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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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祈りの証し facebookより
 

【祈りの証し】

スポルジョン牧師がある時、ブリストルにやって来た。ブリストル市内の三大礼拝堂で説教するためだった。
また、彼の経営している孤児院のために直ちに必要とされていた 300ポンドの資金を集めるという目的も兼ねていた。そして、その資金は調達された。訪問の最後の晩にベッドに横たわっていると、スポルジョンはある声を...
耳にしたが、それは主の御声のようであって、「その 300ポンドをジョージ・ミューラーに与えよ。」と言うのであった。
そこでスポルジョンは言った。 「でも、主よ、そのお金はロンドンにいる私の愛する子供たちのために必要なのです。」
すると、もう一度声がして、「その 300ポンドをジョージ・ミューラーに与えよ。」と言った。
そして、眠りにつくことができたのは、彼がとうとう「わかりました。主よ、そうします。」と言った時だった。
  
翌朝、スポルジョンがジョージ・ミューラーの孤児院に出向くと、ジョージ・ミューラーは開かれた聖書を前にしてひざまずいていた。
有名な牧師スポルジョンは、その祈っている人の肩に手を置いて言った。
「ジョージ、神はこの 300ポンドを君に与えるようにと言われたのだ。」 
「おお、スポルジョンさん、私は主にその同じ金額を求めていたのです。」 
こうして二人の祈る人達は喜びを共にしたのであった。
  
スポルジョンがロンドンに戻ると、自分の机の上に一通の手紙が置かれていた。
封を切って中を見てみると、なんと300ギニーが同封されていたのである。
スポルジョンは喜び躍った。 「やったぞ! 主は私の300ポンドに300シリングの利子をつけて返済して下さった。」

| 書きとめておきたい言葉 | 22:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
十字架のキリスト
 十字架のキリストは、血のにじむような信仰経験によって、

接神せられるものであって、

現今の一般クリスチャンが安直に信じているが如き教理ではない。

信仰は端的なことであっても、生やさしい事ではない。

真に十字架のキリストを仰いで生きるためには、

各自が自分に絶望し、挫折して大死一番、

その傷口よりキリストの血が注がれるための

処置がなされねばならない。

これ悔改めの回心である。

主キリストの血に接がれるためには、

自己否定の内的転換を要する。

すなわち、一度、我らの古き人が十字架につけられ、

キリストのように死んで生きる人間になることである。

「十字架のキリスト」は決して頭脳の問題でなく、

大死一番、血のしたたる死生の関の自己突破の上で、

啓示される。

しからざれば、キリストと共に

復活する霊的な新しき生命に歩むこともできないからである
(ロマ書6・1〜11)。

言葉の十字架論−空しい言葉の遊戯はやめたがよい。

贖罪がわれらを救わない、

主の贖罪のが救うからである。
 


      〜十字架のキリスト〜より
| 書きとめておきたい言葉 | 06:57 | comments(1) | trackbacks(0) |
十字架
 十字架は、一人一人のキリスト者が負わせられる。

一人一人が経験しなければならない、キリストと共に

苦しむ苦しみは、先ず最初に、

この世のいろいろな束縛から抜け出るように呼び求める招きである。

それは、イエス・キリストと出会って古い人が死ぬことである。

服従への歩みに足を踏み入れる者は、イエスの死に身をゆだねる。

彼は、自分の生命を死に引き渡す。

それは初めからそうである。

十字架は、敬虔で幸福な生活の恐ろしい結末ではない。

十字架からイエス・キリストとの交わりは始まるのである。

イエスの招きはすべて死に通ずる。

イエスに従うために、私たちが最初の弟子たちにならって

家や職業を捨てなければならないにしても、

あるいは、ルターにならって修道院から出て

この世の職業につくようにするにしても、

いずれの場合にも私たちを待ちうけているのは、

あの唯一の死、イエス・キリストにおける死、

イエスの召しにおいて

私たちの古い人間が死に絶える死である。

     ディートリッヒ・ボンヘッファー


 アーメン!
| 書きとめておきたい言葉 | 23:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
眠れぬ夜を
眠られぬ夜を、悔やむか。

だが、この時こそ、私たちにとって、天を想い、

主イエス・キリストに交わる、またと無い素晴らしい機会ではないか

そうして過ごす翌日、さて、いつの間にか安眠していた、

ということになる。

 ある初老の婦人が、眠れない悩みを訴えた。

「それこそ、よい機会ですよ。

主イエス・キリストと語り合うときですからね。

一晩中でも語れたなら、素晴らしい。」と

きょとんとしておられた。

「朝になってみるといつの間にか

寝てしまったことに気付くでしょう。」 

          カール・ヒルティ
         
 

 
  
 

| 書きとめておきたい言葉 | 22:34 | comments(2) | trackbacks(0) |
すべての事を通しても
 イエスが上げられた時、聖霊を送ることによって、私たちに悔い改めを与えられただけでなく、、自然であると摂理であるとを問わずあらゆる事柄を、私たちを救うという究極の目的のために用いることによっても、私たちに悔い改めを与えてくださったのです。

それがペテロを悔い改めさせた鶏の声(マタイ26:31〜35、69〜75)のように働くことも、

看守を悔い改めさせたあの地震(使徒16:19〜40)のように働くこともあるでしょう。

しかし、とにかくそのような働きの中のあるものが私たちに呼びかけて、悔い改めに導くのです。

主イエスは神の右に座してこの地上のすべての事を支配し、ご自分が贖われた民の救いのためにすべての事を働かせておられるのです。

イエスは苦いものも甘いものも、試練も喜びも用いられます。
皆罪人に中に、神に向かうもっともよい心を生み出すためです。

あなたが貧しかったり病気であったり悲しかったりするのは、神のみこころから出ることですから、感謝しなければなりません。

イエスはそれらすべてを使ってあなたの霊のいのちを働かせ、あなたをイエスの方へ向けられるのです。

主の恵みは、苦悩という馬に乗って心の玄関にやってくることがよくあります。

イエスは私たちの経験するすべてのものを通して、私たちを地上のものから離し、天上のものに結び付けようとされます。

キリストは、天と地をすべ治める玉座に上げられましたが、
それは摂理のすべての過程にあって
かたくなな心を打ち破り、悔い改めの出来る柔らかい状態にするためです。

   C・H・スポルジョン
| 書きとめておきたい言葉 | 22:02 | comments(4) | trackbacks(0) |
ニー兄弟の手紙
 
「 光禧兄弟・・・・

心の中ではあなたに手紙を書かなければならないと思いながら、自分の考えが十分に練り上げられていないのを恐れて今まで先延ばしにしてきました。

今が時だと思います。この手紙を神の御前に持ち出されるように望みます。


香港と廣州について、問題はとても大きいと思います。(一)同労者たちの間で、(ニ)教会の中で。
以下に述べることが主の恵みの内に、ここでの状態を変えることができるように望みます。




  〇愼骸圓燭舛蓮⊃佑魄Δ垢襪海函他の人のために考え、人を顧み、人のために自己を捨て、持っているものを人に与えることを学ぶべきです。

 人の上で自己を捨てることが出来なければ、人を導くことは出来ません。持っていても、持っていなくても人に与えれば主は祝福されます。


 ◆‘き人の内側の力は外側の力に等しいはずです。もし無理に伸ばそうとすることとか
 余裕がないこととか、不十分であるとか、緊張するとか、あるいはあふれ流れるものにかけるとか、主の先をいってしまうとか、みなあるべきではない状態です。

 内側が豊かなときはすべては流れていて無理がありません。霊的な人のように振舞うことが出来ても、霊的な人になることは出来ません。

 
  働きの上では聞く事を学ぶべきです。使徒行伝15章で教えられることは聞くことです。
 あらゆる兄弟たちの考えの中に聖霊の御声があるかもしれないから聞くのです。

 兄弟たちの声を聞かなければ、聖霊の御声を聞き出すことができない事を、恐れなければなりません。 すべての同労者および長老は、座って彼らに耳を傾けなければなりません。彼らに話す機会を与えなければなりません。柔らかであり、砕かれており、聞くべきです。

 
 ぁ‖燭の人の問題は砕かれていないことです。砕かれるという言葉は聞いたことがあるかもしれませんが、砕かれるとはどういうことかを知っていません。砕かれるなら、事務的なことについても、あえて断定せず、教えについてもあえて断定しないようになります。
人について自分が知っているとはせず、事に対しても自分ができるとはしません。

 権威をとろうともせず、人に自分の権威を受け入れさせようとも思いません。人がどうであるかをあえて断定せず、またあいまいな対処もしません。砕かれるなら自分を守ろうとせず、何も振り返る必要がありません。


 ァ―顕饕罎箒飢饑験茲砲いて、あまり緊張しすぎてはなりません。教会の諸事は、自分でやり過ぎないよう学ばなければなりません。

   多くの事を他の人たちに分配して行わせ、彼らに決定を下すことを学ばせるべきです。
事前にはっきりした原則を彼らに述べ、事後、彼らがそれに従ってやったかどうかを見るのです。
自分でやりすぎるのは、間違っています。集会の中では注意深く自分を表し過ぎないようにしないと、兄弟たちは何もかもあなたがやっていると感じてしまいます。兄弟たちを信頼し、互いに信頼し合うようにしなさい。

 
 Α/世領遒篭飢颪任鰐詰強いできないものです。ただ 服するのみであって、そうしなければ油の供給は止まり、教会は疲れを感じ、うんざりしてしまいます。

 あなたの霊が強ければ、十分以内に聴衆を押し流し圧倒することができます。
  霊が弱いと、大声を出しても、脅しても、、長い時間をかけても、助けにはならず、かえって害を及ぼします。


 А.瓮奪察璽犬呂△泙蠶垢垢たり、多すぎたりしてはいけません。そうでないと信者の霊は疲れを感じてしまいます。話の内容は、一般的な考え方や、卑しい言葉を避け、幼稚なたとえや、一般に人に幼稚だと感じさせる理屈を除かなければなりません。最も重要な事を30分以内に言い尽くすように学びなさい。

 自分でとても味わい深いと思っていることが、かならず、神の言葉だと思ってはなりません。


 ─ゝГ蠅僚顕颪如∋遒澆蕕譴襪海箸蓮▲瓮奪察璽犬鬚靴燭ることです。祈りの集会では祈らなければなりません。話しが多くなるほど、良心は重くなり、祈りは失敗してしまいます。


  1948年私の鼓嶺における対処はとても例のないものでした。働き人は多くを学んで始めて対処することが出来ます。
もし、あまり学んでおらず、知識が不十分で、よく砕かれておらず、判断が信頼できないなら、人を対処することが出来ません。あまり結論を急いではならず、何かをしようとしているときでも、畏れおののいてやらなければなりません。霊的な事をあまり簡単に考えてはいけません。心の中で学びなさい。


  自分の判断を信頼しないように学ばなければなりません。正しいと思っていることが、必ずしも正しくなく、間違っていると思っていることが必ずしも間違っていないからです。
 
 へりくだって学んだとしても、最も早くて数年かかります。ですから今、自信を持ったり、確信したり、すべきではありません。

 
  あなた自身の判断がまだ信頼すべき段階に至っていないとき、人に聞き従われるのは危険なことです。

主があなたの上で働いて、あなたの思いが対処され、人が砕かれてはじめて神の御心を理解でき、権威を取ることが出来ます。

権威は主の御心を知ることに基づきます。主の御心と目的がないところには権威もありません。


  神の僕の度量は神によって拡大されるべきで、私は神がその御業をなしておられる所であると信じます。
あなたは内側を見る必要はありません。そうでなければ失望してしまいます。

そして香港の働きに関しては別に案配するように導かれるかもしれません。私たちは安息すべきだと思います。


 この手紙は長く書きましたが、主の御前でよくよく注意して読まれる事を望みます。私はこれらのことばが難しい事であると知っています。主があなたを砕いて、彼の御手の中で、役に立つ者としてくださいますように。

 主の恵みがあなたとともにありますように!

   
          ウオッチマン・ニー 

                   1950年3月1日
| 書きとめておきたい言葉 | 23:01 | comments(4) | trackbacks(0) |
わたしのところに来なさい
「 霊的に正しい状態にあること以上に重要な事はない。

偉大な解決法は単純なものである。

「私のところに来なさい。」

である。

私たちの知的、道徳的、霊的な本質の深さは

この言葉によって試される。

私たちがイエスのところに来るよりも

議論をしようとするのは、

それだけ私たちが本物でないことを示している。」


 オズワルド・チャンバーズ


http://www.midorinomakiba.com/?cat=4&paged=2



| 書きとめておきたい言葉 | 20:03 | comments(2) | trackbacks(0) |
放蕩息子の奥義 その一
 イエスご自身が私たちのために放蕩息子になられたという奥義に触れた。

イエスは天の父の家を去り、外国に行き、持っていた全てを与えつくし、十字架につけられて御父のいる家に帰られた。

この全てを反抗的な息子としてではなく、従順な息子として行われた。神の失われた子供たちの全てを家に連れ戻すために遣わされた。

罪人たちとの交際を批判する人々に放蕩息子の話をされたのは、イエスであった。

そして、自分の描いた、長く、辛い帰郷の旅路をご自分で生きられた。

 父の前で跪く、心砕かれた若者は、「夜の罪を取り除く神の子羊」ヨハネ1:29
 ではないだろうか?

 罪は犯されなかったのに、私たちのために罪を負わされた純真無垢な方ではないだろうか?

 「神と等しい者であることに固執しよう」とせず、「人間と同じようになられた」方ではないだろうか?

 十字架の上で、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか?」と叫ばれた、罪なき神の息子ではないだろうか?

 イエスは、御父から託されたすべてを手放した息子、つまり、惜しみなく与える御父(prodigal Father)の、惜しみなく与える息子(Prodigal son)であり、そのおかげで、私はイエスに似た者となって、イエスと共に御父の家に帰ることができるのだ。
  (注:prodigalには、「浪費」、「放蕩」、「惜しみなく与える」などの意味がある)

 イエスご自身を放蕩息子とみなすことは、このたとえ話の伝統的な解釈からかけ離れている。

にもかかわらず、この洞察には偉大な奥義が秘められている。

 私が神の息子であることとイエスが神の息子であること、私が家に帰ることとイエスが家に帰ること、私の帰るべき家とイエスの帰るべき家は、そのどれもが同じであることの意味を、徐々に発見し始めている。

 イエスのたどられた旅をする以外、神へと向かう旅はない。放蕩息子の話をした方は、神の言葉であり、「万物は言(ことば)によって成った」。そして、「肉となってわたしたちの間に宿られ」、イエスの満ち溢れる豊かさの一部に、私たちを加えてくださった。(ヨハネ1:1〜14)

 放蕩息子の話を信仰の目によって見るなら、放蕩息子の帰郷とは、全ての人間をご自身のもとに引き寄せ、天の父に連れ帰るお方、すなわち、神の息子の帰郷になる。(ヨハネ12:32)

 それはパウロが言うように、「(神は)満ち溢れるものを余すところなく御子の内にやどらせられ」たことを示す。

     ヘンリ・ナウエン
| 書きとめておきたい言葉 | 06:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
ある祈り
 

砂漠に咲く小さな花

私の主、わたしの神よ

あなたからいただいたこの新しい一日を

あなたに献げさせてください

平和のうちに、信頼のうちに

どんなことがあろうとも

あなたとともにこの一日を生きさせてください

わたしのうちに起るどんな抵抗にも

私が断ることができますように

それよりも、もっと

できるかぎりの行いに自分を献げさせてください

わたしのうちに働く聖霊によって

今日一日があなたをもっと識る日となりますように

あなたをもっと愛する日となりますように

あなたにもっと仕える日となりますように

私の父よ

わたしはあなたにわたし自身を委ねます

あなたのみ腕に

わたしのいのちを置きます

あなたのみ心が、わたしになされますように

わたしはほかの何も望みません

わたしの神よ

| 書きとめておきたい言葉 | 08:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
ゲッシュタルトの祈り
 「ゲシュタルトの祈り」           ( 追記あり)



私は私のことをします。
ですから、
あなたはあなたのことをして下さい。

私は、あなたの期待に添うために
生きているのではありません。
そして、あなたもまた、
私の期待に添うために生きているのではありません。

あなたはあなた、私は私です。

でも、私たちの心が、
たまたま触れ合うことがあったのなら、
どんなに素敵なことでしょう。

でも、もしも心が通わなかったとしても、
それはそれで仕方のないことではないですか。


 
  meekさんのブログより    

       
   支配と隷属



 meekさんのお祈りに心を合わせ、アーメンです。
| 書きとめておきたい言葉 | 00:09 | comments(4) | trackbacks(0) |