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十字架の恵みが溢れて

主が治めておられます。私たちはそれを大胆に断言します。
私たちの主イエス・キリストが治めておられます。
彼は万物の主です。
なにものも彼の権威を損なうことはできません。
中国と日本における主の権益を損なうために世に出てきているのは、霊の軍勢です。ですから、私たちは中国のために祈りません。日本のために祈りません。
私たちは中国と日本におけるあなたの御子の権益のために祈ります。
私たちはいかなる人も責めません。なぜなら、彼らはあなたの敵の手の中にある道具にすぎないからです。
私たちはあなたの御旨のために立ちます。
おお主よ、暗闇の王国を粉砕して下さい。
あなたの教会に対する迫害があなたを傷つけているからです。アーメン

〜ウオッチマン・ニーの祈り〜
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法則であって祈りではない

「霊の解放」より


神が私たちを対処し、わたしたちそのものを砕き、霊を解放して、わたしたちが自分の霊を使用することができるようにされるのは、神の法則によるのであって、私たちの祈りによるのではありません。
これはどういう意味でしょうか。

それは、わたしたちの内なる人は、私たちの、砕かれた外なる人を経過して出てくると言うことです。

これは一つの法則であって、私たちの祈りはこの法則を左右することは出来ないのです。法則は祈りによって変えられることはありません。

あなたが祈りながら手を火の中に入れたとしても、あなたの手はやはり火傷をまぬがれないでしょう。(奇蹟のことではなく自然のことを言っています)

あなたの祈りはその法則を変えることは出来ません。ですから、私たちは神の法則に服従する人になるように学ばなければならないのです。

 祈りさえすればそれでよいと考えてはなりません。

もし、手を火傷したくなかったら、火の中に入れないことです。

祈りながら、手を火の中に入れるものではありません。神が私たちを対処されるのは法則によってです。

内なる人は必ず外なる人を経過して出てこなければならないからです。これは一つの法則です。

もしあなたの外なる人が砕かれ、ひかれて粉になっていないなら、あなたの内なる人は出てくることができません。

とにかくこれは主の道であって、主は必ずあなたそのものを打ち破らなければならないのです。

そのとき始めて主が出てこられる道が出来るのです。私たちがこの法則に服従しないで、多くの祈りをもってあれもこれもと祝福を求め続けてはなりません。

このような祈りは無駄であり、神の法則を変えることは出来ないのです。


 霊的働きの道では、神が私たちから出てこられるのでなければなりません。

ただ、この道だけが神の用いられる道であります。

砕かれていない人からは、福音も、神も解き放たれる方法もないのです。またその人自身にとっても歩むすべがないのです。

私たちは神のみ前にひれ伏さなければなりません。どんなに多く祈るよりも、神の法則に服従する方がさらにまさっています。

無知のために神の祝福を求め

 「神よ、私たちのためにこのようにしてください。あのように働いてください」 と求めることは、神の道はこのように歩むものだということを知った一分間の祈りにも遠く及ばないのです。

このような祈りは無益ですから、それをやめて、神に向かって

 「神よ、わたしはあなたのみ前にひれ伏します」と言う方が、さらにまさっています。

多くの場合、わたしたちの祝福を求める祈りはみな妨げとなっています。

多くのとき、私たちは祝福を切望しますが、かえって神のあわれみを見ることができないようです。

神が光で照らしてくださるように求め、み手の下に服従すること、この法則に服従することを学ばなければなりません。この服従の結果が、私たちの切望する祝福そのものであります。


.。.:*・☆彡.。.:*・☆彡.。.:*・☆彡.。.:*・☆彡.。.:*


  「私は心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って
 わたしから学びなさい。
  そうすればたましいに安らぎがきます。」マタイ11:29

 

   
  心優しく、へりくだっている=柔和さと謙遜

旧約聖書レビ記2章には、

 「人が主に穀物のささげ物をささげるときは、ささげ物は小麦粉でなければならない。その上に油をそそぎ、その上に乳香を添え・・」

 と出てくる。

 小麦粉は粉々に砕かれた「謙遜」を表し、そして小麦粉が象徴する第二のことは「なめらかさ」=「柔和」ということです。

 十字架の対処をうけることは、この小麦粉にあらわされた
御子のご性質でそものもである謙遜と柔和さがその人のうちに形造られることである。

 
  このことを、神から学んだ人は幸いです。


  あぁ、時間です。透析に行ってきます!

| ウオッチマン・ニー | 07:09 | comments(2) | trackbacks(0) |
助けを得る

 助けを得るのに全く異なった2つの道が私たちの前にあることを認識しなければなりません。

一つは、

教理やその解説によって外側から〜思いによって〜助けを受ける(見たところでは正しい道)です。この道によって大いに助けられてきたという人も多いことでしょう。しかしながら、それは神が真に意図しておられる助けとはあまりにもかけ離れた(助け)なのです。

もう一つは

霊で霊にふれる道です。
わたしたちの霊のいのちが造り上げられるのは、
知力が進んだり、知識の宝庫を取得することによるのではなく、
このような触れ合いによるのです。

誰も欺かれることがないようにしましょう。

この道を見出してはじめて、
私たちは真のキリスト教を見出したことになります。
この道によってのみ、
わたしたちの霊は造り上げられます。



 たとえば、あなたが説教を聞きなれているなら、
同じ説教者から同じ説教を二度と聞くことは
疑いなくわずらわしいことでしょう。
この説教は一度だけ聞けば十分だと
感ずるにちがいありません

これはあなたがキリスト教を単なる教理
〜頭に正しい知識を貯えること〜と思っているからです。

造り上げられるとは教理の問題ではなくて、
霊の問題であることを知らなければなりません。

その兄弟が霊から話すなら、例えその主題がどんなに熟知しているものであっても、また、何度も聞いたことがあるものであっても、彼が霊から出てきてあなたに触れるたびごとに、
あなたは洗われきよめられるのです。

霊をよみがえらせる結果とならない教えや教理は、

すべて死んだ文字にしか過ぎません。



 もう一度言いますが、

砕かれた人にはきわめて注目すべきことがあります。

あなたが人を助けることができるばかりではなく、
人を助けることによってあなたもまた助けられます。

主を求めている罪びととともに祈っていると、
あなたも内側が強められます。

大きな間違いを犯した兄弟を厳しく叱責するようにと、
主に導かれることがあっても、
それによってその兄弟の霊がよみがえらされるだけでなく、
あなたも内側で造り上げられます。

霊が触れ合うごとにあなたは助けを得ることができます。

体全体が一肢体として
あなたに供給していることを知って驚嘆します。
体のどの肢体でもあなたの必要を満たすことができ、
あなたは助けられます。

あなたはからだ全体の供給を受けるものとなります。
これは何と豊かなことでしょう。

「かしらの豊富は体の豊富であり、体の豊富は私の豊富だ」

と真に言うことができます。

このことは単なる頭脳的知識の増加とは
なんと大きな相違でしょうか。


     :.。:..:*゜..:。:.::.*゜:.。:..:*゜..:。:.::.*゜:.。:..:*゜..:。:.::.*゜:.。:..:*゜゜:.。:.

  

>あなたが人を助けることによってあなたもまた助けられる

この言葉は以前、サンダーシングのメッセージで
触れたことがあった。
でもその時は、文字通り以上のことは理解していなかった。

助けを受ける〜他の人の霊を私たちの霊にふれさせる〜

ということは全くわかっていなかったのでる。

よく思い描くことがある。

受ける・・ということは、受ける本人の霊が聖霊の取り扱いを受けて、へりくだった状態にあるということ

 たとえば、水差しから水を注ごうとすれば、コップは絶えず注がれる水を受け取るために水差しの注ぎ口より下におかなければならない。

 注ぎ口より上においては決して注がれるということはないからだ。水は絶えず低いほうへと流れる。いのちの水もまた、低くされた人、砕かれた人へと流れ込む。
助ける人が

 外なる人が砕かれていない状態では、例え他の兄弟姉妹の霊が解き放たれて、主のいのちが流れてきても、助けを本当の意味で受けることができない

キリストの体が建て上げられるということ・・

 人をよみがえらせ、造り上げられるのはこの霊と霊のふれあいであるのです。ゆえに

 今キリスト教会で見られる依存関係やもたれあいは、互いに愛し合うということとは全く違うということが見えてくるのです。

 
 ニーは言います。

 「外なる人が砕かれるということはいかに必要なことでしょう。私たちが助けを受けたり、人を助けたりするにはこれが基本的な要件であって、それ以外の問題はあり得ません。」

| ウオッチマン・ニー | 08:56 | comments(4) | trackbacks(0) |
神との交わり

 交わりとは、人の霊を神のみ前に開くことを意味します。

霊が神に開かれるにつれて、人の思いも開かれます。

これは神が、光を授け、御言葉を供給し、印象を受け、

生きた触れ合いを提供してくださるための機会を与えられます。

それはまた魂が、神に触れること、瞑想し、熟慮すること、

そして心が神に近づくことを学ぶ特権を与えられるのです。

これがつまり神との交わりです。

| ウオッチマン・ニー | 20:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
祈りの秘訣・・その2

 この世の人々にとって、祈りはただ2つの焦点を持つだけです。
私はもっていない。だから私は祈る。
祈りの後、神は私に与えてくださる。

たとえば、私は昨日時計のために祈った。
数日後主は私に時計を下さると。
これは無からある物への移行です。

しかしキリスト者にとっては第三の点があります。
この2つの間にある点、すなわち、信仰です。
もし私が時計のために祈って、
ある日神はすでに私の祈りを聞いてくださったと主張できるなら、その時私は信仰の点まで到達したのです。

私の両手にはまだ何もないけれど、
私の内側では私の時計をもっているのを知っています。
数日後、時計が手に入ります。
キリスト者はどのように霊の中で受け取るのかを
知る必要があります。
さもなければ彼らは信仰も霊的洞察も持てません。

人々は熱心に祈らなければなりません。
彼らは信仰が与えられるまで祈るべきです。

私たちは第一の部分を
無信仰から信仰までの祈りということができましょう。

第二の部分は信仰から実際の所有までの賛美です。

なぜ私たちは祈りをこの2つに分けるのでしょうか。
それは一度信仰を持ったなら、
人は祈りではなく、賛美ができるだけだからです。
もし彼が祈り続けるなら、彼の信仰はなくなるでしょう。
彼は神に思い出していただき、
速やかに成就していただくように、賛美を用いるのです。
神はすでに与えると約束してくださったのですから、
何をそれ以上に求めることができるでしょうか。

世界中の兄弟、姉妹たちはこのような経験をしていました。〜

信仰が与えられた後では、それ以上の祈りは不要です。
なすべき一つのことは
「主よ、私はあなたを賛美します」
ということです。

悲しいことにはある兄弟たちはこの知識を持っていません。
神はすでに約束されました。
なおも彼らは祈り続けています。
それで彼らはすべてのものを失うまで祈ります。
これはまことに大きな損失です。


 どのようにして人は自分の信仰を維持すべきでしょうか。
主を賛美することによってです。

「おぉ、主よ、私はあなたを賛美します。
あなたが私の祈りを聞いて下さったからです。
あなたは一ヶ月前に聞いてくださいました。」

マルコ11:24にあるみ言葉は、何と尊いものでしょう。
この尊い聖句においてよりも、
信仰が素晴らしく表明されているところは、
新約聖書のどこにもありません。

 「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすればその通りになります。」

 ここには3つの主な点があります。

 一 、手に何ももたないで祈る

 二 、信じる。まだなにももたないで。そして

 三 、信じる。そしてそのものが手中にある。

 
初信者が、祈りが何であり、
それほど祈りが生活の中で
大きな役割を果たすものであるかを
本当に知りますように。

| ウオッチマン・ニー | 15:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
祈りの秘訣

 主は言われました。
「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。
そうすればそのとおりになります。」

彼は受け取るだろうと信じれば、その通りになる」
とはおっしゃいませんでした。

兄弟たち、鍵を握りましたか?
真の信仰はすでに「それは成った」のを知っています。
神様ありがとうございます。
主は私の祈りを聞いてくださったからです。

 初信者に、私の経験からものを言うのをお許しください。
祈りは2つの部分に分けられるでしょう。
最初の部分はなんの約束もなしで、
約束が与えられるまで祈ること、
神の御言葉なしで、御言葉を受け取るまで祈ることです。

 すべての祈りはこの方法で始まります。
神に求めることで祈り、求め続けます。
ジョージ・ミュラーの場合は、
ある祈りは1分のうちに聞かれ、
他のものは7年後にもまだ聞かれませんでした。
この部分は、祈りの部分です。

 第二の部分は、約束が与えられた点から、
約束の成就まで、
神の言葉を受けたところから御言葉の成就までです。

 この期間は祈りではなく賛美をすべきです。
そうです。
最初の部分は祈りであり、第二の部分は賛美です。

言葉のないところから、
神の言葉までの最初の部分は祈りなさい。
神の約束を受けたところからその約束が成就するまでの、
第二の部分は賛美しなさい。

 
 これが祈りの秘訣です。

  W・ニー

| ウオッチマン・ニー | 14:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
出て行くことと戻ってくること
 
 ある兄弟が主を信じてから二年後に、ブラザー・ローレンスの『神の臨在=敬虔の生涯』という本を読みました。それを読み終わった彼は、自分がブラザーローレンスのように絶えず神の臨在の中にとどまることができなかったことを、とても苦痛に感じました。そのころ、彼はもう一人の兄弟と一時間後とに一緒に祈ることに取り決めていました。なぜかと言いますと、聖書に『絶えず祈りなさい』とあるからでした。彼らはそれを変えて、「一時間ごとに祈りなさい」にしたのでした。
それで柱時計が時報を告げるのを聞くと、そのたびに彼らは祈るのでした。彼らは神の臨在の中に絶えず自分自身を維持することはできないと感じていたので、神の中に戻ることに最大の努力を尽くしました。それはあたかも彼らが仕事をしている間は神から離れてしまっているので、急いで神の御前に戻ってくる必要があるかのようでありました。あるいはまた彼らが勉強している間は神から飛び出してしまっているので、すばやく神のみ前に引き返さなければならないかのようでした。
そうしなければ一日中神から離れていることになるのでした。彼らはよく祈りました。日曜日は一日中、土曜日は半日、祈りに費やしました。こうしたことが2,3年続きました。
それでもなお、困難がなくなりませんでした。戻ってきたときは神の臨在を覚えましたが、出て行ったときには、それがなくなりました。もちろん、これは彼らだけの問題ではありません。

多くのキリスト者の経験もこれと同じです。これからわかることは、私たちは自分の記憶によって神の臨在を維持しようとしているということです。私たちの記憶にしたがって神の臨在があったりなかったりするのです。これは全く愚かなことです。

なぜならば、神の臨在は霊の中にあるのであって、記憶の中にはないものなのです。

この問題を解決するために、わたしたちはまず、外なる人が砕かれるという問題を解決しなければなりません。私たちの感情も思いも神と同じ性質のものでないために、神と結び合わされることはできないのです。ヨハネの福音書4章は、私たちに神の性質とはどのようなものかを示しています。神は霊です。私たちの霊だけが神と同じ性質のものであって、永遠に神と結び合わされることができるものなのです。ですから、もし私たちが自分の思いを働かせて、神の臨在を得ようとすれば、思いが集中していないときは、あたかも、神の臨在がないかのように思われます。また感情を働かせて神の臨在を呼び起こそうとすれば、感情の緊張がゆるむと、神の臨在はなくなるように思われます。とてもうれしいとき、私たちは神が臨在しておられるからだと思っているので、うれしさがなくなると臨在もなくなってしまうのです。あるいは、私たちが悲しんで涙を流しているとき、神の臨在を覚えると思うかもしれません。しかし、私たちは一生涙を流し続けることはできないのです。すぐに私たちの涙はかわき、同時に神の臨在もなくなってしまうのです。私たちの思いも感情も人の力に過ぎません。すべての行為に終止符が打たれなければなりません。行為によって神の臨在を維持しようとすれば行為を止めるときに神の臨在もなくなってしまうのです。

臨在には性質が同じであることが必要なのです。ただ、内なる人だけが神と同じ性質なのです。それによってのみ、神の臨在がはっきりしてくるのです。外なる人が行為の中に生きているとき、内なる人を妨げます。ですから外なる人は内なる人の助けとはならないばかりか、妨げとなります。外なる人が砕かれるとき、内なる人は神の御前で平安を得ます。

私たちの霊とは、神が私たちに与えて神に応じることができるようにされたものです。しかし、外なる人はいつでも外側のものに反応を示しています。このために私たちは神の臨在を楽しむことができないのです。私たちは外側のものをすべてなくすことはできませんが、外なる人を砕くことはできます。外側のものを停止することはできません。この世の何兆何億のものは依然として働いているのです。何事が起こっても、ただちにわたしたちの外なる人は反応を示すのです。このように私たちは安らかに神の臨在を楽しみ続けることができません。ですから、神の臨在を経験するためには、私たちの外なる人が砕かれていることがその条件なのです。
| ウオッチマン・ニー | 21:52 | comments(8) | trackbacks(0) |
真の姿は隠せない
  一人の兄弟が聖霊について話しているとします。彼の題目は聖霊でありますが、彼の言葉、彼の態度、彼の例話の隅々まで彼自身があふれています。どういうわけかわからなくても、聴衆は彼の話を聞いていると苦痛を覚えます。
彼の口は聖霊でいっぱいですが、彼が聴衆に与える印象は彼自身です。このような空虚な話にどんな霊的価値があるというのでしょう。少しもありません。

道理を強調するよりは、私たちから出てくるものが何であるかということにもっと重点を置きましょう。

神は私たちの道理が進んだかどうかということには注意をはらっておられません。
神は私たちひとりびとりを対処することを願っておられるのです。もしわたしたちの本来与えられている性質が十分に対処されていないなら、私たちはいわゆる霊的な道理を教えることはできても、人に霊的な印象を与えることはできないのです。私たちがただ外なる人の印象だけを与えて、内なる人に、いのちの印象を少しも与えることがないということは、なんとあわれなことでしょう。

何度も何度も神は私たちの環境を按排して、私たちの頑迷な点を砕こうとされます。あなたは一度ならず、二度も打たれたかもしれません。さらに3度の打撃が必要です。
神はあなたを放されません。神はあなたの頑強な点を砕くまで手を休められません。

聖霊が管理よって私たちの身に成就することは、私たちがメッセージを聞いているときに起こることとは全く違っています。私たちが聞くメッセージは多くのとき数ヶ月、あるいは数年も心に残っていて、それからようやくわたしたちの身に効力を発するものです。

このように聞くことが先になっていて、真のいのちに入ることが後になることが多いのです。しかしながら、聖霊の管理では、私たちが真理を見ることと真理を得ることとは同時なのです。
私たちがメッセージを聞いて、知識だけ得ることでは素早くても、管理によって実際を学ぶことでは遅々として進まないというのは、なんとおかしなことでしょう。
一度聞けば私たちは記憶してしまいますが、しかし十度管理を受けてもまだわからないのです。

管理がその目的を達成する日は、あなたが真に真理を(見て)、その実際に入る日であります。

ですから、聖霊の働きは一方ではあなたを取り壊し、もう一方では、あなたを建造することなのです。

こうしてあなたは心から、

 「主よ、感謝します。この5年間、十年間あなたのみ手が私の上にあって管理してくださったのは、ただ、わたしのこの頑強な点を砕くためであったことが、今わかりました。」
 
 というでしょう。

                  W・ニー
 
 

 全くアーメンです。

 私たちの口がどれほどに真理を語っているように聞こえても、いえ、真理の言葉が並べられていても、内にアーメンがないことがある。
外なる人がコテコテにまとわりついて出てくるんですね。

真に神からの対処を受ける、それが私たちにとってどれほどに必要なことでしょうか。

知識だけを得ることに素早くて、管理によって(聖霊の対処)その実際を学ぶことが、遅々として進まないというのは、なんとおかしなことでしょう・・というニーの言葉は本当に的を得ています。

これは、キリスト教界だけではなく、確かに真理について聞いている、学んでいる(私自身も)クリスチャンすべてに言えることです。

いのちの言葉が口からあふれ出ていたとしても、その実際を知らないことがある、その人から流れてくる真実にふれ、内なるいのちは決してアーメンと応答しません。どんなに道理が正しく聞こえてもです。

ニーの言葉を読んでいたら、いのちの実際を神から学んだ姉妹がキリスト教会でいろいろな話(証やメッセージその他)を聞いて、こんなことをよく話してくださったことを思い出します。

 「なぜだかわからないけど、聞いていると気持ちが悪くなる。」

それを聞いていた私自身もその当時は、本当の意味で理由がわかっていなかった。

 人のうちからあふれ出るもの、よいものであっても悪いものであっても、その印象は隠すことも、言葉でごまかすことも決してできないのだということです。

 バプテスマのヨハネの言葉

「 あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」

 あなたの外なる人は、聖霊の管理のもとに真に服し続けていますか?、

 
| ウオッチマン・ニー | 06:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
福音を伝えるということ
 救われていない人を見るたびに、あなたは福音を伝えなければならないと感じます。

あなたは自分の霊を解放しなければなりません。福音を伝えるということは、純粋に外なる人が砕かれ、内なる人が出てきて人に触れることができるということなのです。

あなたの霊が、人の霊に触れると、神の霊が暗黒の中にいたその霊を生かし、その結果、人は素晴らしい救いにあずかるのです。

しかし、もしあなたの霊が外なる人によって束縛されているなら、神はあなたの身に出口がなく、福音もまた、閉ざされてしまったままなのです。

こういうわけで、わたしたちは外なる人を対処することにひたすら注意を集中していなければなりません。もし私たちにその対処が欠けているなら、すべての道理を記憶していたとしても、わたしたちは魂を救うのに無力です。

人を救うということは、わたしたちの霊が人の霊にふれることなのです。

わたしたちの霊が人の霊にふれるなら、その人は神の御前にひれ伏さざる得なくなります。わたしたちの霊がまったく解き放たれるなら、人は確かに救われるでありましょう。

・・・・・

福音がもとの栄光あるものにまで回復するためには、福音を伝えるひとの身に、主は通路を持たなければならないのです。

                 霊の解放より  


福音を伝えるということが、なんと人の業、方法、力、知恵に取って代わってしまっていることでしょうか!

神のいのちが私のうちにふれられることを通して、私をいのちへと引き寄せてくださった

いのちだけが、いのちを生み出すことができる



「救いはもっとも深いもの、霊が霊にふれることであり

語る人の霊が出て光を放つとき初めて、罪びとが神のみ前にひれ伏すのです。これこそ、福音を伝える時に必要な霊なのです」
             
                  W・ニー


 
| ウオッチマン・ニー | 07:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
罪からの解放の願い
「私は、私が行為していることが、わからない。なぜならば、私は自分が欲していることを為すことをせず、むしろ自分が憎んでいることを行なっているからである。

もしも私が自分の欲していないことを行なっているとするならば、〔その判断を私は律法に従ってしているのであるから、〕律法が良いものであると認めていることになる。450717しかし今や、もはや私がそれを行為しているのではなく、むしろ私のうちに住んでいる罪が〔それを行為しているのである〕。

実際、私のうちには ――ということは私の肉のうちにはということだが ――善

いものが住んでいないということを、私は知っている。なぜならば、良いものを欲するということは私のうちにもあるのだが、それを行為するということがないからである。

私は自分が欲する善いことは行なわず、むしろ自分が欲しない悪いことをこそ為している。

もしも私が、[この自分の]欲しないことを行なっているとするならば、もはやこの私がそれを行為しているのではなく、私のうちに住んでいる罪が〔それを行為しているのである〕。

それゆえに、良いことを行なうことを欲している自分に、〔まさに〕その自分に、悪しきことが存するという法則を私は見いだす。

つまり私は、内なる人に従えば、神の律法を〔心のうちで〕喜んでいるが、

しかし私は、自分の肢体のうちに他の法則を見る。〔それは〕私の理性の法則に敵

対して陣営をはり、自分の肢体のうちにある罪の法則の中に私を捕虜にしてしる〔法則である〕。

私はみじめな人間だ。誰がこの死のからだから、私を救ってくれるのだろうか。

しかし、私たちの主イエス・キリストをとおして、神に感謝あれ。かくして私自身は、理性においては神の律法に隷属しているのだが、しかし肉においては罪の法則に隷属しているのである。

それゆえに、キリスト・イエスのうちにある者たちにとっては、今や〔神による〕断罪はない。

なぜならば、キリスト・イエスにおける生命の霊の法則は、あなたを罪と死との法則から自由にしたからである。」

    ローマ7:15〜8:2



  
 主を信じた人は、直ちに罪から解放されることができます。しかしながら、この経験に、初信者のすべてがあずかるというわけではありません。多くの人々は主を信頼した後も、罪から解放されてはいません。

むしろ、彼らはしばしば罪を犯す自分を発見します。彼らが救われていることには、また、主に属し、永遠の生命を持っていることには疑問がありません。しかし、彼らはしばしば罪に悩まされているという大きな困難が残っています。
こうして彼らが願うようには主に仕えることができません。

 次々と罪によって悩まされるほど、救われた人にとっての大きな苦しみはありません。彼は光によって照らされているので、彼の良心は敏感です。彼のうちには、罪を定罪する生命があります。ですから彼には罪意識があります。彼は深く自分の腐敗を感じ、自分自身を嫌悪します。これこそ、極度の苦しい経験です。

 この経験から問題が生じます。多くの信者は、罪が何であるかを本当には知りません。ある信者は、罪はそれに抵抗することによって避けることができるものと考えています。こうして彼らは、罪への誘惑に抵抗するために全力を尽くします。ほかの人々は、罪は打ち負かす必要のあるものと言い張ります。それで彼らは、罪を打破しようと望みつつ、いつも罪と戦います。
また、他の人々は、罪は私たちを縛り、私たちの自由を奪い取っているのだから、私たちがもし本当に奮戦するならば、その誘いから解放されるだろうと主張します。それゆえに、彼らは最善を尽くして奮戦します。

しかし、これら3つの観念は、単なる人の思いです。
それらは、神のみ言葉でもなければ、神の教えでもありません。それらはどれ一つとして人々を勝利へと導く成功をもたらすものではありません。

このことを特に注目するよう、私はあなた方に望みます。私個人として、人々が信じるや否や、彼らには、解放の道が示されるべきであると信じています。
私は、解放される前に多くの曲がり角を経なければならないということには同意しません。キリスト者生活のはじめから、この自由の道を歩むべきです。

神の御言葉は、私たちが罪に打ち勝つべきであるとは告げていません。むしろ、私たちが罪から解放されねばならぬこと、罪から自由にならねばならぬことを告げています。これこそ聖書の言葉です。罪は人を捕らえている力です。私たちはその束縛から解放されるべきであるのであって、その力を破壊するのではありません。私たちはそれを殺すことはできませんが、主が私たちをそこから移してくださいました。



  

  キリスト者の基本的な認識と経験
         「私ではなくキリスト」より抜粋

| ウオッチマン・ニー | 23:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
神は真実で正しい方

「もし私たちが自分の罪を言い表すなら、

神は真実で正しい方ですから、
 
その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめて下さいます。」

 汽茱魯唯院В

もし私たちが罪を犯したことを知り、またそれを告白するなら、神は私たちの罪を赦しすべての不義から私たちをきよめて下さいます。

彼はご自身の御言葉に忠実であり、ご自身のみわざに対して儀なる方であり、ご自身の約束に忠実であり、十字架上でのご自身の御子の贖いのみわざに対して義なる方です。

彼はご自分の言ったことゆえに赦す以外の何もできません。贖いのみわざゆえに彼は赦さねばなりません。彼の忠実さと義のゆえに彼は私たちの罪を赦し、すべての不義から私たちをきよめて下さいます。

ウオッチマン・ニー





 
主は真実で正しい方ですから、・・

という御言葉に思いを寄せています。

「彼はご自分の言ったことゆえに赦す以外なにもできません」

 主が赦してくださるのは、私の何かによらないということは、なんという希望でしょうか。

自分の何かによらない、これは本当に解放です。

畳を打ちたたいて自分の罪を悔いたから赦されるのではありません。
またそうしなかったから赦されないのでもありません。
またもう二度としないと約束したから赦されるのでもないのです。



ご自身が語られた言葉のゆえ

御子が成し遂げてくださった贖いのゆえに

流されたその血潮のゆえに

「赦す以外何もできない」

なんと真実な方でしょうか

赦すほかできないという無力さの中に現された深い愛

なんというへりくだりに満ちた神の憐れみでしょう。

これ以上なんと表現したらよいかわかりません。

私たちが犯してきたこと、背いてきた罪にかかわらず、

神ゆえに、すべての悪からきよめてくださるのです。

神の御心の内にある深い憐れみに満ちた赦し

それはあの放蕩息子が再び家に帰ってきたときに示した父親の姿を思い起こさせます。

腸のちぎれる思いで息子の首をかき抱いて抱きしめたあの父の姿です。

あの父の姿こそ、私たちに向けられた御顔

父の中にはもう赦しのほか何もありませんでした。

その赦しに満ち満ちた御姿に

触れること

真の自由はそこにあるのです





 

| ウオッチマン・ニー | 22:39 | comments(2) | trackbacks(0) |