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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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水野源三さんの詩

主よなぜですか


 
主よなぜですか 父につづいて

母までもみ国へ召されたのですか

涙があふれて主よ主よとただ呼ぶだけで

つぎの言葉が出て来ません

主よあなたも私と一緒に

泣いてくださるのですか




「父」


六十近い父が 自動車教習所に 通い出した
免許証を貰ったが 一度も運転しないで 
天に召されてしまった
日記には 免許証を取って 源三を乗せたいと
書いてあった




 
有難う

物が言えない私は
有難うのかわりにほほえむ
朝から何回もほほえむ
苦しいときも 悲しいときも
心から ほほえむ




主のいつくしみが

一、主のいつくしみが 主のいつくしみが
  深く深く思われる
  主の慰めが 主の慰めが
  強く強く感じられる
  悲しみが 悲しみが 心にみちる時
二、主の力が 主の力が
  深く深く思われる  
  主の助けが 主の助けが
  強く強く感じられる
  苦しみが 苦しみが 増し加わる時
三、主の御言葉が 主の御言葉が
  深く深く思われる
  主の恵みが 主の恵みが
  強く強く感じられる
  淋しさが 淋しさが 心にみちる時






はっきり見えてきた

自分の力では動けない生きられないと
気づいた瞬間に
私をしっかり支えていてくださった
キリストの愛の御腕が
はっきり見えてきた





今日一日も

新聞のにおいに朝を感じ
冷たい水のうまさに夏を感じ
風鈴の音の涼しさに夕暮れを感じ
かえるの声はっきりして夜を感じ
今日一日も終わりぬ
一つの事一つの事に
神様の恵みと愛を信じて



「砕いて砕いて砕きたまえ」


み神のうちに生かされているのに
自分ひとりで生きていると 思いつづける心を
砕いて砕いて砕きたまえ

み神に深く愛されているのに
ともに生きる人を真実に愛し得ない心を
砕いて砕いて砕きたまえ

み神に罪を赦されているのに
他人の小さなあやまちさえも赦し得ない心を
砕いて砕いて砕きたまえ 
 


 「私へのものとして」


遠い遠い昔 病にうめく人に
主が語られた御言葉を
私へのものとして 今聞かせたまえ

遠い遠い昔 孤独に悩む人に
主が示されたあの愛を
私へのものとして 今受けさせたまえ

遠い遠い昔 罪に苦しむ人に
主が与えられた救いを
私へのものとして 今受けさせたまえ

「キリストを知るためだとわかりました」
病に倒れたその時には 涙流して悲しんだが
霊の病いやしたもう
キリストを知るためだとわかり
喜びと感謝に変わりました

友にそむかれたその時には 夜も眠れずに恨んだが
とわに変わらない友なる
キリストを知るためだとわかり
喜びと感謝に変わりました

過ち犯したその時には 心を乱しくやんだが
すべてをばつぐないたもう
キリストを知るためだとわかり
喜びと感謝に変わりました



「キリストの愛に触れてみよ」


幾度も聞いても読んでも
キリストの愛の尊さは
触れなければ分からないから
キリストの愛に触れてみよ
キリストの愛に触れてみよ

幾度も思い考えても
キリストの愛の確かさは
触れなければ分からないから
キリストの愛に触れてみよ
キリストの愛に触れてみよ

涙を流して感動しても
キリストの愛のうれしさは
触れなければ分からないから
キリストの愛に触れてみよ
キリストの愛に触れてみよ


「御言葉」


神様 今日も御言葉を下さい
一つだけで結構です
私の心は ちいさいですから
沢山いただいても
溢れてしまい もったいないので

| 書きとめておきたい言葉 | 08:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
マザーテレサの言葉
 マザーテレサの言葉

  Twitterより


   「 イエスよ、光はすべてあなたから発するのです。わたしたちからではありません。わたしたちをとおして人を照らすのはあなたなのです。わたしたちの周りにいる人を照らし、あなたの一番望まれる方法で、あなたを称えられるようにしてください。



 「愛するイエスよ。わたしたちと一緒にいてください。そうすれば、あなたと同じようにわたしたちも輝きだし、隣人を照らす光となることができるからです。


 「愛するイエスよ。わたしたちの接する人が皆、あなたの現存をわたしたちのこころに感じ取り、わたしたちではなくあなたを見つめることができるようにしてください。

 
 「愛するイエスよ。わたしたちのいのちのすべてが、あなたのいのちの輝きそのものになるほどに、わたしたちの中には入り、完全にあなたのものにしてください。


 「
愛するイエスよ。わたしたちがどこにいても、あなたの香りを、ただよわすことができるように助けてください。あなたの霊といのちで、わたしたちのこころを満たしてください」


 「調子のいい時、悪い時、病気の時、悩みの時があります。それらはみな、十字架の一部です。イエスに完全にならおうとするなら、主の御受難にもあずからなければなりません。だから祈らなければならないのです。だからいのちのパンが要るのです。だから礼拝するのです。だから罪のゆるしを受けるのです。


 「
イエスの道を学ぶのに一番よい道、確実な道は家庭である」


 「
幼い子はなんの困難も障害もなく愛することができます。だからイエスはこう言われたのです。「幼な子のようにならなければ・・・」


 「愛は家庭からはじまります。もし四六時中ともに生活している人を愛せないのなら、どうやって一度しか会わない人を愛することができるでしょうか。

 
 
 「子供たちはじっと見ています・・・そして、見ながら成長していくのです。自分たちの生き方の大切さを、子供たちは親の生き方を見ながら学んでいくのです。


現代社会には、愛する喜びを枯れさせる多くの要因があります。人々は、あり余るほど持っていても、さらに物を欲しがります。人々は不満でいっぱいなのです
| 書きとめておきたい言葉 | 06:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
子が親に捧げる無償の愛




 ドラマ 「 mother 」 より
  

「親は子に無償の愛を捧げるって、
あれ、私 逆だと思うんです。

小さな子どもが親に向ける愛が無償の愛だと思います。

子どもは何があっても、

例え殺されそうになっても捨てられても、親のことを愛してる。

何があっても。」

 
 

「まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、
決して天の御国には、はいれません」
 
   マタイ18:3

| 書きとめておきたい言葉 | 16:42 | comments(6) | trackbacks(0) |
天の国はこのような者たちのものである
 「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」

 

エス様は、わたしたちが幼子のようにならなければ、天国に入ることができない、と言われたのでした。

 当時の大人たちも、今日の大人たちも、子どもは邪魔者だ、とついつい考えてしまいがちです。そのようなわたしたちの常識的なものの感じ方に対して、イエス様のお言葉は天から、突き刺すような言葉として、響きわたって来るのです。

 「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」

 

人が天国に入れないのは、分別が在り過ぎるからです。分別とは、物事を分析し、理解し、相手の立場と、自分の立場をわきまえて、常識的に行動する知恵であり、配慮です。この分別があるからこそ、大人は大人なのです。

 分別のある大人は、感情や気持だけで行動したりなどしません。分別のある大人は、自分の感情や気持を抑制しコントロールします。まずすべき大切なことは、その場所やその場の人間関係やその場の状況を分析し、自分の立場をわきまえることです。自分の立場をわきまえないまま、何か言ったり、何かやったりすることは、いけないことであり、大人のすることではないのです。

人は神様との関係においても、分別を働かせてしまいます。礼拝に出席していても、自分で祈っていても、大人は頭で神を分析しようとします。神は霊であって、崇高な、神聖な、きよい、おそるべきお方である。これに対して、わたしは罪深い、愚かな、汚れた、不信仰な、小さい、だめな人間である。だから、自分は神にふさわしくない。自分は神に近づけない。神に向かって何か言ったり、何かやったりすることは、おそれおおいことである。だから、礼拝をするにしても、定められたやり方を守らなければならない。祈るにしても、きちんと定められたお祈りの言葉を唱えなければならない。神の立場を尊重し、自分の立場をわきまえ、その関係を飛び越えるようなことは、決してしてはならない。

 これが、分別ある大人の信仰の姿です。

 

れに対してイエス様は言われました。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」

い子どもは、分別というものが弱いのです。いけないことをして叱られた幼子は、お母さんに叱られると、わあわあ泣きながら「お母さん、だっこしてえ」とお母さんにすがりついて来ます。叱る者が、叱られる者を叱りつけたら、叱る者と、叱られた者との間には、緊張が生じ、距離が生じ、立場の相違が生じます。大人はその立場の違いを乗り越えて、近づくことが出来ません。分別があるからです。

 しかし、幼子は分別が弱いので、立場の違いを認識しません。その状況も認識しません。叱られているのに、「お母さん、抱っこして」とお母さんの胸の中に飛び込んで行くのです。

 幼子には、自分とお母さんとの間の距離、というものが、まだ十分に確立されていません。あまりにも心理的にお母さんと一体であるために、お母さんに向かって行く自分の気持を、抑制したり、コントロールしたりすることが出来ません。自分とお母さんとの間に、心理的距離がないからです。だから、幼い子どもは、お母さんに向かうときに、その態度を躊躇したり、遠慮したり、配慮したりすることが出来ません。自分の気持のままに、感情と思いのままに、お母さんの胸に飛び込んで行ってしまうのです。

 

たしたち大人は、神様に向かうときに、冷静な分析者であってはなりません。心を動かさない観察者であってはなりません。定められた儀式と定められたお祈りの言葉を唱えさえすれば神への義務はすべて果たした、と思い込むような、分別ある大人であってはなりません。イエス様が言われたように、わたしたちも、神様と自分との関係においては、幼子のようにならなければなりません。

 わたしたちも、幼子の心を取り戻しましょう。ここにわたしがおり、ここに神様がおられます。神様はわたしたちを限りない愛で愛しています。わたしたちも、神様を心から愛しています。愛されている喜びの感情を、幼子として、そのまま喜びとして、単純に喜びましょう。わたしたちは決して大人になって、愛されている喜びの感情を冷静に分析などしてはならないのです。自分が愛されるに値する人間かどうか、心をうつむいて、内省的になって、自分という人間を分析などしてはならないのです。

 幼い子どものようになって、無限に注がれている神様の愛の中に、そのまま立ち、心いっぱい、体いっぱいに、神の愛を受けましょう。そして、神の愛を感じ、神の愛を喜び、神ご自身を喜びましょう。

を礼拝するときに大切なことは、主の祈りを間違えないように言うことではありません。あるいは、主の祈りをみんなに遅れないように唱えることでもありません。

 神を礼拝するときに大切なことは、讃美歌を間違えないように歌うことではありません。立派な言葉で流暢にお祈りすることでもありません。そうしたことは、本当は枝葉のことです。

んとうに大切なことはただ一つしかありません。それは、自分を神の愛の中に置くことです。神に愛されている自分を見ることです。神に愛されているありのままの自分として、神の愛の中に身をゆだねることです。そして、その愛を喜ぶことです。その喜びの感情を、抑えたりしないで、素直に表現することです。何の配慮も、躊躇も、遠慮もしないで、神様の広い大きな胸の中に飛び込んで行くことです。それがほんとうの礼拝であり、ほんとうの祈りであり、ほんとうの神の国です。

別ある大人であるわたしたちは、自分が愛されるに値しない者であることを、自分を冷静に分析した結果、逃れられない現実として深く認識させられているので、どうしても、自分と神様との間に、途方もない距離を設定してしまうのです。

 しかし、神を礼拝するときは、もう自分を分析することは止めなければなりません。神を分析することも止めなければなりません。神を礼拝するときには、わたしたちは十字架につけられたイエス様を見なければなりません。主はわたしたちの身代わりとなって十字架にかかり、わたしたちの罪をすべて担って死んでくださいました。今主イエスは復活して、わたしたちのすべての罪が赦されたことを、全宇宙に向かって宣言しておられます。

たしたちは、自分が赦されたことを信じなければなりません。十字架の恵みによって、神様と自分との間に横たわる途方もない距離は縮められ、その距離はゼロにされたことを信じなければなりません。わたしと神様との間の距離はもはやゼロなのですから、わたしたちは大人としての分別を捨てなければなりません。そうして、幼子のようになって、神様の広い大きな胸の中に走って飛び込んで行かなければなりません。

 幼子は、自分が受け入れられるだろうか、などと心配したりしません。

 幼子は、自分は拒絶されないだろうか、などと恐れたりしません。

 幼子は、自分はその資格があるのだろうか、などと躊躇したりしません。

 幼子は、今それをしてよいのだろうか、などと配慮したりしません。

 幼子は、喜びの感情のまま、その喜びのままに飛び込んでいきます。

 幼子は、自分の全存在を、そのまま全部ぶつけて飛び込んでいきます。

 幼子は、自分の全存在がそのまま愛され受け止められていることを微塵も疑わ
 ずに飛び込んでいきます。

 

 子になることは、なんと難しいことでしょう。わたしたちは、なんと分別ある大人となってしまったことでしょう。しかし、イエス様は今日もわたしたち大人に、「幼子のようになりなさい」と招いておられるのです。

 「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」

| 書きとめておきたい言葉 | 23:03 | comments(4) | trackbacks(0) |
もはや私ではなく

 「けだし、ここ、神に生きているパウロは、
自然のままの古きパウロではない。

古きパウロ、生まれながらのパウロは、
もはや死んでいるはずである。

今のパウロ、新しきパウロは、
キリストにおけるパウロ、
キリストの霊に満たされ活かされているパウロである。

 この神秘的な体験を、
彼は『わたしはもはや生きるのではなく、
キリストがわたしにおいて生きるのだ』
という鮮やかな言葉をもって典型的に言い表している。

この文章で重要なのは、『おいて』という前置詞であって、
それは、この時代に行われたギリシャ語の文法学者から、
『神秘的な「おいて」』と言われる特殊な言葉である。

あたかも魚が水の中を泳ぐがごとく、
鳥が空中に飛ぶがごとく、
キリスト者パウロは霊なるキリストのうちに生きている。

キリストの命を受け、
」キリストの呼吸を感じつつ、
おのれの生命を保持し、増進し、勇躍させるのである。

かかる種類の生命は、パウロの生命にして、
実はキリストの生命である。

パウロの内に生きる、キリストの生命である。
すなわち、パウロとキリストとの共同の生命である。

 
この神秘的体験を、
学者は『キリスト神秘』と名付ける。ローマ書6:3、8:1、

 コリント後書5:17、ガラテヤ3:26、ピリピ書1:20などに
言い表されているのは、
これと同様の事実であって、
キリストとの霊の一致結合における無限の祝福、
満ち溢れる生命の喜びを現している。」


 山谷省吾  



「パウロ」と書かれたところを私自身に当てはめて読んでみよう。
なんとゆう喜びが溢れてくることだろう!!!

| 書きとめておきたい言葉 | 14:26 | comments(2) | trackbacks(0) |
聖書は





 聖書は、始めから終わりまで、

神の御子イエスの血が、注がれている書物です。

そして旧約聖書は、イエスの血への預言が

血管のように張り巡らされているのです

      

| 書きとめておきたい言葉 | 23:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
漢字の中に
 
   「恵み」


という字は「日ごとに十字架を心がける」と書く。

十字架の下に「心」があるので、

へりくだって十字架を見上げる姿も思い描ける。

           syashoさんのブログより


 

             その他にも

    「義」

 
 の上に(=いけにえ)を置いて、高いところにいる創造者の前にささげると、つまりヤハウェの前に正しい者と認められるのです。
洗礼者ヨハネがイエスを「神の子羊」と呼んだとおり、イエスは人の罪を清算するために、十字架という祭壇でヤハウェにささげられました。イエスを「のためのいけにえの」として、このをいけにえとして殺したのはだと認めるなら、ヤハウェはこれをその人の罪を清算するためのいけにえとして受け入れ、その人をと認めるのです


 まだまだいろいろあるみたいですが、面白いですね
| 書きとめておきたい言葉 | 00:15 | comments(4) | trackbacks(0) |
マザーテレサの言葉
 
Twitterでマザーテレサの言葉に出会いました。

彼女の言葉は深く心に流れてきますね。

その中から、いくつかご紹介しますね。



自分の内にキリストを住まわせるということは、とても大切なことです。そうすれば、どこに行こうとも、あなたは現存されるキリストと共にいるのです。

「どうか、神の愛が今こそ心の全体を完全に占めるように。神の愛が、わたしたちの心にとって第二の天性になるように。神の愛に反するものを前にして、わたしたちの心が痛むように。




 祈れないときもあります。その時は単純になればいいのです。わたしの心の内におられるキリストに祈っていただくのです。キリストが御父に語りかける、その祈りに心の沈黙の中でまかせきるのです。わたしが語ることができないそのときキリストが語ります。わたしが祈れないそのときキリストが祈ります。

だから、次のように繰り返し言うことが大切です。「わたしのうちにおられるイエスよ、あなたの、わたしへの誠実な愛を信じます」と。もう何も差し出すものがないとき、この「何もない」ということをイエスに差し出せばいいのです。そして、内におられるイエスに祈っていただくのです


「そのとき、賞賛も恥辱も関係ありません。自分のほんとうの姿を知っているのですから。あなたが侮辱されても、落胆することはありません。人があなたを聖人と呼んでも、うぬぼれることはないのです。ほんとうに自分を知る時、わたしたちは、ただひざまずくのです」

「真の愛はいつも傷つきます。人を愛することや人と別れることは痛みを伴ないます。あなたは彼らのために死ななければならないかもしれません。人々は結婚する時、お互いのためにすべてを捨てます。子どもを産む時、母親は苦しみます。それでこそ私たちは、本当に愛することができるのです。

真の愛はいつも傷つきます。それでこそ私たちは、ほんとうに愛することができるのです。”愛”という言葉は誤解され、間違って使われています



「神は私たちの中に住んでおられます。あなたが汚れなく、聖い心でいるかぎり、あなたがどこにいるかは関係ないのです。汚れなく聖い心とは、心が開かれている状態です。開かれた状態とは、完全な自由、つまりどんな妨げや障害にもかかわらず、神を愛することを可能にしてくれる無私の状態です。

| 書きとめておきたい言葉 | 00:56 | comments(4) | trackbacks(0) |
深い慰め
 

「クリスチャンにとって死による別れはぜんざいに少し入れる塩のようなものです。

ぜんざいは砂糖ばかりをいくら入れても甘くなりません。

しかしほんのすこし辛いものを入れると一段と甘味を増すのです。

死別そのものは決して甘くはありません。

辛いです。

しかし主にあってはこの辛さが却って天国での再会を甘美なものにしてくれるのです。

私たちは家内との死別で天国の甘さを知ることが出来たのです。」


  
                     
  「キリストに委ねる術を持った人ほど強い人はありません。
しかしキリストに全面的に委ねることができるほど弱くなる人は滅多にありません。
だからこそ神様はひとが自然に弱くなるのを待つのではなく神ご自身がその人自身に積極的に関与して弱くされるのではないかと思いました。」


 「倒されるたのは立ち上がらされるためです。
殺されたれたのは復活させられるためです。
負けたのは最終的に勝利するためです。

柔道に捨て身技という投げ技があります。
その代表はともえ投げです。
相手に倒されたかのように見えて相手を投げる技です。

信仰者も倒されます。しかし続きがあります。倒したと思い込んだ相手を倒すのです。
何という逆説。
何という痛快さ。
何という楽しさ。」


 「今の私は自分を使って実験している科学者のようです。

深い悲嘆の気持を抱えながら揺るがない歓びのおとづれを取り次ぐと自分自身にどんな反応が生じるのかを観察しているからです。

悲しみからどんな恵みをどこまで取り出せるのか。

私は恵みの大鉱脈に突き当たるまでは掘り進みます。
諦めてなるものですか!
埋蔵されていると判っているのです。
私は必ず堀当てます。
堀当てたならば堀尽くせるまで堀尽くします。
ところで試練の中に恵みの鉱脈が埋蔵されているという根拠は何でしょう。
聖書です。
聖書の中に「あなた方の信仰の試練は火で精錬されつつなお朽ちて行く金より尊くイエスキリストの現れの時に賞賛と光栄と栄誉になることがわかります」とあるからです。

私は悲しみによって腑抜けた人になりたくありません。
しかしどうしたら悲しみが腑抜けそうな私を成長させるのかについては未だにわからずにいます。

わからないならば実験してみるまでのことです。

私は悲しみを持ったまま主に導かれるまま行けるところまで行きましょう。
魂が破れたままの状態でキリストの後についていきましょう。
アントニオ猪木もいっているではありませんか。
「この道はどこに続くか。行けば分かるさ」と。


   


         主と共に歩む〜 高原剛一郎 より
    
          http://maruta.be/gt516
  
   ぜひ、読んでいただきたいブログです。          

  

      
   

| 書きとめておきたい言葉 | 07:10 | comments(12) | trackbacks(0) |
生は死の中に

 「僕たちの喜びは苦難の中に、

    僕たちの生は死の中に隠れています」     

              ボンヘッファー



ボンヘッファーは1945年4月8日、収容所から収容所へと移送中、シェーンベルクという村の小学校に滞在していました。そこで突然、呼び出されてフロッセンビュルク収容所へ移送され、その日のうちに死刑判決を受け、翌日4月9日に処刑されたのでした。
「これが最期です。−わたしにとっては生命の始まりです」。これは、ボンヘッファーがこの世に遺した最後の言葉です


  
球根の中には
賛美歌

 1 球根の中には 花が秘められ、
  さなぎの中から いのちはばたく。
  寒い冬の中 春はめざめる。
  その日、その時をただ神が知る。

2 沈黙はやがて 歌に変えられ、
  深い闇の中 夜明け近づく。
  過ぎ去った時が 未来を拓く。
  その日、その時をただ神が知る。

3 いのちの終わりは いのちの始め。
  おそれは信仰に、死は復活に、
  ついに変えられる 永遠の朝。
  その日、その時をただ神が知る。

| 書きとめておきたい言葉 | 08:49 | comments(0) | trackbacks(0) |