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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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神とともに歩む
 「エノクは神とともに歩んだ」  創世記5:24

 「信仰によって、エノクは死を見ないように移された。神が彼を移したので、見いだされなかった。というのは、移される前から、神に喜ばれていたことが証しされていたのである。

信仰をぬきにしては、喜ばれることは不可能である。神〔の御前〕に進み出ようとする人は、〔神が〕存在し、ご自分を希求する人々に対して報いる者になることを信じたはずだからである
                      ヘブル書11:5



  「歩む」を意味するもともとの意味は

 エノクは神と腕組みをしながら、行き来し、出入りし、あちこち歩き回り、いつも神と語り合い、神とより親しくなっていった。という意味

 エノクは365年生きたことと、神とともに歩んだ、と創世記に書かれてある。

神と共に腕組みをしながら365日、365年間生きた(歩んだ)のだ。

 神とともに歩むこと、すなわち、

主を呼び求めることと、己の道を捨て、自らの計画を捨てることは一つである。

日々この地上での生活に対して、罪に対して死に継ぎ合わされ続ける

神と腕組みをして歩むという言葉に十字架を思う。


「 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。

 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。

 主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。

私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」
 
  イザヤ55:6〜

  
 
 

| 御言葉の分かち合い | 08:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
神とともに歩むということ
「 信仰によって、エノクは死を見ないように移された。神が彼を移したので、見いだされなかった。というのは、移される前から、神に喜ばれていたことが証しされていたのである。」
                 ヘブル11章5節

「エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。
エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。
そして、息子、娘たちを生んだ。
エノクの一生は三百六十五年であった。
エノクは神とともに歩んだ。
神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」

                創世記5章21〜24節

   エノクについて知ることができる記事は他の箇所には見当たらない 

 しかしこの短い文章の中で、深く思わされることがある。

 注目すべきは、エノクは65歳でメトシェラを産んでから

 神とともに歩んだことだ。

 何と、この「メトシェラ」と言う名前

 「メト」は死や死者を意味し、
 「シェラ」は「シャーラッハ」で「送る」という意味。
 
 自分の子供にそのような意味の名をつけるほどの何かを

 エノクは経験したのだ

 そのことについて聖書は何も語っていない。

 しかし、メトシェラが生まれて後、

 確かにエノクは神とともに歩みはじめた
 
 メトシェラの名前については、メトシェラの死後、ノアの洪水が起こっており、
 
 神の裁きが送られた、と意味するものであるとされている

 しかし、一方で、

 「死を通して、神とともに歩む人生を送る」

 ともとれるのではないだろうか。

 それがどのような出来事だったのか、知るすべはない。

しかしその出来事そのものに意味があるのではなく、

キリストの内にともに死を通ることにこそ、真の価値がある

 わが子に「死」と「送る」 と名付けるほどに

 彼が死の中を潜り抜けたからこそ、 

死を見ないように移されたのだ


 「神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」 (創世記5:24)

「生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」
 (1テサロニケ4:16,17)

この御言葉のごとく、エノクは神とともに歩む者たちの型なのだ

 
「わたしにむかって『主よ主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。 マタイ7:21

 おのずと、「父の御旨を行なう者」ということが見えてこないだろうか。

 「主はあなたに告げられた。 人よ。何が良いことなのか。 主は何をあなたに求めておられるのか。 それは、・・・あなたの神とともに歩むことではないか。」
                ミカ 6:8  

 御言葉について多くのメッセージが語られ、また解き明かされ、それについて学び、知ること、益することもまた多い。しかし

 いのちに至る道は「わたしが道である」と語られるお方の中を 
 
 通ることだ。イエスのごとく
 
 日々、十字架され、復活に至る歩みは

 人の目(肉の目)には隠されている 

 ちょうど黄泉が人の目には隠されているがごとくである。

 しかし死を通していのちへと至る。

 いのちとはイエスを知ることであり、

 イエスを知るとは、この身をもってイエスの死に継ぎ合わされ

 死を通って、まことのいのちへと生きながら移されることだ

 
 エノクのように死を通して神・と・ともに歩み、移される前から

 神に喜ばれていたことが証される歩みである。

 
    「 エノクは神とともに歩んだ。」 

                 創世記5:24
 

  この短い言葉の中に、いのちが凝縮されている。
 

 
 
 
 
| 御言葉の分かち合い | 06:53 | comments(4) | trackbacks(0) |
平安を与える計画
 「わたしはあなたがたのために立てている計画を
よく知っているからだ。―の御告げ―

それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、
あなだがたに将来と希望を与えるためのものだ。 」
          エレミヤ書29章11節   


あなた方のために立てている計画・・と,この箇所はよく取り上げられる所でもある。

立てている計画とは、 神がお与えくださる青写真を片手に、

遂行してゆくようなイメージだろうか。

  それは「平安を与える計画である」と、はっきり書かれてある

  
 そして、イエス様は「わたしの平安を与える」、とおっしゃられた。
 

  「わたしは、あなたがたに平安を残します。

わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。

わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。

あたながたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」

 ヨハネ14:27

 
   わたしの平安 とは「安らぎ」や「安息」とは異なり

  シャーロームとしての平安 それは恐れや不安に打ち勝つ力

 としての平安だ

  御父との深い交わりから来る、

 すなわち父と一つである、ところからくるイエスの平安です。

  この平安を与える計画こそ、神が立ててくださたもの

 イエスが持っておられた平安を内に持つ、
 
 すべてを超えて、立つことのできる力 

 イエスの平安の内を歩む

 
  ハレルヤ!

  

| 御言葉の分かち合い | 01:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
ひとつであるということ
「私が良い牧者であって、私は自分の〔羊たち〕を知っており、私の〔羊たち〕も私を知っている。

父が私を知っており、私も父を知っているのと同様である。そして私は自分のいのちを、羊たちのために棄てる。」

 ヨハネ10:14,15

「私の羊たちは私の声を聞き、私も彼らを知っており、彼らは私について来る。」

 ヨハネ10:27





  細き声、その声が主のものであるか、

 どうして見分けるのでしょう。

御言葉を用いて囁きかけたサタンの声を、

荒野で聞き分けられた主は


父が私を知っており、

わたしも父を知っている・・と言われた。

知っている・・それは知識で知ることではない。

いのちとして知っているということだ

それは、わたしが父におり、父がわたしにおられる・・ように

内に住まわれるキリスト、そしてわたしもイエスの内におることである

それは、父の家に共に住むことであり、

父の愛とのかかわりの中にとどまることである


そ・し・て、主がご自身を捨てて従われたように、

日々十字架の主とともに釘付けられ

いのちを捨てて主の足跡に従う者とされる





 
| 御言葉の分かち合い | 09:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
土殺しの様子

以前、「まことの陶器師の手の中で」

という記事をブログで書いたことがある。  ↓


 http://toku-sati.jugem.jp/?search=%A4%DE%A4%B3%A4%C8%A4%CE%C6%AB%B4%EF%BB%D5%A4%CE%BC%EA%A4%CE%C3%E6%A4%C7


 土殺しの様子 you tube より






 陶器師の、土くれに対して伸ばされた手に神を思う。


  「あなたもわたしの手の中にある。

 わたしがあなたにする・・・」


 
  ろくろの上で中心に向かって幾度も伸ばされては押しつぶされ

 土は殺される

 

  わたしがあなたにする・・

  と仰られたお言葉は、まことに真実。

  粘土に加えられる力加減の絶妙さ  

 そして、器へと完成されていく一つ一つの工程の

  そのすべてをご存知で 一切の時を熟知しておられる。

  このお方にすべてをゆだねる幸い
 
 

  陶器師の気に入った器は やがて

 陶器・自・身が望んでいない場所へと遣わされる
 (ヨハネ21:18)

 造り手のいのちのしるしをたずさえて・・・。
  


 
  

 
  
  

 
| 御言葉の分かち合い | 08:27 | comments(2) | trackbacks(0) |
ただ主だけでこれを導き
 「神はわれらの避けどころ、わたしたちの砦

苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。

わたしたちは決して恐れない。

地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも。

海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに、山々が震えるとも。

大河とその流れは 神の都に喜びを与える

いと高き神のいます聖所に。

神はその中にいまし 都は揺らぐことがない。

夜明けとともに、神は助けをお与えになる。

すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。

神が御声を出されると 地は溶け去る

万軍の主はわたしたちとともにいます。

ヤコブの神はわたしたちの砦の塔

主が成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される

地の果てまで 戦いを断ち 弓を砕き槍を折り 盾を焼き払われる

「力を捨てよ、知れ、わたしは神。

国々にあがめられ この地であがめられる」

万軍の主はわたしたちと共にいます。

ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」

  詩篇46:1〜

 
 

 主が成し遂げられることを仰ぎ見よう!!

 ハレルヤ!

 ただそれだけだ。

 それだけじゃないか!

 しかし、そこに至るまで

 神はどれほどに待たれておられることだろう・・・

 力を捨てることを知り、

 ただ主だけを待ち望む者とされる。そのために。


| 御言葉の分かち合い | 09:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
主のみ姿が・・

 今朝洗濯物を干しながら、思いめぐらしていた御言葉

 唾をかけられる・・ということと


 「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは

 何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
                   マルコ7:15

 という御言葉を思いめぐらしていた。

 実際に唾をかけられることはめったにあることではない

 しかし、主に従っていく道の先に、その経験の中へ導かれる

 思わず逃げたくなる衝動に駆られる・・・

 しかし、私自身、主に幾度つばを吐きかけてきたことだろう。

 聖い御顔に、数え切れないほど、

 私の中から出てくる汚れを持って・・・。

 主に、唾を吐きかけてきたのだ

 しかし主は、黙って受け止め続けてくださった

 そのみ姿が 痛みを伴って迫りくる

 アーメンと、主のみ足元にひれ伏した。

 
 


・・・
すなわち、彼は異邦人たちに引き渡されるだろう。

そして彼はなぶりものにされ、暴行を受け、唾をかけられるだろう。

そして人々は彼を鞭打って殺すだろう。そして三日目に、彼は甦るだろう」。

しかし彼ら自身は、これらのうち何一つ理解しなかった。またこの言葉は、彼らからは隠しおおされており、語られたことを彼らが知ることはなかったのである

 ルカ18:32〜
 

| 御言葉の分かち合い | 07:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
ザアカイ
 


 毎年この時期になると庄内川でさえずる雲雀の声を耳にする。

 囀りながら高く上がっていくのは、縄張り宣言らしい

 縄張り宣言か・・いいですねぇ

「 主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。
測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」
  詩篇16:5、6


 測り綱は、いわば、縄張り宣言。主ご自身をゆずりの地、相続地として

 いのちを豊かに掘り起こす、それはただ信仰を通して

 イエスがどういうお方なのかを知ることにある 

 主こそ私の受ける分!!

 

 「さて、彼は、エリコの中に入った後、〔そこを〕通り過ぎようとしていた。

すると見よ、ザカイオスという名で呼ばれていた男がいたが、この彼は徴税人の頭で、彼自身、金持ちであった。

そして彼は、イエスとは何者なの

か見ようとしたが、群衆のためにできなかった。彼の背が低かったからである

そこで前方に走り出て、いちじく桑の木に登り、イエスを見ようとした。彼がまもなくその道を通り過ぎるはずだったからである。

さて、イエスはその場所に来た時、目を上げて彼に対して言った、「ザカイオスよ、急いで降りて来なさい。私は今日、あなたの家に留まることになっているから」。

そこで彼は、急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

すると皆は、〔これを〕見てつぶやき始めて言った、「彼は罪人である男のもとに入り、泊まろうというのだ」。

一方ザカイオスは、立ち上がって主に対して言った、「ご覧下さい、私の財産の半分は、主よ、乞食の者たちに与えます。また、もし私が誰かからゆすり取ったことがあるなら、四倍にして返します」。

なおイエスは彼に対して言った、「今日こそ、この家に救いが来た。なぜなら、彼もまたアブラハムの子だからだ。

実に人の子は、失われたものを探し、救うために来たのだ」。


 
 先日の礼拝で

 ザアカイさんの箇所を示され交読した。

 3節の「彼は、イエスとは何者なのか見ようとした。」

 というところが内側に飛び込んできたからだ。

 いちじく桑の木に登ること

当時、エリコの町には至る所に棕櫚の木が生えていた

さほど高くないいちじく桑の木より、高く伸びた棕櫚の木に登った方が、

主イエスを良く見ることができるのに、

何故、ザアカイは、わざわざいちじく桑の木に登ったのであろうか。

 こんな解説を見つけた。

「いちじく桑の木が出てくる、もう一つの聖書の箇所が引用されています。
それは、旧約聖書アモス書の7章14節です。テコアの預言者アモスは、ベテルの祭司アマツヤの圧迫を受けたとき、こう答えています。

「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ」。

アモスは、自分は羊飼いであって、いちじく桑を栽培する者だ、と言っています。

当時、そのままでは渋くて食べられない、いちじく桑の実を甘くするために、実の一つ一つに針を刺し、そこにオリーブ油を塗り込んだそうです。これは、非常に時間と手間のかかる仕事で、貧しい羊飼いの仕事とされていたそうです

普段、棕櫚の木に登る人はいませんが、羊飼いたちは、実を手入れするために、いちじく桑の木に頻繁に登っていたのです。

ですから、ザアカイが登っていても、特に珍しいことではなく、それほど目立たなかった。

それが、ザアカイがわざわざいちじく桑の木に登った理由ではないか」 というものだった。


最も身分の低い者の仕事であったいちじく桑の木に登ることは

たとい、羊飼いと間違われることさえも構わない、それほど、イエスを見たかった、イエスを知りたかった

イエスが自分にとってどのようなお方なのかを知りたかったという必死なザアカイの求めを見る

5節にはさらに心躍らされるイエスの言葉が続く

 「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、あなたの家に泊まることにしてあるから。」

 この、「家に泊まる」というお言葉。

 7節の人々の反応のつぶやきの中にも 「宿を取られた」という表現が出てくる。

 家に泊まる、宿泊するという言葉は、

 ヨハネ15章の「とどまる」という意味と同じである

 神の言葉そのものであるお方が、ザアカイの内側に臨まれたのである。

 「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」

 ザアカイのうちにとどまることを望まれた主

 ザアカイは、急いで降りてきて、、そして、大喜びでイエスを迎えたのだ!!

 最も貧しい羊飼いの仕事をしていると間違えられても構わないほど、

 彼はへりくだって主を求め、イエスのお言葉を喜んで受け入れたのである。

 
 
  「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
   ローマ10:17
 

 
 このザアカイの必死な求めはただ、イエスがどのような方であるのかを知りたいと願った。

 彼はイエスの言葉を聞いて、

 「主よ!」

 と告白したのだ!

 なんという変化であろう!


 このザアカイの記事はまるで、これから救われる人々に対して語られているかのように

 読む傾向がないであろうか。

 紙芝居で子供たちに読み聞かせ、なんどこの話に触れただろう。

 読まなくってもわかっている・・みたいに思われがちな箇所だ。

 しかし、イエスがどのようなお方かを見ようと、ただそのことのために

 なりふり構わずへりくだって求める姿は、強烈に心に迫った。

  生ける言葉との生き生きとした関係の中に、イエスは招いてくださっている

 生ける神の言葉は、内側で死からいのちへと移す力があるものだ。

 ザアカイは、

 8節 「主よ、ご覧下さい。 私の財産の半分を貧しい人たちに施します。

 また、だれからでも、私がだまし取った物は、4倍にして返します」

「主よ、ご覧下さい!」 なんという応答だろう!


 主を知るということは、このようなことなのだ!!

 
 「きょう、救いがこの家に来ました。」 ルカ19:9

 「きょう、ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。」
 
         ルカ2:11

 羊飼いに語られた御使いの言葉が

 イエス様のお言葉と重なります。それは

 羊飼いのように身を低くして求めたザアカイに

 イエス様がザアカイの思いの全てをご存知で

 語ってくださったことを思わされます。

 主は本当に素晴らしい!
 
 

 

| 御言葉の分かち合い | 07:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
オルナンの打ち場から
 「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に
誇りとするものが決してあってはなりません。

この十字架によって
この世は私に対して十字架につけられ、
私もこの世に対して十字架につけられたのです。」

 ガラテヤ6:14


 アブラハムがイサクを捧げるということ

 彼にとって、イサクは神ご自身によって与えられた存在であり、イサクを通して
神の約束と契約が与えられる、アブラハムにとってイサクは神の祝福の印そのものであったに違いない。

 しかしそのイサクを捧げるようにと告げられることは

 
 神によって与えられた望みそのものを、言わば宝そのものを

 塵と灰の中に置くようなものだ

 これは人の思いを超えたことだ

 人は、神から与えられたという確信に基づくものを、それを誇りとし、望みとし、

 そこに希望を置いてしまう

 この弱さは、今の時代もおなじである。

 目に見えるものに希望を起き、望みを託す。

 しかし主はそのようなものの上にご自身の御身体を建てられるのではない

 

 歴代誌21章は、サタンの誘いによってダビデが罪を犯すことから始まっている。

 神はそのダビデの罪によって7万人のイスラエルの民が倒れてしまう。

 エブス人オルナンの打ち場に主の使いは立たれた。

 ダビデは、抜き身の剣を手に持つ、主ご自身を見るのである。
 その姿を見たダビデは荒布で身をおおい、ひれ伏す。

 主がどのような方であるのかを知るとき(見るとき)自らの真実の姿を知る。

 荒布で身をおおう・・主によって照らし出された自らの罪そのものの姿をさらけ出し、

 取り繕うこともなく、また周りに顕にされた状態のまま・・ 

 衣は聖書ではその人の状態を表すからだ。

 つまり荒布でおおった姿は、

 自分が主の前にどのようなものであるのかを表しているのだ

 オルナンの打ち場に象徴された十字架は、その人の真の姿を露わにする

 そして、真に誇るべきお方(見る)知るのである。

 
こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現わされた所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。」 歴代誌僑魁В
 
 この場所に祭壇が築かれ、ダビデの子、ソロモンによって主の宮が建造される
 
 アブラハムがイサクを、誇りとしていた宝を灰の中に置いたモリヤの山、そして、

 ダビデにご自身を現され、刺し通されたオルナンの打ち場、

 神の裁きと深い憐れみが示されたこの場所に、

 やがてイエス・キリストが十字架にかかられる場所となる



  

 詩篇132篇

 『主よ。ダビデのために、彼のすべての苦しみを思い出してください。

 彼は主に誓い、ヤコブの全能者に誓いを立てました。

「私は決して、わが家の天幕にはいりません。私のために備えられた寝床にも上がりません。

私の目に眠りを与えません。私のまぶたにまどろみをも。

私が主のために、一つの場所を見いだし、ヤコブの全能者のために、御住まいを見いだすまでは。」

今や、私たちはエフラテでそれを聞き、ヤアルの野で、それを見いだした。

さあ、主の住まいに行き、主の足台のもとにひれ伏そう。

主よ。立ち上がってください。あなたの安息の場所に、おはいりください。あなたと、あなたの御力の箱も。

あなたの祭司たちは、義を身にまとい、あなたの聖徒たちは、喜び歌いますように。

あなたのしもべダビデのために、あなたに油そそがれた者の顔を、うしろへ向けないでください。

主はダビデに誓われた。それは、主が取り消すことのない真理である。「あなたの身から出る子をあなたの位に着かせよう。

もし、あなたの子らが、わたしの契約と、わたしの教えるさとしを守るなら、彼らの子らもまた、とこしえにあなたの位に着くであろう。」

主はシオンを選び、それをご自分の住みかとして望まれた。

「これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。

わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせよう。

その祭司らに救いを着せよう。その聖徒らは大いに喜び歌おう。

 そこにわたしはダビデのために、一つの角を生えさせよう。わたしは、わたしに油そそがれた者のために、一つのともしびを備えている。

わたしは彼の敵に恥を着せる。しかし、彼の上には、彼の冠が光り輝くであろう。」

       
 

詩篇132篇は

 ダビデ自身の罪によって苦しんだ苦しみから、ダビデは神の裁きとそして神の憐れみを知る

 サタンからくるもの、人の思いからくる肉のもの、主以外に誇るものはオルナンの打ち場、抜き身の剣によって刺し通されなければならない。

 
 このように、人は罪ゆえに十字架の上で裁かれ死に追いやられ徹底的に取り扱われる。そのようにして初めて

 神の憐れみの深さを内側で知るものとされるのだ

オルナンの打ち場(宮の建造地となる)から

 詩篇132:13〜「主はシオンを選び、ご自分の住み家として望まれた

 これはとこしえに私の安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。」と

主は語られる。

  なんという憐れみに富んだお言葉だろう。裁きを通して、罪を知り、荒布をまとってひれ伏すしかないほど、自らの汚れを知るものに対して、

 そのようなお言葉を持って臨んでくださるお方なのだ

 ヨハネの福音書に、「イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、」 ヨハネ2:25

 というお言葉があるが、

 この御言葉を読むに付け、神は、ご自身をどれほどに人の内側にお任せになられたいと願っておられるのか、と思うのだ

 十字架こそ、その神の願い、みこころを成就する

 十字架は、その人自身を徹底的に死に明け渡し、

 神によって砕かれ低くされた、まったく新しく創造されたいのち、

 復活のいのち=神のものとして(神の御住まいとして)

 真に勝ち取る力がある

 

 オルナンの打ち場で主に触れたダビデは

主のために祭壇を立てるために犠牲を払う。(歴代誌毅横院В横押

代価を払って打ち場の地所を買い取るのだ


 民のために、その犠牲を払う、十字架の交わりが象徴されている。


 いのちを注ぎ出すことなしに、いのちに触れることはできないのだ。

 主はそうしたダビデの捧げものを受け入れられ、火を下し、お答えになられた。

 裁きと憐れみが出会い、憐れみが勝利を得る場所 十字架


  「 そこにわたしはダビデのために、一つの角を生えさせよう。わたしは、わたしに油そそがれた者のために、一つのともしびを備えている。」
   
 ダビデを通して、「ひとつの角」、「ひとつの灯火」であるキリストを備えられる神

 
 あぁ、素晴らしい主、

 裁きと憐れみを知る者の幸い。十字架の権威のもとに

 立つことの意味 主がご自身を捧げられたように、
 
 捧げることの意味を知り、十字架を負って従うものの前に

 ひとつの灯火が備えらる

 その灯火を携えて、出てゆけばいいのだ。

 主を褒め称えます。

 


 
  
 

 

 
 
  

 

| 御言葉の分かち合い | 10:48 | comments(4) | trackbacks(0) |
神の取り扱い
 30日に名大にて乳がんの定期検査にいってきました〜

結果は異常なし!

(o ̄∇ ̄o)♪ イエェイ!

 もう手術をして丸2年もたったのか〜と改めて思い返す。

 名大に近づくだけで、胸がいっぱいになる。

 私にとってこの場所は、オルナンの打ち場であり(歴代誌機。横院В院繊

 神の裁きと憐みを知らされた場所

そして、憐みが勝利を得た場所である。

 すべてのことは、憐れんでくださるためなのだ。


 歴代誌21章は、サタンの誘い込みによって、ダビデは人口調査をするように命じる。

 そのことに対する ヨアブの進言の言葉は次のようであった。

主がその民を百倍にも増やしてくださいますように。主君、王よ、彼らは皆主君の僕ではありませんか。主君はなぜ、このようなことをお望みになるのですか。どうしてイスラエルを罪のあるものとなさるのですか」
 
  
このような声にもダビデは耳を傾けなかった。 耳を傾けない・・このダビデの姿の中に、

人の内にある頑なさを垣間見る。 イエス様は新約でなんども「聞く耳のあるものは聞きなさい」と言われた。

 しかし、罪、己を求める思いは、その聞く耳を閉ざし、見ていても見えず、悟ることができないようにしてしまう。

 サタンの誘い込みを神がお許しになるのは、人の内にその足場となる引っかかり、

つまり神のことを思わず、人の栄光を求める思いが

その人の内側に横たわっていることをご存じなのである。


厄介なことに自分はそのような思いなど微塵もないと思い込んでさえいる。

神のためにやっているのだと、熱心に奉仕し・・ているが、

その多くは自己の栄光を求めるためにしている

・・しかし、それさえもまるで閉ざされたかのように、見えない、気づかないのだ


ダマスコ向かう途中、イエス・キリストに出会う前のパウロが、まさにそうであった。

彼はイエスキリストのことを聞いていたし、知識として聖書も知っていた。しかし、

彼は、自分が良いと思うことに非常に熱心だった。誰よりも律法を熟ししていた。

神に熱心に使えていると自負もしていた。

しかし、自分の思い、自分の計画、自分の信念によって、神に遣えようとすることは、

イエスご自身を迫害することとかわりないのだ。

イエスを真に知るまで、彼は本当の意味で神に遣えることはできなかったのである。




主以外に誇り(頼り)とするもの 自己に栄光を帰すものは取り扱われなければならない。

 神はそのことをよくご存知である。

 その人自身が決して握って離さない「自己」・・それを手放すことは、神の深い取り扱いなしに

 できないのだ。。その深い取り扱いこそが、十字架なのだ。

  
 この続きはまた^^ 透析に行ってきま〜す



 
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