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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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十字架と復活の印を帯びる者へ
 「あなたには多くの働きあります。

多くの良い点があり、悪い点も幾らかあります。

しかし、それらが良いものであれ悪いものであれ、

重要なのは『私の死と復活の強力な衝撃力をあなたは帯びているでしょうか、それがあなたの内にあるでしょうか?』というこの一事なのです。

『私は生きている者です。かつて死にましたが、見よ、代々にわたって生きます』。

あなたが地上で国々の間にいることにより

――言葉によってではなく、まさに力によって――

この証しがなされているでしょうか?」。

諸教会に対するこの要求を、徹頭徹尾、こう正確に正しく要約できると思います。

その終わりはその始まりとどう対応しているのでしょう?

これがすべての基本であり、これから逃れることはできません

             「純金の燭台
」より


  
 
 十字架が語られることがない。

それはイエス様が私の罪が赦されるのために十字架に掛かられたということを

幾度も口で言い表すことを言っているのではない 

その人の生活のすべてが

キリストと共に十字架に付けられているもの、キリストとともなる死をくぐり抜けた

死の印、十字架の印を帯びたものであり

どうやっていのちに移されたのかわからないけれど、

確かに神がすべてのことをなされたのです

という復活の印、十字架と復活の証が語られることがないということである。

全てはこのことの中に神の栄光がある 

イエスが「栄光を受ける時が来た」と語られたのはまさにこの十字架を負って死ぬことであり

死者の中から初穂として起こされる、復活することであった

そして今も、絶えず、イエスの栄光とは「十字架と復活」にある


キリストの証人とは 十字架と復活の印をその身に帯びて日々歩む生き証人とされることである

死は私のうちに働き、いのちは他の人に働く

この十字架の働きの内に召される

キリストの弟子とされるとはそういうことである 

キリストに似た者になるということは、

キリストとともに十字架の上に

(ただ神だけがそこに連れて行ってくださる どうして自分からそこに行くことなどできよう)

ただ恵みによってキリストがおられる十字架の上へと導かれるのである。

深い深い痛みの中に置かれることなしに、

ほとばしりでるいのちの執りなし「父よ彼らをお許し下さい・・」という祈りの中へ

御霊によって祈らされる場所へと導かれることはない 

キリストの十字架の死にまでも従われた従順の足跡に、

神の恵みによって踏み入れる

へりくだったお方の霊とますます一つに溶け合わされてゆく

しかし、キリストとともに死んだのなら

キリストとともに蘇るのである。

復活はいのちが芽吹きのように、喜びで満ち溢れる

冬に固い蕾で覆われていた花が、咲きほころび始める姿は

なんと麗しく、美しいのでしょう

まして神が私たちのうちになされる復活のいのちの喜びは

どれほどでしょう!

  
 「彼は自らの前に置かれた喜びのゆえに、恥をものともせず、十字架に耐えた。そして神の座の右に着いているのである。」

  へブル12:2



















| 御言葉の分かち合い | 06:53 | comments(4) | trackbacks(0) |
私たち・・という恵み
 
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。


それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。


 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。


 私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。 」  

  コリント僑院В粥

 
  それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです・・・

  苦しみをともにしているように 慰めもともにしていることを

 私たちは知っているからです・・・


   アーメン 

 「私たちは」と何度も書いてある・・それが、「私・は・」と書いてないところが なんとも嬉しいのです。

  神は世の終りまであなた方とともにいます

 と、お約束してくださっていますが

 そのしるしであるかのように、 

 真実に神を共有し、共に知り、分かち合える存在を備えてくださっている

 福音を宣べ伝えるために、神は必ず二人で遣わされた

  なぜ二人なのか、単なる意味という事を遥かに越え、

 その深みは、計り知れない。

イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。 」

 
 イエスが食べておられたまことの食物を

 共に食べあう存在

 苦しみも共にし、慰めも共にする存在を

 備えてくださっているとは、なんということだろう!

 こうしてキリストの愛の深さ、広さ、高さを と・も・に

 把捉してゆくのだ


 わ・た・した・ち・は知っている とパウロは言っているが、

 そのように言える力強さは、神からの恵み以外何ものでもない

 それは

 そして、あなたがた自身も活ける石となって、霊的な家として建てられるようにしなさい、〔そして〕聖なる祭司団となり、イエス・キリストを介して神に受け入れられる霊的な生け贄を献げるようになるために。
 
 汽撻謄蹌押В

組み合わされたレンガとしてしっかりとイエスのいのちによって一つにされ、霊の家として建て上げられる

 その繋がりは どうしてこうなったのか分からないが、

 ただ、神がそうしてくださるのだ。

 イエスご自身が十字架の上で生贄となられた。

 その足跡に従うことの意味を いのちのつながり、すなわち

 「私たち」の繋がりの中で

 一緒に食し、味わい知ることを 神は望んでおられるのだ。

 苦菜も甘さも 「私たち」 が知るように

 神はあらゆることの中に、「わたしはある」という方である事を

 「私たち」は共に 見る

 なんという喜びでしょう

 「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」

 と言われた主のお言葉も、「私たち」の中で見るのです。


  キリストの体の素晴らしさ 

  なんて素敵なのでしょう それしか言葉が見つかりません。

  
  それは御父と御子と御霊、一つであられる神が

 われわれに似るようにと創造してくださった 

 神の似姿としての大いなる愛の味わいを 

 「私たち」の中に回復、いえ、新しく いのちを通して

 現して下さるためなのです!

 
 ハレルヤ!!
 
 


 
| 御言葉の分かち合い | 11:31 | comments(2) | trackbacks(0) |
主を仰ぎ見、神を待ち望む
   「 私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む

     私の神は私の願いを聞いてくださる」

        ミカ書 7:7


 主を仰ぎ見る、ということ 正直、初めはどういうことが仰ぎ見ることであるか

 さっぱりとわかっていなかった。

 目を閉じてイエス様を思うこと? 

 言葉上、仰ぎ見る・・だから、上を見上げて主を呼び求めること?

 賛美を捧げ、祈りを捧げることが仰ぎ見ているということ?

 教会に行き、

 礼拝の賛美の雰囲気に浸り、

 お祈りの時に・・主を向かうこと?

 

  これらの「行為」が主を仰ぐことだと思っていた。

 それらの行為をすることで、自分が神を仰ぎ見ていると

 いつの間にか思い込んでいた。

 確かに、それが間違っているということではない。

 しかし、主を仰ぐということは、これらの「行為」をしたこと によらない

 
 神のみ前に、主を仰ぎ見る  それは

 ただ一つの場所においてのみ  
 
 「十字架の上」  である

 
 手に握る多くのもの、自らのいっさいが死に渡される場所
 
 キリストと共に、私自身のものが尽き果てるその場所 

 私自身のもの言うとき、人は私の中の悪いもの、欠点、罪、取り除かれなければならない頑なさ、自己中心さ、傲慢さ・・など、だけを思うかもしれないが

 私の中のよいと思っているもの、忍耐、愛、自分の正しさ、自分の信仰、自らの聖、優しい所・・一生懸命さ、霊的さ、もっといえば

 賜物もすべてである。

 私のすべてが釘付けされる場所 十字架

 その場所に誰が好んで行こうと願うだろう 

 
 でも、主は、愛する者を、愛するがゆえにその場所へと導かれる

 その場所に置かれる事を通して、

 自らのもの(力)に頼って「主を仰ぎ見る」ことから、

いのち=キリストによって主を仰ぎ見ることを真実に学び始める

 パウロもコリント僑院В垢

 死を覚悟した時、それはもはや自分自身にではなく、死者たちを起こされる神にこそ信頼を置く者となるためであったと言っている。


 十字架(死の宣告)の上で 主を仰ぎ見る事がどのようなことであるのかを知り、

 すべてのすべてである

 このお方、キリストの死の力が私の上に働く事を・見・、

 キリストと共によみがえる、 いのちへと移されることの 

 復活の大能を見・る・からです

「死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。 」

       ローマ1:4
 
 復活を通して、大能によって公に神の御子が示されるのです!

 ハレルヤ!

 十字架を通して

 私やあなたの内にはっきりと神の御子が示されるだけにとどまらず、

 生けるキリストを見、また触り、聞いたキリストの証人とされるのだ

 もはや聞いたあのメッセージ、この聖会の話、誰々さんの証

 読んだ本の中からの知識、教理としてのキリストではなく、

  見て触ったキリストを証する者とされるのである

 
  
 キリストと共に十字架につけられ、共によみがえらされ、

 天の所にキリストと共に座らされている、ということを

知識として 知っていても、 それはなんの力にはなりません。 

いのちの法則を語っても、言葉だけの説明なら

いのちが注ぎだされることはありません。

いのちが注ぎだされるのは十字架の上です! 

立派な教会堂や講壇の上から注ぎだされるのではありません


十字架の上で、仰ぎ見ることによって神を待ち望み

 いのちへと移され

 実際に内に働く力そのものであるキリストを見、生きた証人として遣わされるのです。

 

  主を仰ぎ見る その場所へと導かれ、

 神を待ち望むことを 主から学ばされる事は主の深い憐れみ、そして、恵みです
 
 「私の神は 私の願いを聞いてくださる」

 もはや、肉の思いから出るわ・た・し中心の、わ・た・しの願望 からも自由にされ

 願い以上の、キリストご自身 が与えられていることの喜び、真の満足がキリストご自身にあり

 状況は何も変わっていなかろうが、

 平安なる主に満ちたりるのです。
 

 
   
| 御言葉の分かち合い | 07:07 | comments(2) | trackbacks(0) |
生きた証人


 今日、新しい透析の病院でいろんな方と挨拶をしつつも、

 そこに通い続けて25年以上という人に何人か直接お話を聞くことができた。

 なんという元気さ、顔色のよさ、透析をしていると言わなければ、普通の元気なオバちゃんだ

 
 転院先の病院での透析がいかに良いか、どんな説明を聞くよりも その人の元気な姿そのものが

 生きた証であることはいうまでもなかった。

 

 「来て、そして、見なさい。」  とピリポは言った

実に単純なのだ。 キリストに来、見れば分かる のだ

 「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。 」

  ヨハネ機。院В院

  
 

 キリストについての説明、キリストについての知識 ・・は十分に聞いてきた


  いのちの現れ  それを見たので とヨハネは言った。

 生き方の中に、生活そのものの中に

 見ることができるキリストを 持ち運ぶ証人 

 透析のこととはいえ、姿そのものを見ただけで

 どんな説明も吹っ飛ぶんだと、今日改めて思わされた

 

 

 
| 御言葉の分かち合い | 23:46 | comments(2) | trackbacks(0) |
従うこと
 主よ、どうぞあなたに従う事を教えてください。

心から祈り求める。


神が直接、その御手をもって刻み込んで下さる事を通してのみ、

従順を学ぶことができる


クロスステッチという刺繍は、小さな一つ一つの十字架の形からなっている。

色分けされた小さな十字架が縫いこまれ、全体の絵が完成される


神の計画された絵は、初めから見ることはできない。

しかし、一色一色に意味があり、決して無駄な色など、存在しない。

語られた御言葉に従うとき、御言葉を通して十字架の形が

一針一針の痛みを通して、内側に縫いこまれてゆくのだ。、

縫い込まれた糸は布地と一つにされ、神の御心にかなった絵、ご計画が完成されてゆく。

完成された絵を後に見るとき、すべてのことの中に神の御心があり、世の思いや常識を超えて

すべてを美しくしてくださる神の素晴らしさを知る。


 
あぁ、主よ、どうぞ、あなたのお言葉に、あなたのお言葉のみに従う事を教えてくださいますように・・・。
 

「墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、

石の板ではなく、人の心の板に書かれたものであることが

明らかだからです。 」
 コリント僑魁В

 
| 御言葉の分かち合い | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
泉のような交わり
 今日は午前中は姉妹と電話で交わり。

 はじめは特別な用件など何もなかったが、

 まぁ、ただ声が聞ければそれでいいかな・・

 なんて思って電話した。

 すべては神の導きのままに・・

 ところが、いざお互い話し出すと、まぁ〜でるわ、でるわ 次々と。

 主は思ってもいなかった御言葉の深みへとわたしたちを連れて行ってくださった。

 
 交わりの尊さを思う。 交わりの中で示されることは限りない。

 
 

 「キリストの奥義の幅、長さ、高さ、深さが、どれほどであるのかを すべての聖なる者たちと共に
把捉し・・人知を越えたキリストの愛を知って、神の全き充満へと満たされるために。」

 エペソ3:18 岩波訳

 すべての聖なる者たちと、と・も・に 把捉する  そう、逆に言うなら、

 一人では神の奥義のすべてを理解することができないのである。

 その究極はイスラエルの存在である。異邦人である私たちは 彼らがいなければ福音に与ることも出来なかった。

 彼らが今、かたくなにイエスを拒んでいるのは、私たちがその救いに与るためであった。

 彼らの存在は組み合わされたレンガとして、要の場所にしっかりと組み合わされるべき

 キリストの体なのだ。

 キリストの奥義の幅、長さ、高さ、深さがどれほどであるのかを 彼らの存在なくして

 真に知ることはできないのである。 

 
   主は、執り成す者を求めておられる。 

     イスラエルのために。
 
 
 「 兄弟たちよ、この奥義を知らずにいないでください。

それはあなた方が自分を賢いと思いあがらないためです。

奥義とは、1部のイスラエルが頑になったのは異邦人の完成が訪れるときまでで、

こうして全イスラエルが救われよう、ということです。

聖書に、「救い手がシオンから出、ヤコブから不信を遠ざけよう。

これこそ彼らとのわが契約、彼らの罪をわたしが除くそのときに」とあるとおりです。


福音によれば、彼らはあなた方ゆえに(神の)敵となり、


選びによれば祖父たちのゆえに(神に)愛されるものです。


神の賜物も招きも取り消されないからです。


かつてはあなた方が神に不従順であって、今はこれらの人の不従順によってあわれまれたように、


これらの人も今はあなた方のためのあわれみに不従順ですが、それは彼らも、今あわれまれるためです。


神はすべての人を不従順へとお閉じ込めでしたが、それはすべての人をおあわれみになるためでした。

                     ローマ11:25〜
 

| 御言葉の分かち合い | 17:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
10人の乙女の譬え 2
「 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから」

 黙示録19:7


 10人の乙女の譬え話で なぜ婚約後1年という期間なのかというコメントを頂いた。

花婿は離れを作ることなどを書いたが、花嫁について思い巡らそうと思う。

 ある姉妹がこの10人の乙女のたとえ話を読んで、すぐにエステル記を思い出されたと知らせてくださった。

「おとめたちは、婦人の規則に従って、十二か月の期間が終わって後・・。これは、準備の期間が、六か月は没薬の油で、次の六カ月は香料と婦人の化粧に必要な品々で化粧することで終わることになっていたからである。」(2章12節)

全くもってアーメンです!


この十二ヶ月の初めの6ヶ月は「没薬の油」の中に浸り続け

そうすることによって没薬の香りが絶えず体から香るようになるそうです。


没薬は溶かした油で死者をきれいに洗い埋葬するもの

この没薬の油に浸り続ける・・

十字架の苦難と死の中で、没薬の香りを身に帯び

そして芳香を放つ者とされる。

「死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。」
      コリント4:13

 の御言葉を思い出します。 

 さらにエステル記には
  
 「このようにして、(準備が整えられて)

 おとめが王のところに入って・・」

 いきました。 そして、


「 おとめは夕方入って行き・・」 

  と書かれて有ることはとても興味深いことですね
 
 
花婿なる主が再び来られるとき、夜=世の終わりには暗やみが覆います。

 そのために御言葉には


『主人が真夜中に帰っても・・』(ルカ12章38節)

『主の日が夜中の盗人のように来る』(1テサロニケ5章2節、黙示録16章15節)

「ところが夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。」(マタイ25章6節)
 
 と、書かれてあるのですね


 
 
 「準備が整った花嫁」  

 ユダヤでは、さらに夕方から夜の間に迎えに来る花婿を出迎えるために花嫁が用意しておくのはランプの手入れと松明(たいまつ)です。

新郎が結婚を祝う仲間たちとともに新婦の家に出かけます。

その音を通りから聞きつけ、花嫁は素早くベールをまとい、花婿に会うために通りへ案内されます

この時、介添人達はタイマツにランプで火を付けて盛大な明かりを灯して行きます。(たいまつ=木の小枝の束に布を巻き、それにオリーブ油などをしみこませた物。)

火をつけると15分ほど赤々と燃えますが、油が切れると消える。長く持たせるに通常、別の油を用意します。


なので、5人の愚かな乙女らが、花嫁が準備すべき油を用意していなかったということは、うっかりということなど考えにくく、ユダヤの人たちにとっては首をかしげるような、全く考えられないことなのです。


 
 
 
 
 
| 御言葉の分かち合い | 10:12 | comments(4) | trackbacks(0) |
十人の乙女の譬え

そこで、天の国は次のようにたとえられる。
十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出ていく。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていた。

ところが、花婿が来るのが遅れたので、皆眠けがさして眠り込んでしまった。真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がした。
そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。
「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。賢いおとめたちは答えた。
「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買ってきなさい。」
愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿を一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。

その後で、ほかのおとめたちも来て、「御主人様、御主人様、開けてください」と言った。しかし主人は、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。
 


 マタイ25:1〜13

 
 日本とは違うユダヤの婚姻の背景を理解することで、見えてくる多くの事柄があります。ユダヤでは結婚が成立するまで3つの段階がありました。

一つは婚約です。これは単なる約束事ではなく、法律上の夫婦とみなされるのです。
ですから婚約破棄は、離婚と同じ手続きになりました。

婚約した後、花婿は花嫁から身を遠ざけ、父の家に帰り、父の家に妻を受け入れる部屋

離れを建てるのです。畑を耕し作物を作り、・・と花嫁を迎える十分な準備を整えます。

そしてその期間はおおよそ一年間であるといわれています。

花婿も、約一年たったら再び花嫁を迎えに行くことが出来る事、そしてそれは決まって夜になるということだけは知っていましたが、いつであるという正確な日にちは父だけが知っていました。

おおよそ一年の準備期間を経て、花婿が建てた離れのできばえを見て

そしてはじめて父からゴーサインの後、花嫁を迎えに行くことができました。


 花嫁自身も、花婿がおよそ一年後に戻ること、そしてそれが夜になるという事だけは知っていたのです。

 
  ここまでの背景だけでも、あちこちでお語りになられた主のお言葉を思い起こします。



 
 「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。

わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」

   ヨハネ14:2〜

  

「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。 」

 マルコ13:28〜

 
 「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。

 天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。 」 

  マルコ13:32


「腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。

主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。

帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。

まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。

主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。

 このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。」

 ルカ12:35〜


 このルカの12章35節の前には、神の国を求めること、天に宝を積むこと、

 そして、

「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。 」

 と話されたすぐ後に 腰に帯を締め、あかりを灯していなさい。と続くのです。


 10人の乙女らの心がどこに有るのか、このたとえはそのような視点から読み解くことが大切ではないかなと思わされます。

賢い、すなわち、宝なる花婿にいつも心がある乙女5人は 再び迎えに来られる日が近づいた事を、イチジクの木のから学ぶようにして見分け、決まって夜に来る花婿のために、

ともし火を灯して出迎えるために、肝心な油を整えておくことは自然なことではないでしょうか。

 同じ花嫁でありながら、まだ迎えに来ないだろうと、

 花婿以外のものに心を奪われていたために油断=文字通り油を絶やしてしまった愚かな乙女5人

 は、この油断する姿から、

 マタイ24:48に書かれてある悪い僕のたとえと重なります。

 「それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、
その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、・・・思いがけない日の思わぬ時間にその僕の主人が帰ってくる・・というお話しです。


よくよく考えてください。逆に言えば

 花婿が再び来られる時まで、花嫁には十分に油を整えておく時間が与えられていた、

 ユダヤ式でいうなら、一年という準備期間が花嫁の側にも与えられていたと言うことになります。

 花嫁の心が、その十分な準備期間の間、心、花婿にあらず、主人はまだまだ帰るまい、

 ということが

 油を整えていなかったことに表されているのではないでしょうか。
 
 
 
 そして、油は聖霊の象徴とされています。

 だとするなら、なおのこと、足らなかったら、あわてて買いにでかけたり、人からもらったりするようなものではありません。

 日々、宝なるイエスの内にとどまり、御霊に満たされ、御霊によって歩む生活が、油を用意している賢い乙女だとするなら、

 愚かな5人の乙女らは、そうした日々主とともにある歩みそのものが、欠如していたことになるのです。


 
 この続きはまた.+:。☆(-∀・*)
   
  
 





 
| 御言葉の分かち合い | 08:12 | comments(12) | trackbacks(0) |
ヘブル的視点から
 最近、ヘブル的な視点(イエスの時代に話されていた言語、その生活背景)から聖書を解釈することに対して、道が開かれてきている事を思います。

御言葉はもともと、その時代のヘブル的表現、ユダヤ的背景をもって語られていたもの

ところがへブル語からギリシャ語へと翻訳され、

その段階で、本来、イエスが伝えようとされた意味とは違ったもの、ボタンの掛け違いのような訳へと置き変わってしまっている所が意外と多いことに気がつかされ、目から鱗状態です。


それが今の時に、イエスが語られたへブル語、そして、その時代背景から理解することへの道が

開かれてきていることは、神の不思議な恵み、導きを感じます。



   そのうちの一つ   (以下は牧師の書斎より簡単にまとめました)


  「 
狭い戸口を通って入るよう、〔必死に〕努めよ。なぜならば、私はあなたたちに言う、多くの人が中に入ることを求めるが、それができないからだ。」

  岩波訳  ルカ13:24

 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」

 共同訳 

 「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。」

 新改訳  


  どの聖書も「努力する、必死に」 というように訳されています。

 原文のギリシャ語は「アゴーニゾマイ」という言葉が使われていて、

「競技で勝敗を競う、福音のために苦闘する、獲得しようと努力奮闘する」

という意味から、努力とか、必死に、全力を尽くして、というような訳になるのは仕方のないことです。

狭い所に大勢の者が押しかけることで狭き門というのであれば、「アゴーニゾマイ」でも構わないはずです。

しかしここで言われている「狭き門」とは「それを見出す者がきわめてまれであるという意味です(マタイ7:13〜14も参照)。とすれば、「努力して」という言い回しはどうみても不自然になります。
    

 ヘブル語はここを「アーマツ」という言葉が使われています。

これは励ましを意味する言葉だそうです。

強くあれ、雄々しくあれ=ヘブル語で「ハザク・ヴェ・エマーツ」で

後者の「エマーツ」אֱמָץが「アーマツ」אָמַץの命令形で

これは「雄々しくあれ」という激励用語なのだそうです。

そしてこの御言葉が語られた背景には 少数であることに対する恐れがありました。

文脈の流れの中で、ルカ12:32に「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」とあります。

小さいこと、少ないことを恐れる者にイエスは神の国は将来必ず大きく膨れ上がること

文脈は神の国について「からし種」と「バン種」の二つのたとえが語られた後です。

「多くの者たちが見向きしなくとも、注目しなくとも、雄々しく、勇気をもって、いのちに至る門から入るように」

と励ましていると同時に、継続的に「雄々しくあり続ける」ことが

(ヘブル語の時制は完了と未完了の二つしかないことから)求められているのです。



 ギリシャ語から伝わってくる意味とは随分違う事を思わされますね


 だれでも大きいことや多いことを求めます。しかし、

多くの者たちがそうした広・い・門から入り、広い道を歩もうとします。

しかしイエスの言われるのはそれとは真逆です。


多くの者たちが見向きしない門、注目しない道を歩むためには、

小さいこと、少ないことを恐れることなく、常に、いつも雄々しくいのちに至る門から入るようにと勧められているのです 

しかし、このことを知り、狭き門から入る人は・・また まれなのかもしれません。

        
 

「私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、

 初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、

私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。

 それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。 


  ルカ1:1〜


     
| 御言葉の分かち合い | 15:34 | comments(2) | trackbacks(0) |
あなたは私の受ける分です。ということの深さ

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。

主のあわれみは尽きないからだ。


それは朝ごとに新しい。

『あなたの真実は力強い。


主こそ、私の受ける分です。』と

私の魂は言う。

それゆえ、私は主を待ち望む。」

哀歌3:22〜24



  かつて罪のゆえに父ヤコブから呪いを受けた種族がいました。 

レビ族です。

レビはヤコブの三番目の子どもで 創世記34章のヤコブの娘ディナが汚された事件を通して、ディナの兄シメオンと共に卑劣なやり方で異邦人を殺害、略奪するという事件を起こしてしまいます。

その結果、父ヤコブの臨終のとき父から祝福の言葉ではなく、呪いの言葉を受けたのです。

「シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。

わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。彼らは怒りのままに人を殺し、思うがままに雄牛の足の筋を切った。

呪われよ、彼らの怒りは激しく、憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間に分け、イスラエルの間に散らす」

 創世記49:5〜


 最も祝福してほしい存在だった父から呪いの言葉を受けた事を思うとき、

 その罪が与える結果の大きさは計り知れない痛みが伴うことを思います。

  
 ところが、呪われた種族となったレビ族が、やがて、
 
 神の祭司と変えられる時がやってくるのです。

 それが出エジプト記32章の出来事です。

シナイ山でモーセが神からの律法を授かって山から降りて来た時、

「 モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、

アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」

 民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。

 彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。

 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。

 彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。」

(同32:1〜)

その光景を見たモーセは宿営の入口に立ち

「だれでも主につく者は私のところに。」と語りかけたその声に真っ先に応答し、

神に立ち返ったのが、レビ族だったのです。

なぜ、彼らは真っ先に立ち返ることが出来たのでしょうか。

父ヤコブから与えられた呪いの言葉が闇のように覆っていたに違いありません。その期間はどれほどであったでしょう。

呪いの最中に有る痛み、それは死の期間であったに違いありません。

長いスパンを経て

その痛みは、彼らの心を砕き、主へと向かせ、飢え渇きを起こさせ主を求める土壌を耕していったのではないでしょうか。

罪から来る痛みと苦味、悲しみ、呪いを経験的に知っていたレビ族

 罪のゆえに、呪われた部族が神の祝福を人々に分かつ部族に、

割り当てられた土地ではなく、

神ご自身を相続の地として分け与えられる民として変えられた事を思うとき、

神のいつくしみと憐れみの大きさに、涙するのです。



 罪を経験的に知ることは、痛みもあり、悲しみもあり、自分のような者は神から祝福を受けることすらも値しない者であることを 経験を通して知ることはとても辛いことです。

しかし、 それを知る、それは神の恵みです。

 神に立ち返ることによって与えられる神ご自身の憐れみの大きさと、恵みの深さがいかに大きく

いかに深いのかを・・・ 罪を知って身を持って知った痛みから、

この身をもって神の恵みを知る者へと変えられるのです。

なんという神の憐れみの深さ

恵みの奥深さでしょう!! あぁ、主よ!!

あなたは私の受ける分です、と、告白させてくださる恵みを知るにに至るまで

どれほど己の愚かさに涙することでしょう。

しかし、神は十字架を通し、死からいのちへと移してくださる

最も役立たずの呪われた罪人であった者が

あなたをゆずりの地として受け継ぐ

それは日々、あなたを受け継ぐのです。

死の痛みと悲しみという入口を通って、

あなたが来てくださる

あぁ、主よ・・・

受けるに値しない者に恵みを与えられる神

心から仰ぎ、礼拝いたします。 


「 罪の増し加わる所に恵みも満ち溢れました。」  

     ローマ5:20

 

 
 

 
 

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