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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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イエスの血
 イエス様が十字架の上で、「完了した」と叫ばれたこと


旧約の時代、年に一度、「贖いの日」に大祭司が至聖所に入る時、犠牲の血を携えて入り、「贖いの蓋」に血を注ぎかけた。

それから、至聖所の真っ暗闇の中で、3時間務めを終えると、大祭司は、空の器を携えて現れ、

「完了した」と宣言するのだそうです。

 人々はこれをもって、犠牲が神に受け入れられ、罪が許されたことを知った。


 イエスが十字架上で過ごした3時間もまた、「完了した」の叫びを持って終わり、贖いは成し遂げられた


 イエスが流された血、永遠の契約の血が、まことの聖所に携え上げられ、永遠の贖いが成し遂げられた

 
 この血による新しい契約の中に、今、生かされている

 打たれし傷によって、私は癒された。

 流された血はその保障!ハレルヤ!

 

 
 
| 御言葉の分かち合い | 21:50 | comments(2) | trackbacks(0) |
慰めの神が褒め称えられますように
 

「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。

 私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。」

   コリント第二1:2〜



   
  

  キリストの苦難が溢れているように、慰めもまたキリストによって溢れている

 闇が深ければ深いほど、主から注がれる光は、なんと鮮明なのでしょう

 闇の中で輝くともし火は、信じて踏み出すほどにその足先を照らし、歩みを導く

 そして、慰めに満ちた優しく包む暖かな光となる

 また、その光は、キリストの各部へと広がり続ける分かち合う光

 いのちを共にしつつ、キリストご自身を形作っている。

 私たちが喜ぶ時、キリストは私たちを通してともに喜ばれ、

 私たちが苦難を共にしているとき、キリストも私たちを通して苦難を共にされる

 それほどに一つに結ばれており、主のいのちの中に生かされている

 今日も主は御体を通して、呼吸されている


 

 

 

 
 

 
 

| 御言葉の分かち合い | 07:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
御言葉の本当の真実を含んだイエスの証こそ



御言葉を語っているからといって、

主の御心を行なっているとは限らない

十字架を語っているから 

主からのものとは限らない

十字架を負って歩んでいると見えても 

主の十字架とは限らない

いのちを語っているように見えても

いのちを歩んでいるとは限らない

  
御言葉の本当の真実さを含み、主を証するいのちの言葉は

死からいのちへ 真に自由へと導くものである

「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです」

とおっしゃられた主の御言葉は本当に真実です。

   
 「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、 

 誠実、 
柔和、節制です 」 

                ガラテヤ5:22

| 御言葉の分かち合い | 08:27 | comments(1) | trackbacks(0) |
素敵なブログのご紹介
   
 baby♪さんのブログ  

 たびたびご紹介させていただいていますが、

 素敵な紅葉の写真がアップされています。

 お散歩したような素敵な気分になりますよ〜

   
 http://plaza.rakuten.co.jp/lululala/

  
 baby♪さんのブログの写真より。


                    


 
  そして、もう一つブログのご紹介

 現在パピーウォーカーをされている meekさんのブログ

       
Meek'sルーム 

 パピーを育てられている中で注がれている主の恵みの数々、豊かに流れこぼれてきます。

    おすすめのブログです。


  
| 御言葉の分かち合い | 08:28 | comments(2) | trackbacks(0) |
主と一つ
 

「ところが、行ってダマスコスの近くまで来ると、突然、天からの光が彼をめぐり照らした。

サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」という声を聞いた。

そこで、彼はたずねた、「主よ、あなたはどなたですか」。すると答えた、

「私はお前が迫害しているイエスである。」

      使徒9:3〜

 
 


 サウロは主の弟子たちを脅迫し、迫害し、男も女も縛り上げ、エルサレムに引いてくるためにダマスコに向かっていた。

その途中の出来事だった。

このときはすでにイエスご自身はこの地上にはおられなかった。でも主がサウロに現れておっしゃったことは、

「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と語られた

「なぜわたしを信じる者たちを迫害するのか」とは言われなかった。

「なぜわ・た・し・を迫害するのか」と仰せられたのです。


 この箇所を読むたびに、思い出すことがある。

 それは主人の闘病中に語ってくださった主の言葉を忘れることができない。

 初めて外来での抗がん剤を投与する日、主人を送ったあと、病院の駐車場に向かっているその時だった。

 主の御名を呼び求めながら歩いていると

 「私のために祈っていただけませんか」

 という御声を感じた。

 私はその御声を聞くと同時に、それが主人のことであることがわかった。主は、主人のことを祈るように言われたのではなく、

 私のために祈って欲しい・・と語られたのだ。

 私は・・・胸がいっぱいになって言葉を失い、驚きと共に涙がどっと溢れ出た。

 それほどに、主はご自身と、信じる者とを一つとしてくださっている。主の中で区別などないほどに

 ひとつとしてくださっているのだ。

 

 あなたがたはキリストのからだであって、
    ひとりひとりは各器官なのです。

        第一コリント12:27

 
   
   主の深い愛を褒め称えます。

   詩篇の歌を持って褒め称えます

   「全地よ 主に向かって喜びの声を上げよ

  喜びを持って主に仕えよ

  喜び歌いつつ御前に来たれ

  知れ、主こそ神
 
  主が私たちを造られた

  私たちは主のもの

  主の民

  その牧場の羊である

  感謝しつつ、主の門に

  賛美しつつ その大庭に、入れ

  主に感謝し、御名を褒め称えよ
 
  主はいつくしみ深く
 
  その恵みはとこしえまで
 
  その真実は代々に至る」

   詩篇100:1〜

 

  
   
 わたしたちのこの口は

 

| 御言葉の分かち合い | 12:43 | comments(2) | trackbacks(0) |
放蕩息子としてのイエス その3
 
       




「人間の血筋からではなく、人間の欲や意志からでもなく、神ご自身からお生まれになった彼は、ある日、ご自分の足台の下にあった全てのものをまとめ、ご自分の相続財産、息子としての称号、そして身代金をそっくり持って家をでた。

彼は遠い国へ・・・・・はるかかなたの地へ向けて・・・・・旅立った。


 そこで人間となり、ご自分を無になさった。彼のものであるはずの人々は彼を受け入れず、最初のベッドは藁(わら)であった!

 乾いた土地に張った根のように、私たちの目の前で彼は成長し、さげすまれ、最も卑しい者とされ、人は彼の前で顔を覆った。


 まもなく彼は追放され、敵意にさらされ、孤独を味わった。・・・・・・あらゆるものを惜しみなく与えつくした。彼の富、彼の平和、彼の光、彼の真理、彼のいのち・・・・・・・全ての知識と知恵の宝、そして、永遠のときを超えて隠されてきた神秘を与えた。

 すなわち、イスラエルの家の失われた子供たちのなかで自らを失い。病にある人たちと(問題のない人々とではなく)、罪人たちと(正しい者とではなく)、さらに、御父の国に入れると約束した娼婦たちと共に時間をすごしさえした。

 大食漢で大酒のみ、徴税人や罪人の仲間と見なされ、サマリヤ人、悪魔つき、神を冒涜する者として扱われた。

 その体と血にいたるまで、全てをお捧げになった。


 彼は自らの深い悲しみと苦悩に沈み、魂は錯乱した。絶望のどん底まで落ち込み、生ける水の源からはるかに遠ざかり、自らの父に見捨てられた者となり、釘づけになった十字架上で叫ばれた
「渇く」と。

 彼は塵の中に、死の影に、死んで横たえられた。そして、私たち全ての犯罪を負い私たちの罪を担い、私たちの悲しみを携えて降りて行かれた黄泉の底から復活なさった。

さらに、まっすぐに立ち、こう叫ばれた。

 「今こそ、私はわが父、あなたがたの父、わたしの神、あなたがたの神のもとに上げられる。」

 こうして再び天に昇られた。


 それから沈黙のうちに、父は、ご自分の息子と子たちの全て(なぜなら御子はすべてにおいて全てとなられた)をご覧になり、そして僕たちに言われた。


 「急げ!”一番良い服を持ってきてこの子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。食べて祝おう!知ってのとおり、私の子たちは死んでいたのに、生き返った。いなくなっていたのに、見つかったのだ!
 
 わたしの放蕩(惜しみなく与える)息子が彼らを全てわたしのもとに連れ戻してくれた」

 神の子供たちは皆祝宴に加わった。子羊の血で洗われ、白くなったマントをまとって。




           ピエール・マリー



     
        




  放蕩息子の物語にこれほどまでに福音が凝縮されていることに驚いた。

 「急げ!」と叫んだ父の喜びはどれほどであるか、新鮮な驚きに包まれる。

 「死んでいたのに、生き返った!」  この叫びこそ、父の喜びの絶頂!

 死からいのちに移されることを指折り数えて待ち続けておられた父の歓喜の叫びだ!

 果たして、わたしは、このいのちに生きていただろうか・・・・。

 父が喜び給うほどに、いのちの内を歩んでいたのだろうか・・・。

 霊によって始まったいのちを、いつの間にか知識としてイエスを知ることだけに満足し、

 いのちに生きていると錯覚してきたのではないだろうか・・・。

 多くの知識を持つことによって、逆にイエスのいのちから遠のいてきたのではないだろうか。

 主はわが内を住まいとして臨んでくださった。ところが、私自身は主の内に住まうことを

 日々の生き方によって幾度拒絶してきたか・・・。

 父は家でじっと待っておられた。ところが、放蕩息子である私は、その家から遠くはなれ、手っ取りばやく、満たしてくれそうな主以外の何かに小さな満足を見出そうとしていた。

内なるお方以外に目を向け続けていたことを

ただ、ただ、主の前に悔い改めた。
 
 


   
 「悔い改めて、初めの行いをしなさい。・・・」  黙示録2:5



 

 
| 御言葉の分かち合い | 09:54 | comments(2) | trackbacks(0) |
放蕩息子としてのイエス  その2
  
 ナウエンに示された放蕩息子としてのイエス・・・という奥義が、心の中に光を灯す。


、『私は、自分の父のところに、あなたがたの父のところに、私の神のところに、あなたがたの神のところに、のぼってゆこうとしている』と」。ヨハネ20:17

まことの聖所にはいりご自身の血をささげるために、私にすがりついてはいけませんとマリアに話したときの言葉だ。

今まさに成し遂げられた贖いの血を持って、父のところ、わたしの神のところに、あなたがたの神のところに、上ってゆこうとしている。・・・

この御言葉から、ヨハネの14章の「あなたがたのために、、わたしは場所を備えに行くのです」と語られた御言葉が浮かび上がってきた。

 罪のために死んでいた私たち=放蕩息子を天の父の家へと連れ帰るため、ご自身が父から離れた放蕩息子となられた。それは「惜しみなく与える」息子としてのイエスの姿だった。

「キリストは神の形のうちにあったが、

神と等しくあることを

固守すべきものとはみなさずむしろ己れ自身を空しくした、

奴隷の形をとりつつ。

さらに人間と似た者になりつつ、

人間としての姿において現れつつ、

己れ自身を低くした、」ピリピ2:6〜


 人間に似た者、人間の姿・・と・・・これはまさに、放蕩息子の姿になって・・ということに重なる。

 ご自身がむなしい放蕩息子の姿となられ、いえ、それ以上に、
どうか雇人なみにしてください」という放蕩息子の言葉よりも、さらに低い、奴隷の形をとられたのである。

 イエスのへりくだりの深さを心に感じ、胸が震えた。


 ピエール・マリーという方が、この放蕩息子としてのイエスの姿を詩的に、かつ聖書的な見方で書かれている。

  次回はその文章をご紹介します。
| 御言葉の分かち合い | 07:27 | comments(2) | trackbacks(0) |
いのちの言葉を語る
 しかし私たちは、「完全な者たち」の中にあっては、知恵を語る。しかし〔それは〕この世の知恵ではなく、またこの世の滅される支配者たちの知恵でもない。

むしろ私たちは、奥義の中にあって〔今に至るまで〕隠されてきた神の知恵を語る

のであって、それを神は、世々の〔創造〕以前に、私たちの栄光のために、あらかじめ定めておかれたのである。

この世の支配者たちのうちの誰一人として、その知恵を知ってはいなかった。もしも彼らが〔それを〕知っていたなら、「栄光の主」を十字架につけたりはしなかったであろうからである。

しかし、このように書かれている。

目が見ず、耳が聞かず、

人間の心にのぼりもしなかったこと、

そのことを神は、神を愛する者たちのために用意されたのだ。

 そして、まさにこの私たちにこそ神は、霊をとおして〔このことを〕啓示されたのである。霊は、すべてを、神の深みをさえも、探り尽すからである。

実際、人間のうちにあるその人の霊をほかにして、人間のうちの誰が、その人のことがらを知っているであろうか。そのように神のことがらもまた、神の霊をほかにしては、誰一人として知ることはなかったのである。

私たちはしかし、この世界の霊を受けたのではなく、神からの霊を〔受けたのである〕。それは私たちが、神によって私たちに恵みとして与えられたものを知るためである。

私たちはそれを〔知るだけで

なく〕語りもするのだが、それは人間的な知恵によって教えられた言葉においてではなく、むしろ霊によって教えられた言葉において〔語るの〕であって、霊的なものによって霊的なことがらを判断しながら、そうするのである。

しかし、自然的な人間は、神の霊のことがらを受け容れない。なぜならば、それはその人には愚かさだからであり、〔それをその人は〕認識することができないからである。というのは、それは霊的な仕方で判断されるからである。

しかし霊的な人は、すべてを判断し、彼自身は誰からも判断されることはない。

誰が主の思いを知っていただろうか。その人は彼に教えることをするだろうか。しかし私たちこそは、キリストの思いをもっているのである。」


   コリント第一2:6〜15


  
   神を愛する者たちに用意された奥義は、人の目からは隠されて、この肉の目、人の知識によっては知ることができない。
 
 どんなに人の説明の限りを尽くそうと、それを知ることはできない。

 神の事柄は、神の霊のほかにしては、誰一人として知ることはできない。

 ゆえに、恵みによって与えられたものを知ることができるように
知ることができるいのちが与えられた。

 内に与えられた霊によって、神のことを認識し、判断するようにと、主は愛する者にご自身のいのちを与えられたのである。

 同じいのちを持っているゆえに、神から与えられた恵みに共に与り、共に喜び、いのちを共有し、交わることができるのだ。

 
 霊のことは霊によって語りこむ。

人間的な知識や言葉は人の知識を呼び起こしても、いのちには触れることはない。

 だからパウロは

 「そして私の言葉も私の宣教も、知恵のもつ説得的な[言葉]によるものではなく、むしろ霊と力との証明によるものであった。

それは、あなたがたの信仰が人間の知恵によるものではなく、むしろ神の力によるものとなるためであった。」
 
 コリント第一2:4〜

 と語ったのである。

 そのことに目が開かれる時、言葉の知恵や説得力、巧みな説明が、かえっていのちを阻むことを知る。

 ただ主の中で生き、主と共に深く交わり、霊の言葉によって養われることなしに、どんな言葉を語ろうとも、私たちは言葉を持たないのと同じである。

 あなた方の信仰が、人間の知恵によるものではなく、むしろ神の力によるものとなるため・・・

 コリント第一2:5

  
 霊において教えられた言葉を語る・・者として

 主によって遣わされて行きますように。

 

 

| 御言葉の分かち合い | 07:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
いのちを注ぎだす
 〔つまり〕父なる神の予知によって〔選ばれ〕、霊によって聖化されており、イエス・キリストに従い、〔その〕血を注ぎかけられるようにと〔選ばれた人々に挨拶を送る〕。あなたがたに恵みと平和が増し加えられるように。

  第一ペテロ1:2  岩波訳



 ペニーさんがKFCでメッセージをされた。今回はお会いすることはできなかったが、彼女のメッセージを聞き、非常に励ましを受けた。

 今回のメッセージは「いのちを注ぎだす」というテーマだった。
以下はKFCメッセージのアウトライン

「 本日は英国のPennyさんのメッセージです。旧約聖書と新約聖書を通じて、血と水を注ぎだすことを見てみます。不妊の女ハンナは主の前に自分の心を注ぎだしていました。その中で新しいいのちを得ました。新約ではイエスご自身が十字架で血と水を注ぎ出しました。そこからいのちを得たのがエクレシアでした。私たちも御霊を受けて、そのいのちを自分の中にとどめ置くことなく、周りに流し出すとき、さらなる御霊のいのちを受けて、私たち自身が満たされます。このようにしていのちが循環することにより、神のいのちが拡大していくのです。このいのちの循環にとどまりましょう。 」

 
 いのちを注ぎだす・・というテーマを読んだだけで、私の心は喜びに満たされた。
 それは私の心の中に、このメッセージを聞くずっと以前から強い示しを受け続けていたからだ。

以前は流し出すといえば、主が私にしてくださったことを証すること・・ぐらいにしか思っていなかった。しかし主の思いはそれだけにとどまることはない。

 心に流れ込んでくるいのちの水の流れが、私の中だけにとどまることを望まず、まるで溢れ流れる場所を、水自身が強く求めておられるかのように感じていた。
 
 
 その血を注ぎかけられるように選ばれた・・のは、その血を注ぐため、注ぎだす者とされるためなのである。
 
 いのちを注ぐ・・ことについていつも心にある御言葉

 「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」

岩波訳では、「世にいる自分に属する人々を愛するにあたって、この人々を極みまで愛した。」。。。極みまで愛した。。


 イエスにとっていのちを注ぐということは

 神の愛を現すことであり、この上なく愛すること、極みまで愛することを意味していた。33年間の歩み全てが、イエスにとっていのちを注ぐ行為だった。その究極、結晶が十字架なのである。
 

 「それでは、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたも互いの足を洗い合わなければならない。

つまり私が自分たちに行なった通り、あなたがた自身も行なうようにと、私はあなたがたに模範を示したのである。」

 
 主が残された模範、そのお姿は、「ご自分を無にして、仕える者の姿をと」られ、弟子の足を洗われたのである。

 そして、ご自分を裏切ろうとしているユダにすら主は仕えられた

 
 いのちを注ぎだすとは、こういうことなのだと思わされている。

 自分を裏切る者に対して、愛を注ぐことは、いのちが流れ出る痛みそのもの。

 しかし、主は黙って仕えられ、愛し抜かれた。

  
 十字架に架り、罪を負われ、赦しを与えてくださった。その赦しは
 血を注ぎつくした愛である。

 

 いのちを注ぎだす、それは綺麗事じゃない。

 いのちを注ぎだすのだから、死を意味する。十字架を負って主についてゆくことであり、

 十字架とは、神の愛の極みの完全なる現れ、注ぎだす愛である。

 いのちを注ぎつくすまで、主の赦しを身をもって現すことを願うだろうか。

 

 人にはできないが、神には全てが可能である

 イエスキリストに従い、その血を注ぎかけられるように選ばれた

 主に従って、いのちを注ぐ器へとされるために。

  互いに愛し合いなさい・・・

 という御言葉が、互いに(いのちを)注ぎだしなさい・・と聞こえてきた。

     
| 御言葉の分かち合い | 23:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
主の衣の裾にある祝福

 「それゆえ、確信をもって恵みの座へと進み出ようではないか。時宜(じぎ)をえた援け〔をうる〕ため、憐れみを受け、恵みを見いだすために。」

  岩波訳 へブル4:16


神の座は本来、さばきの座。人は神の座の前で裁かれなければならない。罪人である私たちはそのさばきに耐えられず、とても自らそこに近づくことなどできなかった。

しかし、大祭司キリストの執成しによってそれは
怒りのさばきから恵みのさばきの座へと変えられたのである。

それ故、イエスを信じる者は「憐れみと恵みを受け、時にかなった助けを得るために」、御子を通し、確信をもって御座に近づく道が開かれたのだ。


 12年間もの間、長血を患った女性は、イエスの衣のすそにさわりさえすれば、癒されるとずっと言っていたことが御言葉の中にある。

 

すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。
matt 9:21
「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。
matt 9:22
イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。

    マタイ9:20〜

  

 主の衣、その裾は憐れみと恵みのしるし。また。主の権威のしるし。その裾を求めた女性はまったく癒された。

イザヤ書には
「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた」

または ルツ記には、

私はあなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾(すそ)を広げて、
このはしためを覆ってください。」


と書かれてある。

衣の裾(憐れみと恵み)は、神殿とされた私たちにまで振り降ろされ、私たちを覆い守っている。ゆえに神のもの、その神殿、御体とされているのだ。
そして、復活の主が、天の御座に座し、その御座から恵みの衣は神殿いっぱいに広がっている・・のだ。

その御衣を伝って確信をもって恵みの御座に近づくことができる。

なんて素晴らしいのでしょう!


私たちはその衣の上に座して礼拝する者とされている。

 あぁ、どうぞ、共に天のところに座らされていることの大きさを知ることができますように!

 御座の権威と栄光のいっぱいに広がっている所に、守られ、覆われている、この方のど真ん中に生き、動き、存在しているということを思い出してほしい。

 ゆえに、確信を持って恵みの御座に近づくことができるという
その素晴らしい特権に、感謝と喜びを持って 大胆に祈ろう!

| 御言葉の分かち合い | 07:19 | comments(1) | trackbacks(0) |