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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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facebook より 後藤さん天でお会いしましょう
http://www.logos-ministries.org/blog/?p=6421

 アーメンです
| 兄弟姉妹のブログより | 23:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
ブログのご紹介
ブログのご紹介です。

 「心の癒しの旅」   

 http://seba-maranata.cocolog-nifty.com/blog/

 sebaさんのブログです。


あることで検索をしていた中で導かれ出逢ったブログでした。

 姉妹の主にあるお証に、日々、とても教えられています。

 とても穏やかな霊、いのちの流れの中で、

イエス・キリストを共に味わう喜びへと導かれるブログです。 

過去ログからじっくりとお読みいただきたいブログです。




  



「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです」

    ヨハネ5:19

  イエス様は父がしておられることを見て行なう  とおっしゃられました。

  もちろん、私たちのこの肉の目でそれを見ることはできません。

 しかし、御霊は贖いを通して,信じる者の内に住まわれる方となってくださいました。

 イエスのいのちは、真実に主の御前に生き、日々十字架(キリストとともなる死)を負って歩む聖徒らを通して、生き出てくださるいのち

聖徒らを通して(父がなさることを)見ることができるいのちとなられた 


  御霊の実は、実に、見て、さわって、食べることができる神のいのちです


 その実によって見分けることができると、聖書は教えているからです。

 
 
| 兄弟姉妹のブログより | 06:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
ホップ、ステップ、ジャンプ

 


 Nさん 撮影 ハイビスカス 

  
  綺麗ですよね^^ 夏を感じさせられます。




山谷少佐のブログより。

 ホップ、ステップ、ジャンプ 

 こちらのメッセージ、オススメです。


  http://majormak.blogspot.com/2011/06/blog-post_19.html
| 兄弟姉妹のブログより | 15:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
第四次元の危険

「 いのちのパン まことの食物  」

 クマ郎さんのブログより

 
   第四次元の危険 ジェフ・トゥール
 http://moriel.jp/news/wp-content/uploads/2010/05/danger-of-the-forth-dimention.pdf

  夢、幻、想像力という、“第四次元”の教えの主要な二つ目の誤りで書かれている、彼の“想像力”と“可視化(思い描くこと)”という考えです。

   以下はその一部より抜粋

英語のNASB訳で「想像力(imagination)」という言葉を調べるとそれは2個所にみられます

『富む者の財産はその堅固な城。自分ではそそり立つ城壁のように思っている。』(箴言18章11節)

『万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている。主の口からではなく、自分の心の幻を語っている。』(エレミヤ23章16節)

どちらの場合も惑わしについて語っています。富に頼る惑わしと、神のことばではなく自分たちの心にあるものを預言するという惑わしです。

今度は「複数形の想像力(imaginations)」を見てみると、それは一度登場します
『それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らをおおっている。彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出る。彼らはあざけり、悪意をもって語り、高い所からしいたげを告げる。』詩編73編6節−8節

これと共に典型的な箇所がエレミヤ17章9節です。
『人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。』
聖書の中で想像力がどう扱われているかを簡潔に見るだけで、それが信頼出来ないものが分かります。彼ははこう語ります


 
『あなたが、自分の夫となるべき人をはっきり想像しない限り、注文はできません。なぜなら、父なる神は、ぼんやりとした祈りに答えることができないからです。』p.35

『幻と夢は「第四次元の言葉」です。聖霊は、幻と夢を通してご自身を伝達されたのです。幻と夢を通してのみ、飛躍的な教会成長を計画し、またそれを実現できます。新しい宣教地の開拓を目指し、信者の増大を計るのもみな、幻と夢によります。こうして、心の中に想起され、幻となり夢となったものが、未来において孵化し、ついにはヒナをかえすもとになるのです。』p.66

これは大変耳をくすぐるような話です。

要するに、ただ自分の心に明確なイメージを持ち、“信仰の法則”を使うことにより、あなたが欲しいものを“注文”でき、神がそれを与えられるということなのです。

そしてそう説明した後、彼は数千人が来る教会を想像し、それがどう実現したかを語っています。
実際には、聖霊はみことばを通して私たちにみこころを教えています(ヘブル1章1節、ヨハネ14章26節)。

『夢と幻によって私たちは、限界の壁を打ち破り、実に宇宙のはるか彼方、無限の世界にまではばたくことができるのです。「幻のない民は滅びる。」と聖書が語るとき、その意味するところが何であるか、十分納得されるでしょう。幻がなければ、創造することは不可能です。そして、創造していないならば、私たちの行き着くところは「滅び」でしかありません。』p.66(注…英語では“創造”ではなく、“創造的(creative)幻がなければ創造的になれないというのが正しい訳”)


彼は、祈りと私たちの行動についてイエスが大きな限界を設けられたことを忘れてしまっています。それは“神のみこころ”というものです。

  この続きは 第四次元の危険を是非、お読みください。

   
   
『万軍の主はこう仰せられる。
「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。
彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている。
主の口からではなく、自分の心の幻を語っている。』

(エレミヤ23章16節)


キリスト教界の中には、このような、夢、幻、想像力なるものによって

 自分の思いを行おうとする欺きに囚われている人が実に多くいることを思う。


 「兄弟たちよ、あなたがたは共に私に倣う者となりなさい。そして、あなたがたと同様に私たちを模範として歩んでいる人たちに、目をとめなさい。

というのも、多くの人たちが ――彼らについて私はあなたがたにしばしば語ったし、今は涙にくれながら言うが ――キリストの十字架の敵として歩んでいるからである。

彼らの最後は滅びであり、彼らの神は〔自分の〕腹であり、そして〔彼らの〕栄光は彼らの恥のうちにあり、彼らは地上のことがら〔をのみ〕思い抱いている。

ピリピ3:18〜


「私は愛する者たちをこそ、皆叱責し懲らしめる。
だから、一生懸命になって悔い改めよ。

ほら、(今ここで)わたしは戸口に立って戸を叩いている、」
黙示録3;19〜

と言われたのは、未信者に対してではなく教会に対してであることを忘れてはならないと心から思う。

 

    
   
  
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| 兄弟姉妹のブログより | 11:28 | comments(2) | trackbacks(0) |
「証することと」 と 「自分を表すこと」
 
クマ郎さんのブログより



 「証しすること」と「自分を表すこと」
先日、集会でウォッチマン・ニーの「淵が淵を呼び起こす」というメッセージを交わったのですが、以下はそのポイントをまとめたものです。おもに「証しすること」と「自分を表すこと」の違いを扱っています。天国に行って帰って来た体験が書かれた“証し本”が出版されるこの時代、耳を傾けるべきメッセージなのではないでしょうか。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。(マルコ4:5〜6)

<実を結ぶことのできない理由>

・岩地の特徴 ⇒ 根がないために枯れてしまう

・根とは「人の目に触れない命の部分」

・根がない生活とは浅薄な生活

・浅薄な生活を送るならば、他の人の深みに触れることはできない

<浅薄な生活とは>

/佑量椶某┐譴詆分が多くの割合を占める信仰生活 
⊃佑量椶鳳されている部分がないor少ない信仰生活


<クリスチャン生活の二面性>

/佑量椶ら隠された生活の面(根)→ 下に向って成長(死)
⊃佑料阿暴个鴇擇靴鬚垢襦語る面(葉)→ 上に向かって成長(復活)

                ↓
,良分(根)によって△亮造決まる(浅薄な根⇒浅薄な実 深い根⇒深みのある実)

<根をなくす原因>

・根をなくす大きな原因は、根の部分をあらわにしてしまうこと=自分の霊的経験を話したい欲求に打ち勝つことができないこと(今日のクリスチャンの問題)
           ↓
私たちは証しを用いてでも、自己を表わしたい生き物である
           ↓           
私たちには自分の動機はわからない(汽灰螢鵐硲押В隠院法8羝斥佞侶によって、無意識の領域に潜んでいる動機が明らかにされなければならない(ヘブル4:12)。

・「証しすること」と「自分を表すこと」は異なる

・十字架の死を通過することだけが、「自分を表すこと」から私たちを守る

<パウロとヒゼキヤ>

・クリスチャンとしての外面的な力=内側に秘蔵されている経験がどれだけあるか

良い例:パウロ(競灰螢鵐硲隠押В院腺粥
悪い例:ヒゼキヤ(イザヤ39:1〜6)


・ヒゼキヤは自分の経験をあらわにしてしまったことによって大きな損失を被った
          ↓
ヒゼキヤが見せてしまった分=ヒゼキヤが失った分
          ↓
クリスチャンが「根をあらわにする時」、敵の攻撃にさらされることになる
            例:植物の根っこの部分をあらわにするなら、植物は枯れる

<注意点>

・証しをするためは、「話さないこと」を学ぶ必要がある(逆説的な真理)

・クリスチャンは「根を覆うこと」を学んで行くべきである

・自分の内側にある話したい肉の欲求に気づくこと

・集会や交わりにおける「証し」が「根の見せ合い」になっていないか注意すること



  

             


私自身、 どーよ!見たいな思いで証していた過去があったなぁ〜汗

肉丸出しの熱心党員のかつての自分があったことがあります。

でも、そんな汚れた動機すら、自分で全然気づいてないんですよね。

主が「彼らをお許しください。彼らは自分で何をしているのかわからないからです」

 と祈られた、その祈りは私のための祈りでした。

主のために用いられたいという願いすら、十字架という死を通されること

それが人にとってすべてです

むしろ、用いられるということは、

主の苦しみを負うことを通してであり、

できることなら、この苦しみを私から遠ざけてください、去らせて下さい

という悲しみを避けることができません。

それが、根の部分でもあるように思います。

根は闇に埋もれた部分であり、暗闇の中ではぐぐまれるいのちの部分

闇=死の象徴です。


人は美しく咲く花の栄光を見て、そうなりたいと願います。

しかし、美しい花のいのちを支えているのは、闇に閉ざされた根にあるのです

そのどちらも切り離せず、その両方はひとつなのです


パウロはその根の部分において、、キリストと苦難を共にしました。

「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。 」

第二 コリント 11:23〜



しかし、パウロは、

「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。 」
といえるほど、満ち足りていたのです。



美しい球根の花は、とても厳しい冬の寒さがなければ、

春に美しい花を咲かせることはできません。

自然の中には隠れた主の御言葉があふれています


十字架はすべてのことの鍵です

この鍵を通してのみ

私たちはキリストのいのちの祝福の深みに漕ぎ出す(主の栄光に与る)ことの中へと実際に入ってゆくのです












 
| 兄弟姉妹のブログより | 23:06 | comments(2) | trackbacks(0) |
ガイオン夫人の詩
  迫害のゆえに投獄された人が、その牢獄の中で作った詩


牢は神を閉め出さず
 
 私を取り囲む壁は堅く、私は一日中閉じ込められている。
 しかし、わたしを縛るこの壁は、私を神から閉め出さない。
 この私の地下牢こそ、麗しい場所。
 私の愛する神が、ここにおられるゆえ。
 
 私を圧迫する彼らは知っている。
 一人でいることはつらいことだと。
 しかし彼らは知らない。私を祝福するお方を。
 錠や石を通って来られる方を。
 神は私のこの暗い牢を明るいものとし、
 私の心を喜びで満たしてくださる。
 
 神よ、あなたの愛は、私のため息や涙を賛美に変えてくださる。
 魂の深みからあなたをあがめ、それは時間や場所を忘れさせます。
 良いか悪いか私は求めません。ただあなたのきよいみこころとの一致以外は。
 
 それこそは私の宝となり、わたしの益をもたらすものです。
 悲しみを喜びに変え、痛みから喜びを刈り取るのです。
 何が起ころうとも、それは十分です。
 神こそすべてのすべてであることを知ることこそ。
| 兄弟姉妹のブログより | 22:16 | comments(4) | trackbacks(0) |
喜びの爆発!

兄弟姉妹との交わりの麗しさ!

嬉しくて嬉しくて、踊りだしたい気分の朝です!

ブログを改めてご紹介します。あわせてコメントもお読みくだされば感謝です。

  主の素晴らしさを味わうことの喜びは言葉では表現し切れません。

 愛する姉妹のブログを通して、多くの兄弟姉妹がまことのエクソダスの意味に触れ、

 主がその真理の実際に、私、そして主を愛する兄弟姉妹を移してくださいますように! ハレルヤ!

     

旅の思い出
 
   ビオラさんのブログ

  

| 兄弟姉妹のブログより | 07:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
オズワルド・チャンバーズ 

ご紹介

   「Archive for the 'オズワルド・チャンバーズ霊想集(私訳)' Category」

  
http://www.midorinomakiba.com/?cat=4&paged=2


   いつも必要な、折にかなった助けを与えられています。

   鋭い語りかけの内に、示されることばかりです。

   じっくりと触れてください

   

| 兄弟姉妹のブログより | 00:46 | comments(3) | trackbacks(0) |
神の恵みと人間の恵み
 

 
イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
        ヨハネ18:11



18:1 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた」とある。「園」とはオリーブ山のことであり、エルサレムの町の端から、4,50m離れた近くのところで、「ゲツセマネの園」と呼ばれていた。「ゲツセマネ」とは「アブラしぼり」という意味で、名の通りたくさんのオリーブが取れたのであろう。主イエスは度々この静かな園に来て、祈りの時を持っていた。ここで主は汗が血となって滴り落ちるほどに祈っておられた。

 

ところが静かな祈りの場が騒々しい軍隊で埋まり、主は弟子からの裏切りに出会う、

18:3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた」

と同時に、ここに苦難にあえて立ち向かってゆく主の御姿を見る、
18:8 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか」。わたしたちはきょうここで、「神の恵み」「人間の恵み」の違いについて知らされるのである。

 

「神の恵み」「人間の恵み」とは異なる。
天と地の差がある。人間の恵みの基本は、まず「わたしの幸福」のなることであって、「神の栄光」のなることではない。
「人間の栄光」ばかりか「人間の恵み」のならない宗教や信仰はいらない、と普通は思う。人間の当然の心理。「わたしの幸福」の本質は、家内安全、無病息災、商売繁盛であって、そこでキリストを信じるとは、わたしの幸福がなることを、キリストがわたしの幸福のために働いてくれることを願うということになってしまう。

 

神の栄光、御心がなることは二の次になる。そこでは、わたしの幸福が適わない信仰に、恵みというものを感じない。これは人間の感情として当たり前である。
わたしたちは、いつもわたしの幸福が適う恵みを必要とし、願う。そこでキリストを信じるとは、人間の恵みが「わたしの幸福」としてなるという間違ったものになる。「神の恵み」がまず「神の栄光」を現す、という宗教はいらなくなる。

 

ここでは、恵みは、わたしの幸福を可能にする限りにおいて恵みであり、わたしを、或はわたしの家族を不幸にするような出来事が起きる信仰は、もはや恵みではない。当然。しかし、聖書を読む限り、神の恵みは必ずしも人間にとって、いつも「わたしの幸福」ではない。神の恵みは、人間の恵みと一致することもあるが、神の恵みとはそれだけではない。人間に対して、病気や災害を止めることをしない。その不条理を人間はわからない。

 

そればかりか、神が背後から人間に襲いかかることさえもある。そのことがモーセの出来事にもあるが、それを受け止めなければ聖書信仰にはならない。

神が神である故に、人間の恵みとは常に一致しない、そのような神の恵みを体験し、そのような神の恵みを語ることのできないような信仰者は、真実のキリスト教信仰が分からない。

神から来る災いを語ることの出来ぬ腰抜け牧師、人数を増やしたいだけの牧師はやめたほうが良い。

 

イスラエルは紀元前1,300年ごろ、出エジプトをした。旧約聖書宗教は厳密には、このときから始まる。しかし、紀元前586年にはバビロン帝国によって滅ぼされ、多くの人がバビロン捕囚となった。その時、戦争に負けた神を、即ち自分たちに災いをもたらした主を捨てるべきであった。古代の宗教は皆そうであった。しかし一部の人々は主を捨てないでメシアの誕生を待つ民となった。

 

「神の恵み」「人間の恵み」とは異なるのである。そして、大概、教会でキリスト者の口から出て来る「恵み」とは、御心がなる神の恵みのことではなく、わたしの幸福がなる、自分が喜ぶ人間の恵みのことである。「主の祈り」にあるように、まず「御名があがめられますように」と、何よりも先に神の栄光を求める祈りが出来ているかどうか。礼拝式文で「主の祈り」が先に来ているのはその意味。

 

人間の祈りではない、説教でもない。「御名があがめられる」祈りが先にある。それが真実な礼拝である。

神が御子に与えられた杯は御子にとって恵みではない。罪人でない者が罪人とされて十字架の苦しみと死を招く杯である。しかし、御子はその恵みではない杯を飲まなければならない。イエス・キリストに従う、或は御言葉に従うとは、自分にとって恵みではない苦しみの杯を飲むことである。

 

「飲むべき」苦き杯を飲むことが出来る人こそ、キリストの弟子である。「神の恵み」は必ずしも「人間の恵み」ではないのだ。しかし、それこそが本当の恵みとなる。

そういう恵みを知らずして、わたしの幸福が恵みだとしか知らない信仰者は、真のキリスト者にあらず。

神を「わたしの幸福」の道具に使ってはならない。

わたしたちも苦き杯を飲まなければならないときがある。
主は苦き杯を既に飲まれた。主はわたしたちの苦き杯を共に飲んでくださる。

 

          ★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜★

   
  
まったくもってアーメンです。


 「また自分の十字架を取ってわたしのあとに従わない者は、わたし(の弟子たる)に適しない。
  塚本虎二訳  ルカ10:38
  
 
 「
アーメン、アーメン、あなたに言う。あなたは若かった頃は、〔自分で〕あなた自身の帯を締めていたし、自分の望むところを歩いていた。だが、年をとれば、あなたは両手を拡げ〔るだけで〕、ほかの人があなたの帯を締め、あなたの望まないところへ連れて行くことになるだろう」。

        ヨハネ21:18

 
 ほかの人があなたの帯を締め、あなたの望まないところへ連れて行くことになるだろう

 これが、引き渡された人生、十字架を負って歩む人生である。

  十字架を負ってついてゆく、それがイエスが負われた十字架のように、自分のものであって自分のものではない、即ち、他者が負うべき十字架を自分の十字架として背負うことにある。

しかし、主は決してわたしたちを孤児とはなさらない。

主はわたしたちの苦き杯を共に飲んでくださる・・このことゆえに、苦き杯さえも飲み干すことができる者とされる。十字架の向こうに輝く、復活のゆえに、主と共に飲むことができるのである。


| 兄弟姉妹のブログより | 10:40 | comments(5) | trackbacks(0) |
羽化
 
電気屋さんのブログより転載



子供の時から蝉の羽化を見るたび
宝物を見つけたような気持ちになりました。
夏の長い陽も傾きかける頃、
木の根元に穴の中からのぞいている蝉の幼虫。
その奇跡はいつも暗闇の中で、ひっそりと行われている。
背中が割れ、エメラルド色した成虫が姿を現す。
それは虫とはいえ神々しい感じすらし、天上の姿の雛形の様です。
クシャクシャの短い羽が10分ほどで竹ひご飛行機のはねみたいにピンと伸びて実に、格好いいと子供ながら感じた。
白い羽が時間とともに透き通っていき日が昇るとそれは空に飛び立つ7年間も土の中にいたあの虫が。空を一度も飛んだことのない虫にそれをさせる情熱は誰が与えてくれるのか。

ちゃんと羽化するポイントは決して人が手を出してはいけないという事。
羽があんなにもシャンと伸びるのはお腹に用意されてある体液(私たちにすれば、備えられている血)を送り込んで伸ばすそうです。「吹き戻し」のピーヒョロ〜状態でしょうか。(蝉の羽は戻さないけど)

”いのちや記憶の連続性を失うことなく、「形造り直される」”とSaltさんは書いてくださいましたが、これが私、全てのクリスチャンにも起こると思うとすごいです。スーパーサイヤ人どころではありません。
蝉があんなに元気に鳴く事も納得です。それ以前は暗い所に長くいたのですから、ただ光が一定の強さで鳴き夏でも雲で陰るとやみます。雌が鳴かないのもキリストと私たちの関係?とにかく楽しみですね。蝉は以前の出る前の幼虫の体より大きな成虫が出てきます。さらに幼虫は重くどっしりしているのに、成虫は重さが無いように軽い、幼虫はのろまなブルドーザーの様な動きですが成虫はポップコーンの様にはじけています。

天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。
土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。
私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。

虫を通してでさえも自らを示して新しい命に導いてくれる神は、やっぱりすごいです。



             

                  

 ついでに・・・以下は私が投稿させていただいたコメントです^^

 
クマ蝉の羽化を、真近で見入ったことがあります。
その美しさといったら、ため息が出るほどでした。
羽化したてのクマゼミは、まさに金色。
時間と経過と共に黒が出てくるのですが、ただただ感動の一言でした。

朽ちゆく蝉にすら、ほんの数時間輝きが与えられているのですから、神の子とされた者の復活はいったいどのようなのでしょう!
本当に、スーパーサイヤ人どころではありませんね。笑

>ちゃんと羽化するポイントは決して人が手を出してはいけないという事。

そうなんですよね!
実は朝早くとってきた蝉の幼虫がカーテンで羽化を始めたとき、ちょっとだけ人の手がふれ、その蝉はそのまま死んでしまいました。

7年も暗い地中で羽ばたくことを待ち望んでいたのに、本当にかわいそうなことをしてしまったと、今でも思います。

ただ主だけでなされる。なんという霊的な影、そして真理でしょう!


 
| 兄弟姉妹のブログより | 07:16 | comments(2) | trackbacks(0) |