス | 23:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
「開かれた天」より

創世記28章はベテルにおけるヤコブを描いています。
彼が石を枕にして堅い地面の上に寝ていた時、
地と天の間にある一つのはしごが彼に啓示され、
神との交わりが開かれました。


これは霊的生活の第一段階です。
主は天の故郷から
遠く離れた荒野にいる私たちを見つけて、
はしご、神への道である主イエス・キリストを
私たちに示されます。
主キリストは、

「私は道である……私を通してでなければ、
だれも父のもとに来ることはできない」
(ヨハネ14:6、欄外)と言われました。


創世記32章24節で、私たちはヤコブの人生におけるさらに進んだ段階を見ます。

「ヤコブは一人残された。その場所で、
一人の人が夜明けまで彼と格闘した」


ここで、主がヤコブのところに下って来て、
親密で個人的な取り扱いのために彼に近づかれます。
ベテルで彼ははしごの頂に主を見ましたが、
ここペニエルでは、彼が砕かれた人になるまで、
神の人が彼と格闘しました。
彼の力の筋が触れられました。
そしてその後の全生涯、
彼はこの個人的な神との接触の跡を身に負いました。


私たちは次のように言えるでしょう。
「たしかに私はベテルを知っています。
主に近づく道、
地と天の間のはしごを主が啓示して下さった時のことを、
私は覚えています。
しかし正直に言って、まるで神は上の天にいて、
自分は下のこの地上にいるようである、
というのがこれまでの経験でした」


あなたの「ペニエル」が来るのは今週かもしれません。
神は親密で個人的な取り扱いのために
あなたに近づくかもしれません。
あなたは自分が人々の間で孤独であることを
見いだすかもしれません。
まるで神とあなたしかここにいないかのようです。
あなたは自分の周りで起きていることを
すべて完全に忘れるでしょう。
神はあなたをつかまえて、
あなたの力の筋に触れるでしょう。
あれやこれをしようというあなたの決意に、
神は触れるでしょう。
あなたは自分が砕かれた人になったことを見いだすでしょう。


神の力を持つ「イスラエル」になることができる前に、
私たちは神によって真に砕かれ、
征服されなければなりません。

力を持つことができるのは、
私たちが砕かれて、
神にしがみつく以外何もできない時だけです。
神の多くの子供たちは
「砕かれる」ことについて話しますが、

実際のところ、彼らはとても強いのです。

私たちの弱さに応じて、神の力は私たちの中に、
そして私たちを通して働きます。
神に属すると思っていた当のものこそ、
実は捨てなければならないかもしれないものであることを、
私たちは見いだすかもしれません。

自分が最も強く見える場所こそ最も弱いのかもしれません。

しかし、神だけがこれを私たちに示すことができます

| ジェシー・ペン-ルイス | 07:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
あなたがなすべきこと

 おぉ、神の子供よ、

あなたは十字架上でキリストの中に隠され、

彼のいのちによって彼に結び合わされました。

あなたがなすべきことは、

あなたの意志を常に働かせて選ぶことです。

なぜなら「あなたは服従する相手の奴隷」だからです。

激しい誘惑のとき、

あなたは直ちにあなたの中心へ

すなわち十字架へ逃れなければなりません。

そしてあなたはそこへ導いてくださった方の中に隠れて、

彼にあってあなたがいるべき場所から

連れ出されないようにしなければなりません。

何かがあなたにやってきても、

自分でそれに取り組まないで、

すべて彼(あなたは彼のいのちに与っています)に渡しなさい。

そうするなら、

彼は毎日あなたを解放し保護できることを、

あなたは知るでしょう。

| ジェシー・ペン-ルイス | 00:36 | comments(2) | trackbacks(0) |
十字架でキリストと交わる

 十字架は御霊に導き、御霊はふたたび十字架に戻る
(マーレー)。
ただキリストの死を通してのみ、

人は御霊を受けることができます。

そしてこのように受けた御霊によってのみ、

信者はキリストの死にしっかりと結び合わされ、

復活の主の内住を確かに知り、

「私はキリストと共に十字架につけられた」

と真に言うことができます。

「キリストが私のうちに生きておられます!」。

しかしながら、次のこともまた真実です。

すなわち、

十字架でキリストとさらに深く交わることによってのみ、

私たちは聖霊の豊かさと力を知ることができるのです。

| ジェシー・ペン-ルイス | 08:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
人々に識別させる力

 「あなたの内におられる(神の)霊は、

キリストをあなたに対して実際とされる。

また、あなたの上におられる(神の)霊は、

キリストを他の人々に対して実際とされる」

神の)霊について知っている人々の中には、「自分が見ているものを他の人々にも見せよう」として、空しく努力している人が大勢います。彼らには、神の御旨のさらに深い啓示が必要です。神は彼らの中におられ、彼らは「キリストと共に神の中に隠されて」います。このことを聖霊によって実際に経験する時、彼らは「人々に識別させる」ことのできる者になります。

| ジェシー・ペン-ルイス | 23:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
圧倒的な勝利者
 
「主にあって強く」

あらねばなりません。

 悪魔の策略の一つは、「十字架の弱さ」(2コリント13:3-4)のゆえに、神の子供たちに弱さを受け入れさせることです。しかし「十字架の弱さ」は、人に対する人間的な側面のことです。霊の領域における奮い立たせる言葉は、「強くありなさい!」です。地的な側面では、「私は自分の弱さを誇る」とパウロは言いました[13]。しかし、敵に立ち向かうことにおいては「強くありなさい!」。「今からは強くありなさい!」。「強くあるよう努めなさい」と言っているのではありません。「強くあれ」と言っているのです。神が「………あれ」と語られる時、彼はそのための力を与えます。神が「光あれ」と語られると、そこに光がありました[14]!ですから、神があなたに「………あれ」と語られる時はいつも、「アーメン、私は………です」と言いなさい。すなわち、それはそうなるのです!神は御言葉を語られ、あなたはそれを自分のものとします。そして、あなたがそれを実行する時、それは事実となります。神がそれをなされます。神は「強くあれ!」と言われます。「弱い者に、私は強い!と言わせなさい」[15]。なぜあなたはそのように言わなければならないのでしょうか?それは、霊の領域では、言葉が創造するからです。キリストは言われました、「その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、その通りに成るであろう」[16]。霊の領域では、空しい言葉は一つもありません。あなたの言うことが、その通りに成るのです。ですから、あなたは自分の言葉に注意する必要があります。あなたが「生まれながらの人」[17]として地的な領域を歩いている時、あなたは効力の乏しい言葉を語るかもしれません。しかし、あなたが霊的な領域を歩いているなら、自分の言葉によって自分の信仰を否定しないように、警戒する必要があるでしょう。

 もしあなたが、「神は私に『強くあれ』と言われます。ですから、彼の力によって、

私は強い

のです」と言うなら、力があなたの中にやって来ます。悪魔は霊の領域の法則を知っています。彼はあなたに「ああ、あなたは今日具合が悪いですね」とささやきます。するとあなたは、「私は具合が悪い!」と言ってしまいます。しかし、神は「強くあれ」と語られます。するとあなたは、「信仰により、神にあって私は強い!」と言います。サタンは「あなたは失敗するでしょう」とささやきます。するとあなたは、「私は失敗すると思う」と言ってしまい、自分が本当に「失敗する」のを見いだすことになります。これが霊の領域における法則です。しかし、その領域における言葉の力を理解している人は少ないのです。「弱い者に、私は強い!と言わせなさい

 強くありなさい!あなた自身にあってでしょうか?いいえ。「主にあって」です。それが立場です。それは主の外でではなく、「主の中で」です。「主にあって」立ちなさい。決して他の立場に立たないように注意しなさい。あなたの信仰を


「私はキリストの中にある」

という事実と、「キリストが私の中におられる」という事実の上に置き続けなさい。私は一人で物事を対処するのではありません。私は個人的には弱いですが、キリストは強いのです。私は無力ですが、キリストは全能です。私はキリストにあって強いのです。私は彼の力、彼の活力を持っています。「私は主にあって立ちます!」。神の子供たちの多くがこんなにも「弱い」のは、彼らがキリストにある自分たちの立場を忘れ、自分たちが「キリストと共に神の中にある」ことを忘れているからです。あなたが彼らを戦いにおいて無防備な場所に置くなら、彼らは逃げ去ってしまいます。あなたは彼らに、祈りによって征服しなければならない事柄について告げることができません。なぜなら彼らはおびえきってしまっているからです。神が持っておられるのが、こんなにも弱い教会――罪やサタンとの戦いにおいて弱く、この世に対する姿勢において弱い教会――であるとは、とんでもないことです。それはすべて、教会が十字架の内なるメッセージを学んでこなかったためです。

 
その大能の力」。この御言葉を用いて地獄のライオンを対処しましょう。神は言われます、「強くありなさい。その大能の力にあって立ちなさい」。そうするなら、恐れはまったく取り除かれるでしょう。それは「大能の力」です。パウロはエペソ人への手紙第1章で、まったく同じ言葉を用いています。「キリストは、神の『力』、『彼の大能の力』によって、死者の中からよみがえらされました」。ですから、主が来られて、私たちが共に彼へと集められるまで、私たちは絶えず勝利の中で神と共に前進しましょう。

| ジェシー・ペン-ルイス | 23:42 | comments(0) | trackbacks(0) |